婚約者に『庶民臭いコーヒー』と罵られ婚約破棄されたので、隣国の皇太子専属バリスタになります
「君のコーヒーは不味い。庶民臭くて吐き気がする」
社交界の華やかなサロン。衆人環視の中で、婚約者のエドワード様は私が差し出したカップを床に叩きつけた。
白磁が砕け散る音。琥珀色の液体が大理石の床に広がっていく。
——ああ、今朝四時に起きて焙煎した、自信作だったのに。
「リゼット。君には令嬢としての嗜みが欠けている」
エドワード様の金髪が燭台の光を受けて輝いている。その完璧な笑顔の下で、碧い瞳は少しも笑っていない。
五年間、毎朝淹れ続けた。
五年間、「美味しい」の一言すらもらえなかった。
(知ってた。知ってたわよ、そんなこと)
「紅茶こそが貴族の飲み物だ。セレスティーヌを見たまえ。彼女は完璧な淑女だ」
傍らに控えた菫色の瞳の令嬢が、憐れむような微笑みを浮かべる。
「まあ、エドワード様。リゼット様も一生懸命でいらしたのよ。ただ少し……その、庶民的な趣味に固執されすぎただけで」
(この女、絶対わざとやってる)
周囲からくすくすと笑い声が漏れる。
「婚約は解消させてもらう」
エドワード様の宣告は、驚くほどあっさりとしていた。
「……承知いたしました」
頭を下げながら、私は静かに息を吐いた。
悔しい? 悲しい?
——いいえ。
ただ、疲れた。
◇
「工房を閉鎖しろ」
帰宅した私を待っていたのは、父の冷たい声だった。
「侯爵家の令嬢が焙煎工房など。道楽にしても度が過ぎる」
「……はい、お父様」
反論する気力すら残っていなかった。
その夜。
私は人目を忍んで、屋敷の離れにある小さな工房へ向かった。
月明かりだけを頼りに、最後の一杯を淹れる。
湯を注ぐ。八十五度。最初の三十秒は蒸らし。
立ち昇る香りが、鼻腔をくすぐる。
ナッツのような甘さと、微かな果実の酸味。三ヶ月かけて完成させた、私の最高傑作。
(誰にも認めてもらえなかったけど)
(この一杯だけは、私の誇りだから)
カップを唇に近づけた、その時。
「——失礼。まだ営業しているだろうか」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、質素な外套を纏った青年が立っていた。
銀灰色の髪。氷のような青い瞳。
商人にしては姿勢が良すぎる。貴族にしては装いが地味すぎる。
「申し訳ありません。本日で閉店なのです」
「そうか。……残念だ」
去ろうとする背中に、私は思わず声をかけていた。
「あの、もしよろしければ」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。
ただ、この一杯を誰かに飲んでほしかった。
最後に一度だけ、「美味しい」と言ってほしかった。
(……未練がましいわね、私)
「最後の一杯、お淹れしましょうか」
青年が振り返る。
月明かりに照らされたその表情は、無機質なほど整っていた。
「……いいのか」
「ええ。どうせ捨てるところでしたから」
嘘だ。自分で飲むつもりだった。
でも、なぜか彼に飲んでほしいと思った。
新しくカップを用意し、丁寧に一杯を淹れる。
青年は無言でカップを受け取り、一口含んだ。
その瞬間。
彼の氷のような瞳が、大きく見開かれた。
「——これは」
カップを持つ手が、微かに震えている。
「君が淹れたのか。この、コーヒーを」
「はい。……お口に合いませんでしたか?」
(ああ、やっぱり駄目だったかしら。庶民臭い味だって言われるのかしら)
覚悟して身構える私に、青年は静かに告げた。
「美味しい」
「——え?」
「信じられないほど、美味しい」
その声は、震えていた。
「三年ぶりだ」
「……三年?」
「三年ぶりに——味がわかった」
青年の瞳に、微かな光が宿る。
それは、砂漠で水を見つけた旅人のような、切実な輝きだった。
「君の名は」
「リゼット・フォン・ヴァレンシア、と申します」
「リゼット」
私の名を、噛みしめるように呟く。
そして青年は、外套の下から何かを取り出した。
——皇族の紋章が刻まれた、身分証。
「私はアルフレッド・ヴィクトール・ラインハルト。隣国の皇太子だ」
息が止まる。
「この一杯を、我が国の宮廷に持ってきてほしい」
真剣な青い瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「君のコーヒーが必要だ。——私には、君が必要だ」
月明かりの下、皇太子殿下は深々と頭を下げた。
(……ちょっと待って)
(いま何が起きてるの?)
