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第三章 彼は世界を刻む書になりたい

 この家は息苦しいほどに狭かった。ただ空間の広さだけで言えば、ディワンの家は多くの人の家よりもはるかに大きかった。それでも、拭い去ることのできない窮屈な感覚があった。


 彼はかつて、この感覚を壊そうとした。カーペットを剥がし、壁紙を破り、床に小麦粉をばら撒いた。だが、何も変わらなかった。


 年を重ねるごとに、彼は少しずつその原因を理解し始めた。いつも家にいる女、彼とファンが「母親」と呼ぶその女が、部屋の酸素をすべて奪い去っていたのだ。


 家がそうなら、学校も大してましではなかった。


 ファンは学校では活発で、いつも人に囲まれていた。だが、ディワンはいつも一人だった。彼らは流行の服や玩具の話をし、誰が誰を好きになったかという話をしていた。ディワンにとって、それらはただの無意味な音の羅列だった。もし無理に合わせようとすれば、彼がかろうじて身体の中に留めている酸素すら枯渇してしまうだろう。


 呼吸をするために、ディワンは書庫へ向かった。本は一冊ごとに開かれた窓であり、彼に呼吸のための通路を与えてくれた。


 本の世界はどこまでも広がっている。


 彼は本を愛している。


 基礎学校を卒業すると、彼は進学を選んだ。彼は解析学校で「遺跡」の産物について学んだ。彼の世界は広がるだけではなく、深みを持つようになった。


 記憶方塊に「読取」の魔力を使えば、遺跡から膨大な知識を得ることができる。解析学校を卒業した者の大多数は元の遺跡都市に留まり、探索隊が持ち帰った記憶方塊を読み取ることしかできない。ディワンは探索隊の一員となり、誰も開いたことのない遺跡を開き、誰も触れたことのない記憶方塊に手を伸ばしたい。


 幸いなことに、彼の魔力は入隊基準を満たしている。あとは知識次第だ。彼は必死に勉強した。彼ならできると分かっている。


 解析学校では、自然と彼の周りに人が集まるようになった。基礎学校でファンの周りに集まっていた人々とは違う。彼の周囲に集まった人々は、意味のある言葉を話す者たちだ。彼らは一人ひとりが、ディワンにとっての呼吸のための窓だ。






 解析学校にはユーロという女子生徒がいる。彼女はいつもディワンと第一名の座を争っている。何度も成績順位表の上位に並んでいるのを見かけるうちに、自然と互いの名前を覚えるようになった。そして、ほんの些細なきっかけ──図書館の入口での挨拶、課題の範囲について互いに確認し合ったこと、食堂で席がなくて相席すること──そうした偶然が積み重なり、自然と親しくなっていった。


 気づけば、二人は一緒に勉強する関係になっている。


 ユーロは賢く、彼女の言葉にはすべて意味があった。


 例えば、海流が形成される仕組みや、魔力を使わない換気システムの原理、生物進化の分岐条件……


「死は生物の進化に影響を与える」ユーロは言った。「例えば、牙のないゾウはもともとごく少数で、遺伝的な欠陥だった。でも、もし人類が牙のあるゾウを大量に狩れば、『牙がない』ことが生存の優位性になっていく。そうすると、長い時間をかけて、ゾウ全体の中で牙のないゾウの割合が増えていく。そして最後には、牙のあるゾウは絶滅し、すべてのゾウが牙を持たなくなるかもしれない」


 課題とは関係のない話題でも、ユーロの話はディワンにとって興味深いものだった。


 同じ男女がいつも一緒にいれば、噂が立つのは避けられない。周囲の人々は、「二人の天才、まさにお似合い!」「ユーロさん、大事にしないとね!」「いつ付き合ってるって公表するの?」などと好き勝手に言う。


