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『記憶の中の友 、鹿島修(酒井修)』

作者: 小川敦人

『記憶の中の友 、鹿島修(酒井修)』


春の陽気が心地よい三月の午後、私たち六人は小さな観光バスに乗り込んだ。目的地は伊豆の海岸沿いにある小さな温泉宿。これは、私たちが「シュウちゃんを忍ぶ会」と名付けた集まりの、今年最初の旅だった。

「おい、オサム。今日はどこに連れて行ってくれるんだ?」下村が私に声をかけた。

「シュウが一度行きたいと言っていた場所さ」と答えながら、私は窓の外に広がる風景を眺めた。七十二歳になった今でも、私は時折、あの少年の声を聞く気がする。


最初に鹿島修と出会ったのは小学校の教室だった。下の名前がどちらも「オサム」だったことから、クラスメイトたちは彼を「シュウ」、私を「オサム」と呼んで区別していた。

「オサムくん、この問題を解いてください」

ある日、算数の授業中、先生がそう言ったとき、私たちは同時に立ち上がった。クラス中が笑い、私たちも照れくさそうに顔を見合わせた。その瞬間、不思議な繋がりを感じたことを今でも覚えている。

「どっちのオサムに聞いているんですか?」と彼が尋ねると、先生は困ったように笑った。

「そうだね、酒井オサムくんにお願いします」

それは奇妙だった。彼の姓は「鹿島」のはずなのに。しかし、その時は何も考えず、私たちはただ笑って、その日の放課後に初めて一緒に帰る約束をした。

「オサムって名前、被っちゃったね」と彼が言った。

「うん、でも僕はオサム、君はシュウって呼ばれてるから大丈夫じゃない?」

彼は少し考え込むように歩きながら言った。「実は、僕のこと鹿島って呼ぶ人と、酒井って呼ぶ人がいるんだ」

「どうして?」

「うーん...」彼は空を見上げた。「複雑なんだ。でも、シュウって呼んでくれたら嬉しいな」


小学四年生になった春、担任の先生が朝のホームルームで突然宣言した。

「今日から鹿島君は酒井君になります。みんな、よろしくね」

クラスメイトたちはキョトンとした表情で互いの顔を見合わせた。私は不思議に思い、休み時間にシュウに尋ねた。

「どういうこと?鹿島から酒井になるって」

校庭の隅、誰もいない場所で彼は小さな声で話し始めた。

「実は...お父さんが変わったんだ。戸籍も変わって、苗字も酒井になったんだ」

彼の目には、言葉にできない複雑な感情が浮かんでいた。十歳の私には完全に理解できなかったが、彼が何か大きな変化を経験したことは感じ取れた。

「そっか...でも、僕にとっては変わらないよ。これからもシュウは僕の友達だから」

彼は少し驚いたような顔をして、それから笑顔になった。「ありがとう、オサム」

その日から私たちの友情はさらに深まった。彼の家庭事情については詳しく知らなかったが、一緒に遊ぶ時間が私たちにとって大切な時間だったことは間違いない。


中学校も同じだったが、高校で私たちは初めて別々の道を歩むことになった。彼は市外の高校へ、私は地元の高校へ進学した。連絡を取り合うことはあったが、だんだんと疎遠になっていった。

高校二年生の冬、町のゲームセンターで偶然シュウに再会した。彼はピンボールの前に立ち、周りには数人の高校生が彼の腕前に見入っていた。

「シュウ?」と声をかけると、彼は振り返り、一瞬驚いた表情を見せた後、大きく手を振った。

「オーちゃん!久しぶり!」

彼の呼び方が変わっていた。小学校や中学校の頃は「オサム」と呼んでいたのに、いつの間にか「オーちゃん」になっていた。

「ピンボールしてみる?」彼は誇らしげに言った。「これがフリッパー、これがバンパー。うまく使って点数を上げるんだぞ」

その言い方に、私は少し違和感を覚えた。以前の彼は自慢げに話すタイプではなかった。だが彼はゲームセンターの常連で、百ゲーム以上を預けて、ほとんど無料で遊んでいるような「有名人」になっていた。

「すごいじゃん、腕前」と言いながらも、私の中で何かが変化していることを感じた。それまで私たちの間には暗黙の上下関係があり、どちらかといえば私が「上」だった。でも今、その関係が逆転しているように感じた。