割れたカップの破片がまだ心に残っている。「庶民臭い」「吐き気がする」という言葉の棘が、まだ刺さったままだ。
なのに目の前の皇太子殿下は、「美味しい」と言った。「必要だ」と言った。
「あの、殿下。顔を上げてください。私などに頭を下げられては——」
「断るか?」
「いえ、そうではなく」
「ならば来てくれるか」
青い瞳が、じっと私を見つめる。
無表情なのに、どこか必死さが滲んでいる。
(この人、もしかして交渉が下手……?)
そう思ったら、少しだけ肩の力が抜けた。
「……条件があります」
「何でも言え」
「自分の好きなように、コーヒーを淹れさせてください。口出し無用で」
「当然だ」
「あと、材料は最高のものを」
「国庫から出す」
「それから——」
私は、自分でも驚くほど穏やかに笑った。
「『庶民臭い』とは、言わないでくださいね」
アルフレッド殿下は、一瞬きょとんとした顔をした。
そして、ほんの微かに——本当に微かに——口元が緩んだ。
「約束する」
月明かりの下、私の新しい人生が始まった。
コーヒーの香りと共に。
◇
隣国ラインハルト帝国。
馬車で国境を越えて三日。私は皇宮の一角に設けられた、真新しい焙煎室にいた。
「これが、私の仕事場……」
広い。明るい。設備が整いすぎている。
祖国の離れにあった小さな工房とは比べ物にならない。
(夢みたい。本当に夢みたい)
「リゼット殿」
振り返ると、赤茶色の髪を無造作に束ねた青年が立っていた。アルフレッド殿下の側近、マティアス・ローゼンベルク様だ。
「殿下がお呼びです。朝のコーヒーを所望されています」
「すぐに参ります」
◇
皇太子の私室は、意外なほど質素だった。
黒を基調とした調度品。必要最低限の装飾。軍人のような清潔さ。
窓辺に立つアルフレッド殿下の背中は、相変わらず隙がない。
「来たか」
振り返りもせずにそう言う。
(……愛想がないのは国民性かしら)
「本日のコーヒーをお持ちしました」
「ああ」
カップを受け取り、一口含む。
その瞬間——あの夜と同じように、殿下の表情が微かに緩んだ。
「……美味い」
「ありがとうございます」
「昨日とは違う味がする」
「ええ。本日は深煎りにしてみました。殿下のお好みを探っているところでして」
「そうか」
殿下はカップを見つめ、静かに言った。
「君のコーヒーを飲むと、世界に色がつく気がする」
「……色、ですか」
「ああ。普段は灰色なのだ。何を見ても、何を食べても」
その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「殿下。差し支えなければ教えていただきたいのですが——味覚を失いかけている、というのは」
青い瞳が、初めて私を正面から見た。
「知っていたのか」
「『三年ぶりに味がわかった』と仰っていましたから。推測ですが」
殿下は少し驚いたように目を瞬かせた後、窓の外に視線を戻した。
「三年前から徐々に味がわからなくなった。原因は不明だ。宮廷医にも見せたが、治療法はないと言われた」
淡々とした口調。まるで他人事のように。
「宮廷料理も、高級な茶も、すべてが灰のようだった」
「……それは、おつらかったでしょう」
「慣れた」
嘘だ、と思った。
慣れるはずがない。食べることは生きること。味を失うということは、人生の彩りを失うということだ。
「なのに、君のコーヒーだけは違った」
殿下がこちらを向く。
「鮮烈に、舌の上で踊る。温かさも、苦みも、香りも——すべてが感じられる」
「……なぜ私のコーヒーだけ」
「わからない」
殿下は真剣な表情で首を振った。
「理由などどうでもいい。君のコーヒーは、私にとって世界で唯一の光だ」
(それは)
(少し、重くないですか殿下)
内心でツッコミを入れながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
五年間、「庶民臭い」と言われ続けた。
「令嬢の嗜みではない」と否定され続けた。
誰にも認めてもらえなかった私のコーヒーが、目の前の人には「唯一の光」だと言う。
「……私で良ければ」
いつの間にか、言葉が溢れていた。
「毎日お淹れします。殿下がお望みの限り、何杯でも」
「ああ。頼む」
殿下は頷き、そしてふと思い出したように付け加えた。
「それと——」
「はい?」
「君のコーヒーは毒ではない」
「……は?」
「褒めている」
真顔でそう言われた。
(褒めてる? これが?)