 しかし、ディワンにとってそれはまったく意味のない話題だった。そんなことに時間を費やすつもりはない。


 彼とユーロはずっと、第一名の座を競い合っている。二人が親しくなるにつれ、本来はただの成果発表であるはずの試験に、どこか楽しい火薬の香りが漂い始めた。


「昨日、家に帰ったあと、こっそり勉強したでしょう?」


「まさか。一度帰ったら朝まで爆睡してたよ。今朝も復習せずにそのまま試験を受けたし」


「そんな大胆なことをして、もし私に負けたらどうするつもり?」


「まさか、第一名が君かオレのどちらかしかないなんて思ってないよね? ドゥドスだってかなり頑張ってるし」


「口ではそんなこと言ってるけど、本心は違うでしょう?」


「バレたか。まあ、今回はオレがトップを取るけどね」


「私もそう思ってるわ。だから、絶対に手加減しないでね」


 大試験のたびに、二人はこんな風に軽口を叩き合うのが恒例だった。


「絶対に手加減しないでね」ユーロはいつもそう言っている。晴れやかな笑顔を浮かべながら言っていたのだ。


 ディワンは、ユーロがどんな色の服を着ていたか、どんな髪型をしていたかをいつも忘れてしまう。だが、この笑顔が与えてくれる感覚だけは、決して忘れることはなかった。


 あの狭い家とは違う。こここそが、彼のいるべき場所だ。






 卒業を前にして、彼らの学年の生徒たちは特別な機会を得た。遺跡探索隊は各学校に随隊実習の枠を一つずつ提供し、それぞれの学校で最も優秀な生徒を連れて、まだ誰も踏み入れたことのない遺跡へと挑戦するのだ。


 その枠を手にする者を決めるのは、大試験。


 解析学校では、誰もが遺跡へ降りることを夢見ている。ディワンとユーロも当然、同じ夢を抱き、ずっとその目標に向かって努力してきた。本来なら卒業後にしか得られない機会が、予想外にも前倒しで訪れたのだ。


 そのため、今回の大試験前の勉強会は、いつも以上に火薬の香りが漂っていた。


「私がこの枠を取る。あなたはここで泣きながら私の帰りを待っていなさい」


「それはオレのセリフだ。遺跡に降りるのはオレだから」


「絶対に手加減しないでよ」ユーロが言った。


「当然だ。そんなことはしない」ディワンは答えた。ユーロは何度もそう言ってきた。そして今なら、ディワンも分かる。ユーロはいつだって全力で挑んでくる。だから、彼も全力で挑むべきだ。手加減することは、礼儀に反する。


 その時、窓の外から女性たちの笑い声が聞こえた。


 ディワンは見なくても分かる。女の同級生たちが連れ立って遊びに行ったのだ。男の生徒たちは、大試験の前になると決まって部屋に籠もって勉強に励む。だが、女の生徒たちは違った。遊びが好きで、競争心も薄い。だからディワンは彼女たちに興味を持たなかった。


「うるさいな。この時期は勉強するべきだろ」ディワンがぼやいた。


「そうね」ユーロは笑って答えた。しかし、その笑顔はどこか疲れているように見えた。


 そして、試験が終わり、成績が発表された。今回の大試験で第一名を獲得し、遺跡へ降りる機会を得たのは、ディワンだ。ユーロは、ほんのわずかな差で第二名となった。


 成績順位表の前で、ディワンはユーロの方へ振り向いた。


 彼は思った。今回も、これまで自分が一位を取った時と同じように、ユーロは「調子に乗らないでよ。次は私が勝つんだから!」と言いながら、舌を出して笑うはずだった。


 しかし、彼が見たのは、目を赤くしたユーロだった。彼女は何も言わず、ただ背を向けて歩き去った。


 ディワンはその場に立ち尽くした。すると、第三名のドゥドスが近づき、彼の肩を軽く叩いた。真剣な表情で短く言う。「ちょっと、俺と来い」


 さらに、ディワンと仲の良い二人の男子生徒も、後ろからついてきた。






 空き教室の中で、ドゥドス、ウェリス、アンボルが立ち、座っているディワンを囲んでいる。ドゥドスとアンボルは腕を組み、彼を鋭く睨みつけている。ウェリスだけは無表情で、片手で本を持ち読んでいる。


 ディワンは、まるで尋問を受けているような気がした。


 この教室にいる四人の男とユーロは、長期にわたって成績上位五名を独占してきた者たちだった。


「お前がただの勉強バカなのは前から分かってたが、まさかここまで頭が悪いとはな」ドゥドスが歯を食いしばりながら言った。


「オレが何か悪いことしたか?」ディワンは睨み返す。


「お前、ユーロにとってこれが唯一の遺跡に降りるチャンスだって知ってたか?」ドゥドスが言った。


「な、何だって──そんな話聞いたことないぞ。まさか、お前ら三人、わざと手加減したのか?」


 ランキング上位五名からは落ちなかったものの、今回の試験でドゥドス、ウェリス、アンボルの点数は不自然に低かった。ユーロとディワンとの差が広がっていた。


「そうだな、ぼくたちは手加減した」ウェリスはほんの僅かに目線を本から外し、ディワンを一瞥した。そして六位から十位までの男子の名前を口にした。「彼らの点数を見ればわかるだろう、悲惨だ。あいつらも手加減したさ。皆、ユーロを遺跡に降ろしたかったんだ」