その日、彼の案内でピンボールを数ゲーム楽しんだ後、近くのファミレスで話をした。学校のこと、将来の夢のこと。彼は専門学校に行ってゲームプログラマーになりたいと語った。

「家の状況があまり良くないから、大学は諦めて早く働くつもりなんだ」

私は東京の大学を目指していると話した。すると彼は少し寂しそうな表情を見せた。

「オーちゃんはいいよな。頭いいし、家も普通だし」

私はその言葉に何と返せばいいのか分からなかった。彼の「普通」という言葉の重みを、その時の私はまだ十分に理解できなかった。


大学生になり、私は東京で一人暮らしを始めた。シュウとは年に数回、帰省したときに会う程度になった。彼は専門学校には行かず、地元の電機メーカーに就職していた。

「やっぱり学費のことを考えたら、働きながら勉強するしかなかったんだ」と彼は言った。

二十歳の誕生日、私たちは初めて一緒に酒を飲んだ。地元の小さな居酒屋で、学生時代の思い出話に花を咲かせた。

「覚えてる?先生が『オサムくん』って言って、二人とも立ち上がったこと」

「ああ、あれは恥ずかしかったよな」

笑いながら、ふと彼が真面目な顔になった。

「オーちゃん、聞きたいことがあるんだ」

「なに?」

「僕が鹿島から酒井になったとき、何も変わらず接してくれたよな。あれ、すごく嬉しかったんだ」

私は少し驚いた。「当たり前じゃないか。名前が変わっても、シュウはシュウだよ」

彼は少し俯いて、グラスを回しながら言った。

「そのときは詳しいことを話せなかったけど...いつか全部話すよ」

彼はそれ以上何も語らなかった。私も深く追求せず、ただ頷いた。彼の家族の事情については、まだ多くの謎があった。

「そんなこと...」

「周りの子たちの反応が怖かった。でも、オーちゃんは何も変わらなかった。その時、友達って本当に大事だって思ったんだ」

お酒のせいもあってか、彼の目は少し潤んでいた。私は何と言えばいいのか分からず、ただ彼の肩を叩いた。

「友達って、そういうものだろ」


二十代、三十代と時が過ぎ、私たちはそれぞれの人生を歩んだ。

私は東京の会社に就職し、26歳で結婚した。シュウも地元で結婚し、二人の子どもに恵まれた。会うのは年に一度か二度、お互いの結婚式や子どもの誕生報告など、人生の節目だけになっていった。

四十代になると、彼との連絡はさらに疎遠になった。SNSが普及し始めた頃、彼のアカウントを見つけてフォローしたが、更新は少なく、時々子どもの写真がアップされる程度だった。

五十歳を過ぎた頃、同窓会で再会した。彼は少しやつれていて、離婚したことを知らせてくれた。

「子どもたちは妻についていったよ。たまに会うけど、もう大きくなったからね」

彼の声には諦めと寂しさが混じっていた。私は彼を励ましたかったが、適切な言葉が見つからなかった。

「シュウ、何かあったら連絡してくれよ」

彼は微笑んで頷いたが、その後も連絡はほとんどなかった。

私たちが五十歳になった同窓会で、シュウは重い口を開いた。数人の親しい友人だけが残った二次会の席で、彼は長年隠してきた真実を語り始めた。

「実は俺、ずっと話せなかったことがあるんだ」

場の空気が一瞬で変わった。彼の表情は真剣で、どこか解放されたようにも見えた。

「小学校四年のとき、名字が変わったことを覚えてるか?」

私たちは頷いた。

「あれは...俺の母親が鹿島家のお妾さんだったからなんだ」

衝撃的な告白に、誰も言葉を発することができなかった。

「鹿島というのは俺の父...つまり実の父親の姓だった。彼は地元の有力者で、表向きは別の家庭があった。母は彼の愛人として生きていた。俺は認知されて鹿島の姓を名乗ることを許されたんだ」

シュウは一息ついてから続けた。

「小学校四年のとき、父が突然亡くなった。すると...父の本家から、認知を取り消すための裁判を起こされたんだ。母は必死で戦ったが、最終的には負けて、母の旧姓である酒井に戻ることになった」