(殿下、もしかして褒め言葉のレパートリーが壊滅的なのでは……?)
「あ、ありがとうございます……?」
困惑する私を見て、殿下は小さく首を傾げた。
「何かおかしかったか」
「いえ! 何も!」
◇
「で、どうだった? 殿下のご様子は」
マティアス様が、廊下で待ち構えていた。
「お好みを探るのに、もう少し時間がかかりそうです」
「ふうん。でも殿下、久しぶりに穏やかな顔してたよ」
「そう、でしょうか」
「うん。あの人、ここ数年ずっと能面みたいな顔だったからね。君が来てから明らかに違う」
マティアス様は飄々と笑いながら、声を潜めた。
「殿下の味覚のこと、知ってるんでしょ?」
「……はい」
「僕と君しか知らない秘密だよ。皇太子が味覚障害なんて、政敵に知られたら何を言われるかわからないからね」
「口外しません」
「うん、信じてる。——だからこそ、お願いがあるんだ」
緑色の瞳が、真剣な光を帯びた。
「殿下を頼む。君のコーヒーは、あの人にとって希望なんだ」
「……私に、そんな大それたことが」
「できるよ」
マティアス様は断言した。
「君は——殿下を救える。僕が保証する」
重い言葉だった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
誰かに必要とされている。
私のコーヒーが、誰かの光になっている。
それだけで、この国に来た価値があると思えた。
◇
その日の夜。
焙煎室で翌日の準備をしていると、ノックの音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは、栗色のショートヘアの女性。宮廷メイド長のオリヴィア・シュトラウスだ。
「夜分に失礼します。リゼット様」
「シュトラウス様。何かご用でしょうか」
「一つ確認させてください」
彼女の目は、値踏みするように鋭かった。
「貴女は本気で、毎朝殿下にコーヒーを淹れるおつもりですか」
「はい」
「貴族のお嬢様が、毎朝四時起きで?」
「四時では遅いくらいです。最高の一杯を淹れるには、焙煎から始めなければなりませんから」
オリヴィアさんは目を丸くした。
「……本気なのね」
「ええ。私にはこれしかありませんから」
沈黙が流れる。
やがて、オリヴィアさんは小さくため息をついた。
「わかりました。厨房の使用許可、出しておきます。必要な道具があれば言ってください」
「ありがとうございます」
「……一つだけ、言っておきます」
去り際、彼女は振り返った。
「殿下があんなに穏やかな顔をするのは、私も初めて見ました」
「——え」
「精々頑張りなさい。没落令嬢さん」
バタン、と扉が閉まる。
(……今のは、応援されてる?)
(それとも皮肉?)
どちらかわからないまま、私はコーヒー豆の選別を再開した。
明日も、殿下に最高の一杯を届けるために。
◇
ラインハルト帝国に来て、一ヶ月が経った。
「また来たわ、あの没落令嬢」
「コーヒーですって? そんな庶民の飲み物を殿下に……」
「きっとすぐに飽きられるわよ」
宮廷の廊下を歩くたびに、陰口が聞こえる。
(まあ、想定内ね)
私は聞こえないふりをして、焙煎室へ向かう。
隣国で婚約破棄された令嬢。実家を勘当同然で飛び出した娘。そんな女が皇太子専属バリスタとして迎え入れられたのだ。反感を買わないはずがない。
「リゼット様!」
オリヴィアさんが駆け寄ってきた。
「大変です。本日の茶会、殿下が貴女のコーヒーを出すと仰っています」
「……は?」
「宮廷の主要貴族を招いた茶会です。普通は紅茶を出すところを、コーヒーに変更すると」
(ちょっと待って殿下)
(それ、絶対反発されるやつでは)
「止められないのですか」
「殿下の決定は覆りません。それに——」
オリヴィアさんは少し言いにくそうに続けた。
「殿下は『リゼットのコーヒーの価値を、宮廷に知らしめる』と」
(……殿下)
(不器用にも程があるでしょう)
でも、嬉しかった。
認めてもらえなかった五年間。「庶民臭い」と笑われた日々。