「お前ら、相談したのか? なんだよ、この意味不明なイタズラ?」


「いや、互いに相談したわけじゃない。自然とこうなったんだ。本当に、ユーロが遺跡に降りるチャンスがないって知らなかったのか?」アンボルが眉をひそめて言った。


「知らねえよ。何がどうなってる?」


 ドゥドスは顔をこすりながら、低い声で言った。「ユーロは女だぞ」


「知ってるけど? それがどうした?」もちろん、彼女が女だと知っていた。ディワンはいつもユーロが重い荷物を運ぶのを手伝っていた。


「女は結婚したら、都市に留まって子供を産むんだよ。都市の解析組に入る以外の道はない。都市の外に出て、遺跡に降りることは不可能だ!」


 ディワンの脳は、珍しく、完全に真っ白になった。


 ドゥドスは続けた。「女はみんな、これを知っている。お前、いつも試験前に彼女たちが遊びに行ってるのを見てるだろう? なぜか考えたことはないのか?


 ランキングの上位はいつも男ばかりだ。それは、ランキングが意味を持つのは、俺たちにとってだけだからだ。俺たちだけが、成績で探索隊に志願することができるんだ。


 彼女たちは卒業さえすれば、その後の職業人生に大した違いはないんだ。仮に結婚を遅らせても、探索隊は最初から女を選ばない。


 女の新人を育てるなんて、時間の無駄だと思われている。ようやく慣れてきたころには、もう子供を産む時期になるんだからな」


「オレは──そんなこと、知らなかった──」


「お前は、彼女たちと話さない。本にも書いてない。制度にも明文化されていない。だから、お前は知らないんだろうな。だが、事実は変わらない。彼女たちは俺たちと同じ就職制度を使っているが、たとえ同じくらい優秀な成績でも、結果は同じにはならない。


 ユーロはそれを知っていながら、必死に努力し続けていたんだ。結婚するまでに一度だけでいいから、遺跡に降りたいと思ってな。


 俺たちはその夢を叶えさせてやりたい。だから皆、試験で手加減したんだよ。まさか、お前があんなにユーロと仲がいいのに、そんなことにも気づいていなかったとはな」


「でも──」ディワンの頭が、なんとか回り始めた。「ユーロは、オレに手加減するなって言ったぞ」彼は勢いよく立ち上がり、三人と向き合った。「彼女は、自分の力でほしいものを手に入れたいんだ。手加減されるなんて、侮辱だろ! こんなやり方で、本当にユーロが喜ぶのか?」


「そんなの、彼女が努力したってどうにかなる問題じゃねえんだよ!」ドゥドスは怒鳴った。


「頼む、辞退してくれ」ウェリスが言った。


「もし、お前が彼女の“友達”のつもりなら、辞退してくれ」アンボルも言った。


「考えろ。よく考えるんだ」ドゥドスが言った。


 そして、三人はディワンを置き去りにして教室を後にした。


 このことは、ディワンを長いあいだ悩ませた。


 そしてついに、彼はこの実習プログラムを担当している教師・フェントのもとを訪れた。「すみません。ちょっと体調が悪くなってしまって。都市に残って休みたいので、辞退させてください。オレの枠を他の人に譲ってもらえませんか」


 自分がそのとき、どんな顔をしていたのか、ディワンは分からなかった。だが、フェントはすべてを察したように、やわらかく笑った。


「君、嘘をつくのが下手だね」


 こうして、遺跡に降りる者は、ユーロに変わった。






 正式に実習参加者が発表されたその日、ユーロは図書館の外でディワンを呼び止めた。


 彼女の姿を見た瞬間、ディワンは「怒ってる」と思った。やっぱり、自分は彼女を怒らせたんだ。殴られるかもしれない。


 そう覚悟したところで、ユーロは俯いて、ぽつりと言った。「ありがとう」


 その瞬間、ディワンの脳はまたしても完全に真っ白になった。ユーロが泣いているのを見たからだ。


 それは、怒りの涙ではなかった。夢が叶って嬉しすぎて流した涙でもなかった。


 ユーロは喜んでいる。それなのに、唇を噛みしめ、悔しそうに泣いていた。自分の力で夢を掴めなかったことが、悔しくて。たしかに夢は叶った。でも、ユーロは同時に傷ついてもいた。






