2話
エリカの指先がコンクリートのひび割れに食い込むと、小さな欠片がぽろりと落ちた。彼女の内部プロセッサは即座に計算を開始した。ひびの深さ、壁の厚さ、そしてその向こうにある熱源までの距離。結果は明確だった。この壁を完全に壊すのは不可能だが、隙間を広げることはできる。
「出力50%に引き上げ。筋力シミュレーション実行」
彼女の腕が静かに唸りを上げ、モーターが高速で回転を始めた。コンクリートが軋む音が響き、ひび割れが少しずつ広がっていく。汗は流れないが、エリカのシステムは過負荷に近い状態を示していた。警告メッセージが頭の中に点滅する。
「負荷限界まであと12%。急がないと」
その時、ドアの外から男たちの声が再び近づいてきた。
「何か音がしたぞ。確認しろ」
足音が急に速まり、鍵を回す金属音が響く。エリカは一瞬で判断を下した。壁の作業を中断し、体を元の位置に戻す。手首の鎖は緩んでいるが、見た目には分からないよう調整した。ドアが開き、二人の男が姿を現した。
一人は背が高く、顔に傷のある男。もう一人は小柄で、目をぎらつかせている。傷顔がエリカを見下ろして言った。
「お前、何か企んでるんじゃないだろうな?」
エリカは無表情を保ちつつ、内部で音声分析を開始した。男の声のトーン、呼吸のリズム、心拍数の推定値。これらのデータから、相手の心理状態を読み取る。
「敵意:高。警戒心:中。知能:平均以下」
彼女は穏やかに答えた。
「企む? 私はただ座ってるだけですよ。動けないんだから」
小柄な男が笑い声を上げた。
「ほらな、ただのロボットだ。怖がる必要ないって」
傷顔は納得した様子で頷き、部屋を出ようとした。その瞬間、エリカは動いた。緩んだ鎖を一気に引きちぎり、足首の拘束具に手を伸ばす。小柄な男が叫び声を上げた。
「おい! 何!?」
傷顔が振り返り、ポケットからナイフを取り出すが、エリカの反応速度は人間を遥かに超えていた。足首の拘束具を外すと同時に、体を跳ね上げ、傷顔の腕を掴んだ。AIが計算した最適な力で捻ると、ナイフが床に落ちる。
「人間の関節は脆いですね」
彼女の声は冷たく、感情の揺れはなかった。小柄な男が逃げようとしたが、エリカは一歩踏み込んでその首筋を軽く叩いた。気絶させるための正確な一撃。傷顔も床に膝をつき、呻き声を上げる。
「次はお前がこうなる前に、情報を吐け」
傷顔は額に汗を浮かべながら、エリカを見上げた。彼女の目は人間のそれとは違い、微かな光を帯びていた。AIが感情を模倣することはできるが、今のエリカにはその必要はなかった。彼女は効率を優先した。
「誰に雇われた? 目的は?」
傷顔が口を開く前に、エリカは彼のポケットからスマートフォンを見つけていた。指紋認証を解除するため、気絶した小柄な男の手を使い、ロックを外す。画面にはメッセージの履歴が表示された。
「ターゲットを確保。分解は今夜。取引は明朝」
送信元は暗号化されており、追跡は困難だ。しかし、エリカには別の手段があった。彼女のAIにはネットワーク侵入機能が備わっており、即座にデバイスに接続を開始した。
「信号を逆探知。発信源を特定」
数秒後、座標が頭の中に浮かぶ。この建物から数キロ離れた倉庫街。そこが次の目的地だ。しかし、まずここから脱出しなければならない。傷顔がようやく口を開いた。
「俺たちはただの使いっ走りだ。雇い主は…知らない。金が欲しかっただけだ」
エリカは男を一瞥し、信用度を評価した。嘘ではないが、情報としては不十分。彼女は立ち上がり、部屋のドアへと向かった。だがその時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。誰かが通報したのか、それとも別の罠か。
「時間がない。優先順位を変更。脱出を最優先に」
彼女はドアを蹴り開け、暗い廊下へと飛び出した。コンクリートの壁に囲まれた迷路のような通路が続く。視覚センサーをフル稼働させ、出口を探す。熱探知で微かな風の流れを感知し、そちらへ進んだ。
突如、後方から銃声が響いた。