それでも殿下は、私のコーヒーを宮廷に出すと決めてくれた。
「わかりました」
私は深呼吸した。
「最高の一杯を、お出しします」
◇
茶会の会場は、緊張感に包まれていた。
円卓を囲む貴族たちの視線が、私に突き刺さる。
「これが噂の没落令嬢か」
「本当にコーヒーなど出すのかね」
「殿下も物好きな」
囁き声が飛び交う中、私は平静を装って準備を進める。
(大丈夫。いつも通りに淹れればいい)
(私のコーヒーは、美味しい。殿下が証明してくれた)
湯を注ぐ。香りが立ち昇る。
「——何だ、この香りは」
誰かが呟いた。
「こんなに豊かな香りのコーヒーがあるのか」
カップを一人一人に配っていく。
最初に口をつけたのは、白髪の老公爵だった。
一口。
沈黙。
「…………」
(だめ、だったかしら)
心臓が痛いほど鳴る。
老公爵は、ゆっくりとカップを置いた。
「美味い」
「え」
「これは——美味い。今まで飲んだどのコーヒーとも違う」
「私も同感だ。なんという深みだ」
「香りも素晴らしい。これが本物のコーヒーというものか」
次々と、賛辞が上がり始めた。
「殿下。このバリスタ、どこで見つけられたのです」
「隣国だ」
アルフレッド殿下は、淡々と答えた。
「彼女は隣国では認められなかった。だから私が迎えた」
「なんと。隣国は何を見ていたのか」
「さあな。だが、我が国にとっては僥倖だ」
殿下がこちらを見る。
相変わらずの無表情。でも、その青い瞳には確かな温もりがあった。
「——リゼット」
「はい」
「よくやった」
たった一言。
でも、その一言が胸に染みた。
(ああ)
(認めてもらえるって、こういうことか)
五年間、ずっと欲しかった言葉。
エドワード様からは一度も聞けなかった言葉を、殿下はくれた。
「ありがとうございます、殿下」
目頭が熱くなる。
泣いてはいけない。ここは宮廷の茶会だ。
でも——
「リゼット様! もう一杯いただけないかね」
「私もだ。このブレンドのレシピを教えてもらえないだろうか」
「我が家でも出したいのだが」
貴族たちが次々と声をかけてくる。
一ヶ月前まで「没落令嬢の道楽」と蔑まれていたのに。
「喜んで」
私は微笑んで、次のカップの準備を始めた。
◇
茶会の後。
「大成功でしたね」
マティアス様が、にやにやしながら近づいてきた。
「殿下、茶会の後ずっと上機嫌ですよ。あの殿下が」
「そうでしょうか。表情、変わっていませんでしたが」
「いや、わかる人にはわかるんです。口角が0.5ミリくらい上がってる」
「……0.5ミリ」
(殿下の感情表現、難易度が高すぎる)
「ま、これでリゼット嬢の立場も安泰ですね。宮廷一のコーヒー職人として認められた」
「ありがとうございます」
「でも、油断しないで」
マティアス様の声が、少し低くなった。
「成功すれば、それを妬む者も出てくる。レシピを狙う者も」
「……はい」
「殿下は貴女を守ると決めています。でも、自衛も必要です」
「肝に銘じます」
不穏な予感を胸に、私は焙煎室へ戻った。
◇
その夜、焙煎室で作業をしていると。
「——リゼット」
振り返ると、殿下が立っていた。
「殿下。どうされましたか」
「……眠れない」
「コーヒーをお持ちしましょうか?」
「いや」
殿下は少し躊躇してから、言った。
「君が淹れているところを、見ていてもいいか」
「……はい、もちろん」
殿下は椅子に座り、黙って私の作業を見つめている。
しばらく無言が続いた後、ぽつりと呟いた。
「君の手際は美しいな」
「えっ」
「無駄がない。見ていて心地よい」
(褒められてる。これは確実に褒められてる)
「あ、ありがとうございます」
「今日の茶会も、よかった」
「はい」
「君のコーヒーが認められて——私も、嬉しかった」
殿下の声は、いつもより少し柔らかい。
「君は、この国に必要な人間だ」
そう言って、殿下は立ち上がった。
「明日も、楽しみにしている」
「——はい。おやすみなさいませ、殿下」
扉が閉まる。
私は胸を押さえた。
(……心臓がうるさい)
(これは、仕事への評価よね? そうよね?)