 ユーロが傷ついたことで、ディワンはこの世界に疑問を抱いた。


 夢が叶った彼女が、どうして傷つかなければならなかったのか。この世界は、どうして今こうなっているのか。


 ディワンは気づいた。自分は人より多くの知識を持っている。しかし、それでもこの疑問を解くには足りなかった。


 彼はありとあらゆる情報を貪るように読み始めた。試験に出るものも、出ないものも、すべてだ。世界をもっと深く知るために。


 彼は、世界のすべてを刻む書になりたいと願った。


 ディワンが幅広く本を読み続けていたある日、フェント先生が彼を呼び出した。


「ディワン、最近はどんな本を読んでいる?」フェントが尋ねた。


「上古の料理書、上古の衣服素材の研究書……」ディワンは正直に答えた。


「読んでみて、どう思った?」


「妙だなと思いました。彼らは皆、遏令(アツレイ)の聖兵のように背が高かったんでしょうか? 残されている成人向けの服は、どれも巨人用のように大きいんです。それとも、巨人向けの衣服は特に丈夫な素材で作られていたから、一般的な人々の服は時間の流れに耐えられず、残らなかったんでしょうか?」


 フェントはディワンの話を聞き終え、しばし考え込んだ。「うちの図書館には、その手の書籍がほとんどないから、十分な知識は得られないだろう。今度の休日は時間を空けておいてくれ。博物館へ連れて行ってやる」






 約束の当日、フェントは自身の権限を使い、ディワンを博物館の立ち入り制限区域へと導いた。


 そこには、まだ整理が終わっていない記憶方塊が収蔵されている。


 装飾のない灰色の部屋。そこには、蛍光ブルーの幾何学的な線がびっしりと走る巨大な銀色の方塊が、整然と支架に積み重ねられている。ひとつひとつが、ディワンの背丈の半分ほどもある。その表面に刻まれた青い線は、時折ゆらめきながら光を放ち、まるで魚が水面下で動くことで、波紋が広がるようだ。それを見たディワンは、まるで方塊の内部に生き物が息づいているような錯覚を覚えた。


 フェントは支架の間を進みながら、ディワンを連れて歩く。その後ろには、博物館の管理者が操る機械キリンが付き従っていた。この空間の棚は天井付近まで積み上げられており、多くの記憶方塊は、機械キリンなしでは手が届かない場所にある。


「多くの記憶方塊は『役に立たない』。それは、君も知っているな?」フェントは歩きながら言った。


 ディワンはうなずいた。


 遺跡から持ち出された記憶方塊は、まず中のデータが何なのかを判別する。時には記憶方塊が損傷していることもある。同じ内容のものが重複している場合もある。さらに、完全な状態で未知の情報を記録していたとしても、その情報が「価値なし」と判断された場合もある。それらの記憶方塊は「役に立たない」と見なされる。詳しく解析されることもなければ、整理や転写も行われず、他の遺跡都市に配布されることもない。ただ倉庫に収められるだけだ。


「この場所にあるのは、すべて『価値なし』とされた記憶方塊だ。『価値あり』とされた記憶方塊とは、上古の機械設計図を含むもの、上古の科学知識を記録したもの、それらは我々現代人が都市を築くのに役立つものだ。


 一方で『価値なし』とされるのは、上古人々が生み出した芸術、上古人の思想、それらは彼らがかつてどのように生きていたのかを記した情報だ」フェントは歩みを止め、振り向いてディワンに微笑んだ。


「君が探している知識は、まさにここにあると思う。価値がないとされたが故に、書籍として整理されることはほとんどない。だからこそ、自分の手で掘り起こしたほうがいい」フェントは頭上の記憶方塊のひとつを指さした。「まずは、これから始めてみろ」


 ディワンは機械キリンの頭に座り、その記憶方塊のそばまで上昇した。彼は「読取」の魔力を使い、そっと方塊に手を触れた。


 記憶方塊に蓄えられた情報、といった文字・音声・映像が彼の脳内へと押し寄せる。まるで、頭上から降り注ぐ豪雨のように。


 彼は脳内に大きな網を広げ、意識の中を通り過ぎる情報を、可能な限り捕えようとする。そして、それらを脳内の長机の上に並べ、識別しながら整理していった。


「地球の現状概要」


「地球全体の人口は約七十億」


「一般的に夫婦は二人の子供を持つ」


「人類の平均寿命は七十二歳」


「平均身長は百七十五センチ」


「十六、十七歳で性成熟」


「平均結婚年齢は三十二歳」


 目の前に広がるのは、彼が知る「今」とはまるで異なる世界だった。


 彼は今の地球の人口を正確に知らない。だが、すべての夫婦は可能な限り多くの対の子供を産むということを知っている。二十人の子供を持つのは珍しいことではない。


 災厄のせいで、大半の人類は十代で命を落とす。他の死因も加えれば、平均寿命は二十年に届かない。


 彼らの平均身長は約百センチ。


 性成熟は八歳前後。十歳を超えて結婚すれば、それは「晩婚」と見なされる。


 衝撃的な情報だった。ディワンは思わず手を引き、呆然としたまま立ち尽くす。


 まるで、最後の一撃を加えるかのように、フェントは笑いながら口を開く。「この記憶方塊には、書かれていないことがある。上古人は、一度の出産で通常一人の子供しか産まない。双子は非常に珍しく、九十回の出産に一度あるかないかだ」