彼の目には、幼い頃の記憶が蘇っているようだった。

「学校での名前の変更...あれは俺にとって大きな傷だった。子どもながらに、自分の存在が否定されたような気分だったよ」

私たちは言葉を失った。彼の人生に秘められていた重い真実に。


八年後、五十八歳の秋に悲報が届いた。

「酒井修さんが亡くなりました」

同級生からの電話で知らせを受けた。彼はアパートで一人、心臓発作で亡くなっていた。発見が遅れ、誰にも看取られることなく旅立ったという。

葬儀には、小中学校時代の友人を中心に二十人ほどが集まった。彼の元妻と子どもたちも来ていたが、どこか距離があるように感じられた。

「彼、最近はほとんど一人で過ごしていたらしいよ」と、別の同級生が教えてくれた。「仕事も二年前にリストラされて、派遣で細々と働いていたって」

私は胸が痛んだ。もっと連絡を取り合えば良かった。もっと彼の話を聞いてあげれば良かった。後悔の念が押し寄せてきた。

葬儀の後、私たち六人―小学校からの親しい友人たち―は、彼の思い出を語り合った。

「シュウって、小学校の頃はいつも明るかったよな」

「中学では剣道部で一番の選手だったじゃないか」

「高校の頃はゲームセンターの王様だったよね」

懐かしい思い出が次々と語られる中、私はふと言った。

「シュウの人生を、もっと知りたかった」

皆、黙り込んだ。そして誰かが提案した。

「シュウのために、何かできないか」

こうして「シュウちゃんを忍ぶ会」は始まった。年に四回、季節ごとに集まり、彼が行きたがっていた場所を訪れることにしたのだ。


「オサム、どうだった?シュウとの最後の会話」

伊豆への小旅行の帰り道、下村が静かに尋ねた。私たち六人は、シュウの好きだった海を眺めながら、温泉に入り、彼の好物だった刺身を肴に酒を酌み交わしてきたところだった。

「実は...」私は少し躊躇った。「最後に話したのは、三年前の同窓会だったんだ。それ以来、連絡を取っていなかった」

バスの中は静かになった。

「俺も同じだ」と中村が言った。「仕事が忙しくて...いつか時間ができたら連絡しようと思っていたんだ」

「俺たちみんな、そうだったんじゃないか」と山田が続けた。「人生に追われて、気づいたら大切なものを見失っていた」

窓の外は夕暮れで、富士山のシルエットが遠くに見えていた。

「でもね」と私は言った。「シュウは私たちに大切なことを教えてくれたと思う。友情の価値を」

「どういうこと?」と下村が尋ねた。

「人生は予想以上に短い。私たちは忙しさを言い訳に、大切な人との時間を後回しにしがちだ。でもシュウは、その短い人生の中で、私たちに真の友情を示してくれた」

「確かに」と佐藤が頷いた。「シュウはいつも誰かを助けようとしていたよな。子どもの頃から」

「そうだよ」と私は続けた。「彼は困難な家庭環境の中で育ち、人生の多くの局面で苦労したけど、いつも周りの人のことを考えていた。彼にとって友情は、単なる言葉じゃなく、行動だった」

バスの中で、私たちは各々の思い出を語り始めた。シュウが誰かを助けた話、シュウが笑顔で迎えてくれた話、シュウが黙って支えてくれた話...

「友情って、存在するだけで価値があるんだな」と山田が言った。「例え何年も会わなくても、心の中で繋がっている」

「いや」と私は首を横に振った。「友情は育てるものだと思う。シュウが教えてくれたのは、友情は行動を伴うものだということだ。彼は常に友達のために何かをしていた。私たちは...その大切さを彼が亡くなるまで気づかなかったんじゃないか」

「だからこそ、この『シュウの会』があるんだな」と中村が言った。「彼がいなくなった今、私たちは彼から学んだことを実践している」

窓の外は完全に暗くなり、バスの中の私たちの顔が窓ガラスに映り込んでいた。七十二歳の老人たちの顔。でも、心の中では今も十歳の少年たちだ。

「シュウがいたら、何て言うだろう?」と佐藤が尋ねた。

私は窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、微笑んだ。

「『オーちゃん、みんな、遅すぎるよ』って言うかもね。でも、きっと喜んでるよ」

バスは夜の高速道路を走り続けた。私の脳裏には、あの少年の笑顔が浮かんでいた。名前は変わっても、彼はいつもシュウだった。そして私たちの心の中で、これからもずっとシュウであり続ける。

人生は短い。だからこそ、友情は大切にしなければならない—。それが、シュウが私たちに残してくれた最後の贈り物だった。

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