ドキドキが止まらない。
困る。すごく、困る。
(私、もしかして——)
その先は、考えないことにした。
◇
リゼットのコーヒーが宮廷で話題になってから、さらに一ヶ月。
その評判は、国境を越えて隣国にも届いていた。
◇
「エドワード様、お聞きになりましたか?」
セレスティーヌは、紅茶のカップを優雅に傾けながら言った。
「リゼット様、隣国で大変な評判だとか」
「……ああ」
エドワードの表情は、苦々しく歪んでいた。
「信じられないな。あの庶民臭いコーヒーが、なぜ」
「それが、ラインハルト帝国の皇太子殿下のお気に入りだとか。専属バリスタとして迎えられたそうですわ」
「皇太子だと?」
「ええ。しかもあの『氷の皇太子』と呼ばれる方が、リゼット様のコーヒーだけは召し上がるのですって」
エドワードの脳裏に、一つの考えが浮かんだ。
(待てよ。これは——チャンスではないか?)
「リゼットのコーヒーの価値を見出したのは、実は私なのだ」
「まあ、エドワード様?」
「考えてもみろ。彼女と婚約していたのは私だ。毎朝コーヒーを淹れさせていたのも私だ。つまり——」
エドワードは立ち上がった。
「彼女の才能を育てたのは、この私ということになる」
セレスティーヌは目を丸くした。
(……あの方、毎朝『庶民臭い』と言っていたのに?)
「リゼットを連れ戻そう」
「え?」
「隣国との貿易交渉の席で、彼女を返すよう要求する。元々彼女は我が国の侯爵令嬢だ。勝手に連れ出されたと言えばいい」
「でもエドワード様、婚約を破棄されたのは——」
「それとこれとは別だ!」
エドワードの碧い瞳が、野心に輝いた。
「リゼットを手に入れれば、隣国で話題のコーヒーを独占できる。我が家の評価も上がる。一石二鳥だ」
セレスティーヌは、微笑みを浮かべながら思った。
(この人、本当に何もわかっていないのね)
(そしてわたくしは、こんな人を選んでしまった……)
後悔の種が、小さく芽吹き始めていた。
◇
一方、ラインハルト帝国。
「リゼット殿、少しいいかな」
マティアス様が、いつになく真剣な顔で訪ねてきた。
「どうされましたか?」
「隣国から、奇妙な動きがある」
「……奇妙な動き?」
「君の元婚約者——エドワード・ハイランド公爵子息が、君を連れ戻そうとしているらしい」
心臓が、ドクンと跳ねた。
「なぜ」
「表向きは『誘拐された令嬢を取り戻す』という大義名分。実際は——」
マティアス様は肩をすくめた。
「君のコーヒーが欲しいんだろうね。自分が見出した才能だと吹聴しているとか」
(……は?)
(毎朝「庶民臭い」と言っていた人が?)
怒りより先に、呆れが込み上げた。
「笑えないわね」
「だろ? でも厄介なのは、向こうが正式な外交ルートを使おうとしていることだ」
「私、売られてしまうのでしょうか」
「まさか」
マティアス様は、にやりと笑った。
「殿下が許すわけないでしょ」
◇
その日の夕刻。
私は殿下の執務室に呼ばれた。
「聞いたか」
「はい」
「怖いか」
「……少し」
正直に答えた。
エドワード様に連れ戻されるかもしれない。あの国に帰されるかもしれない。
また、「庶民臭い」と蔑まれる日々が——
「リゼット」
殿下が、私の前に立った。
「私は君を渡さない」
「殿下」
「理由は二つある」
殿下は真剣な表情で続けた。
「一つ。君は我が国にとって重要な人材だ。外交上の駆け引きに使われるべきではない」
「……はい」
「二つ目」
殿下が、一歩近づいた。
「私が——君を失いたくない」
息が、止まった。
「君のコーヒーは、私の光だと言った」
「はい」
「それは今も変わらない。いや——変わった」
青い瞳が、まっすぐに私を見つめる。
「今は、君自身が私の光だ」
「殿下……」
「君のコーヒーを飲む時間。君が淹れる姿を見る時間。君と話す時間。そのすべてが——私にとってかけがえのないものになった」
殿下の手が、私の手に触れた。
硬くて、温かい手。
「だから守る。国を挙げてでも、君を守る」
「……私は」
声が震える。
「私はそこまでの価値がある人間でしょうか。没落令嬢で、婚約破棄されて、コーヒーしか取り柄がなくて——」
「ある」
殿下は断言した。
「価値がある。君には、計り知れない価値がある」
「でも」
「リゼット」
殿下は、不器用に言葉を探した。
「君は——私の、たった一人の人だ」
涙が、零れた。
止められなかった。