 現代では、双子が生まれる確率は、ほぼ百パーセントなのだ。


「こうなった原因は──」ディワンは、ユーロが言っていた「死は生物の進化に影響を与える」という話を思い出しながら、口にした。「──災厄のせいか?」


 誰もが知っている。災厄は人類の半数を殺す。だからこそ、人々は可能な限り多くの子供を生もうとする。


「わからない。ただ、無関係ではないだろうな。記録を見る限り、災厄の発生間隔は次第に短くなっている。もしかすると、彼らの時代では災厄は三百年に一度だったのかもしれない?」フェントは肩をすくめた。


「なぜ災厄は存在する? なぜ人類だけが選ばれる?」ディワンは問いかける。もちろん、フェントが答えを知らないことはわかっている。誰も、その答えを知らない──


「それがわかるのは、遏令の教皇だけだろうな」


 予想外の答えだった。誰かが知っているのか?「聖城・遏令か?」


「そうだ。この記憶方塊は七一二二号遺跡から発掘された。その遺跡は遏令のすぐ近くにある。かつて遏令の土地は、上古人の大都市だったらしい。大聖堂の地下には『終聖遺跡』があり、そこに災厄の秘密が眠っているという話だ。だからこそ、教皇だけが立ち入ることを許されている。それに、彼らの聖兵の姿を見れば、創世神教が何も知らないとは到底思えない」


 遏令は遺跡都市とは異なり、「記憶方塊を交換しよう」「情報共有の場を設けよう」といった呼びかけが受け入れられるところではない。遏令は、記憶方塊に触れることが厳しく禁じられている。それが理由で、諸多の遺跡都市との間に対立が生じている。


 一度に知ることが多すぎた。ディワンは、思考の中へと沈んでいく。


「君がここで自由に情報を掘り起こせるよう、使用許可を申請してやるよ」フェントはため息をついた。「私自身、こういう『価値なし』のものには興味がある。学生である君も関心を持ってくれるのは、正直うれしい。じっくり研究しろ。ただし──」フェントは指を軽く振り、ディワンを思考から引き戻すと、わざとらしく渋い表情を作り、低い声で言った。「成績を落とすのは、許さんぞ」


「つまり、オレはずっと一位でいなきゃいけないのか?」ディワンは思わず笑った。無理だろ、それは。


「ユーロにだけは、負けてもいいことにしてやる」フェントは大笑いした。


「それなら、納得だ」






 その後、フェントの推薦で、ディワンは遺跡探索と上古人研究を主導する跨遺跡都市組織《災厄研究会》に参加した。論文を読み、博物館で記憶方塊を読み取り、それと同時に、学業も一切怠ることなく、一位か二位を維持し続けていた。


 自分の脳がこれほどスムーズに回転したことは、かつてなかった。無数の知識が精錬され、意味のある結晶となっていく。


 毎日、全身全霊を注ぎ込み、勉強に対する集中度は、人生最高に達していた。


 そんなある日、彼が本を読んでいると、ユーロが近づいてきた。「夕飯、鴨肉餅食べる? 買ってきてあげようか?」


「いいよ」ディワンは顔も上げずに、すぐに答えた。


 ユーロは首をかしげ、もう一度聞く。「アンボルが設計した機械牛、見に行く?」


「いいよ」


 ユーロは、机に向かって書物に没頭しているディワンの横に立ち、軽くかがみ込む。彼の視界には入らない角度から、さらに近づく。「私が持ち帰った記憶方塊、読み取る?」


「いいよ」


 さらに顔を寄せて、耳元で囁く。「私と結婚する?」


「いいよ」


 十秒後。ディワンは、ようやく異変に気づいた。驚いて勢いよく顔を上げると、ユーロの顔が目の前にあり、二人の目が合った。


 彼女はいつも以上に満面の笑みを浮かべていた。最高に嬉しそうだった。


 こうして、決まった。


 ディワンは、気づく。自分も最高に嬉しいのだ、と。

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