五年間。誰にも認めてもらえなかった五年間。
「不味い」と言われ、「庶民臭い」と笑われ、「令嬢の嗜みではない」と否定され続けた。
でも今、目の前の人は言ってくれた。
「たった一人」だと。
「……ありがとうございます」
かすれた声で、それだけを言った。
殿下は困ったように眉を寄せた。
「泣かせるつもりはなかった」
「嬉し涙です」
「そうか」
「はい」
「……なら、いいのか?」
「はい」
殿下は、ぎこちなく手を伸ばし——私の涙を拭った。
「明日も、コーヒーを頼む」
「……はい。最高の一杯を」
泣きながら、笑った。
この人のために、淹れよう。
明日も、明後日も、ずっと。
◇
貿易交渉の日がやってきた。
会場には、両国の貴族が居並んでいる。
「それでは、ラインハルト帝国に対し、我が国からの正式な要請を伝える」
隣国の使節団長が立ち上がった。
「リゼット・フォン・ヴァレンシア嬢は、我が国の侯爵家の令嬢である。彼女を不当に連れ去ったことに対し、説明を求める」
会場がざわめく。
アルフレッド殿下は、無表情のままだった。
「不当に連れ去った、とは穏やかではないな」
「彼女は我が国の貴重な人材だ。返還を要求する」
「……人材、ね」
殿下の声に、冷たい棘が混じった。
「貴国は彼女のことを、どのような人材だと認識していた?」
「は?」
「彼女が毎朝淹れていたコーヒーを、貴国の貴族たちは何と呼んでいた?」
使節団長は言葉に詰まった。
「聞くところによると——『庶民臭い趣味』だそうだな」
「それは」
「『令嬢の嗜みではない』とも」
殿下が立ち上がった。
「価値のないと判断して婚約破棄し、追い出しておいて。評判になった途端に『返せ』とは——」
青い瞳が、氷のように冷たく輝いた。
「笑わせる」
会場が凍りついた。
「リゼット・フォン・ヴァレンシア嬢は、我がラインハルト帝国の皇太子専属バリスタだ。彼女の才能を見出したのは我が国であり、育てたのも我が国だ」
「しかし——」
「それに」
殿下は一歩、前に出た。
「彼女は我が国の宝であり——」
一瞬の沈黙。
「——私の、たった一人の人だ」
会場中が、息を呑んだ。
「私は彼女を国賓として遇し、望むならば皇太子妃として迎える用意がある」
「な——」
「異論があるなら聞こう。ただし——」
殿下の声が、会場に響いた。
「彼女を傷つけようとする者は、国であろうと個人であろうと、容赦しない」
◇
私は、会場の隅で聞いていた。
(殿下……)
心臓がうるさい。顔が熱い。
『たった一人の人』
『皇太子妃として迎える用意がある』
公の場で、そこまで言ってくれた。
「リゼット嬢」
マティアス様が、にやにやしながら近づいてきた。
「殿下の愛の告白、聞こえました?」
「……聞こえました」
「どうです? お気持ちは」
「その」
私は真っ赤になりながら答えた。
「嬉しい、です。すごく」
「ですよね。じゃあ返事、しに行きます?」
「今ですか!?」
「今じゃなくていつするんです。殿下、あれで相当緊張してたんですよ」
「緊張? 全然そう見えませんでしたが」
「表情は変わらないですけど、朝から三回もコーヒーおかわりしてました」
「……三回」
(殿下、緊張すると飲み物を摂取するタイプなのかしら)
会場の前方を見ると、殿下が使節団と険しいやり取りを続けていた。
その横顔は、相変わらず無表情で——でも、どこか緊張しているように見えた。
(この人のために)
(私にできることは——)
「マティアス様」
「はい」
「厨房を借りてもいいですか」
◇
交渉が一段落したところで、私は会場に戻った。
「殿下」
「リゼット。なぜここに」
「コーヒーをお持ちしました」
持参したトレイには、二人分のカップ。
「交渉でお疲れかと思いまして」
「……ああ」
殿下は、カップを受け取った。
一口含む。
例によって、微かに表情が緩む。
「美味い」
「ありがとうございます」
「今日のは、いつもと少し違うな」
「ええ。特別なブレンドです」
「特別?」
私は、深呼吸した。
「殿下に、お返事をしようと思いまして」
殿下の動きが、止まった。
「……返事」
「先ほど、公の場で仰いましたよね。『たった一人の人』だと」
「言った」
「『皇太子妃として迎える用意がある』とも」
「……言った」
殿下の耳が、微かに赤くなっている。
(あ、照れてる)
(殿下、意外と可愛いところあるのね)
「私の答えは——」
私は、もう一つのカップを持ち上げた。
「毎朝、殿下にコーヒーを淹れ続けることで、示したいと思います」
「……それは」
「一生、殿下のそばで。一生、最高の一杯を」
殿下の瞳が、大きく見開かれた。
「リゼット」
「はい」
「それは——承諾と受け取っていいのか」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
殿下は、しばらく黙っていた。
そして——
「……よかった」
珍しく、安堵の息を吐いた。
「正直、断られる可能性も考えていた」
「なぜです?」
「私は不器用だ。愛情表現も下手だ。君にふさわしいかどうか——」
「殿下」
私は、殿下の手を取った。
「五年間、毎朝コーヒーを淹れ続けて、一度も『美味しい』と言ってもらえませんでした」
「……」
「でも殿下は、最初の一杯で『美味しい』と言ってくれました。私を必要だと言ってくれました」
「当然だ」
「それだけで、十分です」
殿下の手が、私の手を握り返した。
「リゼット」
「はい」
「……ありがとう」
その声は、どこか震えていた。
◇
「いやあ、めでたいめでたい」
マティアス様が、遠くでこっそり見守っていた。
「殿下、ついに春が来ましたね……長かった……」
「マティアス」
殿下の冷たい声が飛んできた。
「見るな」
「見てませんよ! 全然見てません!」
慌てて逃げていく背中を見送りながら、私はくすりと笑った。
(この国に来て、本当によかった)
エドワード様に婚約破棄されて、お父様に工房を閉鎖させられて。
あの時は、世界が終わったと思った。
でも——
「リゼット」
「はい、殿下」
「明日も、楽しみにしている」
殿下の、不器用な笑顔。
「はい。最高の一杯を」
私の新しい人生は、一杯のコーヒーから始まった。
◇
皇太子妃として迎えられてから、一年が経った。
宮廷に併設されたカフェ「アウローラ」は、今や帝国で最も人気のある場所になっていた。
「リゼット様、本日もご盛況ですね」
オリヴィアさんが、嬉しそうに報告してくる。
「貴族だけでなく、町の人々も訪れるようになりました。殿下のお許しで、一般開放した甲斐がありましたね」
「ええ。コーヒーは、誰もが楽しめるものですから」
私は、朝の仕込みを続けながら答えた。
「庶民臭い」と言われた趣味が、今では国を代表する文化になりつつある。
皮肉なものだ。そして、痛快でもある。
「リゼット」
「殿下。おはようございます」
定刻通り、アルフレッドがやってきた。
朝のコーヒーを淹れる。いつもの儀式。
「——美味い」
「ありがとうございます」
「今日のは、少し酸味が強いな」
「ええ。新しい産地の豆を試しています」
「いい香りだ」
アルフレッドは、穏やかに微笑んだ。
この一年で、殿下の表情は随分と柔らかくなった。味覚も、少しずつ回復しているらしい。
「君のコーヒー以外も、最近は味がわかるようになってきた」
「本当ですか!」
「ああ。医師によると、精神的なものだったのではないかと」
「精神的?」
「孤独と、将来への不安。それが味覚を鈍らせていたらしい」
アルフレッドは、私の手を取った。
「君がそばにいてくれるようになって、それが解消されたのかもしれない」
「……よかった」
心から、そう思った。
「でも」
「でも?」
「君のコーヒーが一番美味いのは、変わらない」
「ふふ。ありがとうございます」
◇
その日の午後。
「リゼット様、お客様です」
オリヴィアさんの声が、少し緊張している。
「お客様?」
「隣国から……エドワード・ハイランド公爵子息様が」
心臓が、一瞬跳ねた。
でも、すぐに落ち着いた。
(今さら、何の用かしら)
「お通しして」
◇
カフェに現れたエドワード様は、一年前より随分とやつれていた。
「リゼット……いや、皇太子妃殿下」
「お久しぶりです、エドワード様」
私は、穏やかに微笑んだ。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「その……お願いがあって参った」
「お願い?」
「君の——いや、殿下のコーヒーを、我が国でも扱わせてほしい」
(……ほう)
「貿易品として、輸入したいのだ。今や君のコーヒーは大陸中で話題になっている。我が国だけが取り残されている状況だ」
「なるほど」
「頼む。我が家の商売も、最近は苦しくて……」
エドワード様の目には、かつての傲慢さはなかった。
ただ、追い詰められた男の切実さがあった。
(一年前は、私を連れ戻そうとしていたのに)
(今は、私のコーヒーを懇願している)
皮肉な話だ。
「エドワード様」
「なんだ」
「一杯、お淹れしましょうか」
「——え?」
「せっかくお越しいただいたのですから」
私は、新しいカップを用意した。
丁寧に、心を込めて——でも、かつてのような報われない献身ではなく。
ただ、客人へのもてなしとして。
「どうぞ」
エドワード様は、恐る恐るカップを受け取った。
一口含む。
「…………」
「いかがですか」
「……美味い」
エドワード様の声は、震えていた。
「こんなに美味いとは、知らなかった」
「毎朝、五年間お出ししていましたけれど」
「……ああ」
「一度も、飲んでくださいませんでしたね」
沈黙が落ちた。
「リゼット。私は——」
「いいのです」
私は、微笑んだ。
「過去のことですから」
「すまなかった」
エドワード様が、頭を下げた。
「君の才能を見抜けなかった。庶民臭いなどと——愚かだった」
「本当に」
「……え?」
「本当に愚かでしたね、エドワード様」
にっこりと笑って言ってやった。
「でも、おかげで私は最高の人生を手に入れました。殿下と出会えたのも、あなたに婚約破棄されたからです」
「……」
「だから感謝していますわ。ある意味で」
皮肉ではない。本心だ。
あの夜、工房で最後の一杯を淹れていなければ。
アルフレッドとは、出会えなかった。
「貿易の件は、正式なルートで申請してください。検討はいたします」
「——ありがとう」
「それから、お代はいただきますね。一杯銀貨二枚です」
「……高いな」
「庶民臭いコーヒーですから、お安いものでしょう?」
エドワード様は、苦笑いを浮かべた。
「参った」
◇
「見てたぞ」
背後から、アルフレッドの声。
「殿下。いつから」
「最初から」
「まあ」
「よく我慢したな」
「別に、我慢なんて」
「してただろう。内心で毒づいていたはずだ」
バレている。
「……少しだけ」
「どんな?」
「言えません」
「言え」
「……『この人、味覚音痴だったのかしら』と」
アルフレッドは、声を出して笑った。
珍しい。この人が声を出して笑うところなんて、滅多に見られない。
「いい気味だ」
「殿下、品がありませんわ」
「構わない。君の敵だった男だ」
「もう敵ではありません。哀れな負け犬です」
「……君も相当だな」
「殿下に似たのかもしれません」
二人で笑い合った。
窓の外には、穏やかな陽光が差し込んでいる。
「リゼット」
「はい」
「もう一杯、淹れてくれ」
「かしこまりました」
新しいカップを用意する。
「今日は、どんな味にしますか」
「君の好きなように」
「では、少し甘めに」
「ああ。楽しみだ」
◇
夕暮れ時。
カフェの営業が終わり、私は最後の片付けをしていた。
「リゼット様」
オリヴィアさんが、手紙を持ってきた。
「お父様からです」
「父から?」
珍しい。家を出てから、一度も連絡はなかったのに。
封を開ける。
短い手紙だった。
『リゼット
皇太子妃になったと聞いた。
君のコーヒーが、大陸中で評判になっているとも。
私は君を守れなかった。工房を閉じさせた。
許しを請う資格はない。
ただ、一つだけ伝えたいことがある。
君のコーヒーは、美味しかった。
いつも、美味しかった。
父より』
涙が、零れた。
(お父様……)
五年間。一度も言ってくれなかった言葉。
最後の最後で、ようやく届いた。
「リゼット」
アルフレッドが、そっと肩を抱いた。
「泣いているのか」
「……嬉し涙です」
「そうか」
「父が、美味しかったと」
「当然だ。君のコーヒーは世界一美味い」
「殿下は、私の味方すぎます」
「当然だ。君の夫だからな」
泣きながら、笑った。
報われなかった五年間。
誰にも認めてもらえなかった日々。
でも今、私は世界で一番幸せだ。
「殿下」
「なんだ」
「明日も、美味しいコーヒーを淹れますね」
「ああ。楽しみにしている」
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。
明日も、明後日も、私は一杯のコーヒーを淹れ続ける。
愛する人のために。
そして、私自身のために。
コーヒーの香りは、今日も幸せな一日の終わりを告げていた。
——おしまい。




