第五話 人形騎士
莉緒が人形騎士などと呼ばれているのは、何もその端正な容姿ばかりが理由ではない。
莉緒は瞼を伏せて、静かに刀を構える。殺気と共に表情が抜け落ち、漆黒の瞳に刃にも似た無機質な冷たい光だけを宿した。
――異形がやってくる。
その爪牙が律へと届く前に、莉緒は音もなく前へと踏み出した。
一歩、伸ばされた巨大な手を斬り落とす。
二歩、素早く回り込み、もう片方も腕ごと地面へ落とす。
三歩、悶え苦しむ異形の首に狙いを定めて刀を振り抜く。――逸れた。
両腕を失った異形が間一髪、後ろへ跳躍してその凶刃を躱したのだ。
しかし、莉緒はその動きにピタリと寄り添うように前へ跳んだ。およそ人間とは思えない動きだった。
「逃がさない」
『――⁉︎』
どこまでも無情なその声に、異形のほうが怯んだ。その怯えは、宿主となった人間のものか、はたまた取り憑いた虚目のものか。答えは当の異形すら知らないのかもしれない。
いずれにしても、戦いは心が折れた瞬間に負けるものだ。異形の視界が反転する。首を刎ねられたのだ。その虚ろな目が最期に見たのは、本物の人形と見紛うほど無感情に己を見下ろす【狩り人】の姿だった――……。
機械的なほど静に徹して戦うその姿。それこそが、人形騎士たる所以である。
「……死亡を確認。どうか、安らかに」
莉緒はピクリとも動かなくなった異形に近付いて膝を突くと、手を合わせた。
(私はこれから何度、人を殺していくのだろう)
異形と相対する度に、莉緒はストンと心をどこかに落としてしまったような感覚がした。今もまだ、抜け落ちた感情が戻らない。果てのない心の洞の中でうつけている内に、それを取り戻そうとする気概さえ溶けて無くなってしまいそうだ。隣に律が並ぶ気配がしたが、今はまだそちらを向けない。
「莉緒ちゃん」
いつまで経っても手を合わせたまま動かない莉緒に痺れを切らしたのか、律が頬に触れてきた。莉緒は観念して顔をあげる。
「今、すごく、君を抱きしめたい」
「――は?」
ろくに声が出なかったのは、空虚に支配されていたから――ではない。この人は何を言っているんだ。絶対にこの状況で言う言葉ではない。いや、どの状況でも言ってほしくないが。
莉緒の瞳から無機質な冷たさが消え、変質者に対する絶対零度の眼差しになった。大人でさえ心胆を寒からしめる視線を、律はむしろ心地よい日差しでも浴びたかのように頬を緩めた。
「本当は、君に会うのが少し怖かったんだ。会わないから、愛おしさが積もっていくのかもしれない。君と過ごす内に、この恋心も雪のように溶けていってしまうのかもしれないって。でも杞憂だった。降り積もった恋が溶ければ、海よりも深い愛へと変わっていくだけだったのさ。今はこの愛が溢れて溺れてしまう事のほうが恐ろしいよ。なんて、それも本望――」
「あの、遠夜先輩。本当にどうしたんですか。まさか、さっき異形を喚び寄せた時の反動かなにかですか」
「否定はできないね」
莉緒は頬を撫でる律の手を掴んでどかした。医務室に突っ込んでおいたほうが良いだろうか。
「……そうだ。確か養護教諭の人は【喚び人】の第一人者とか言われていたはず。本当に反動ならなにか対処法を知っているかも。遠夜先輩、医務室へ行きましょう。あ、でもその前にこの……人の、亡骸をちゃんと埋葬してあげないと……」
「その必要はないわ」
莉緒が立ち上がると、扉から蠱惑的な声が聞こえた。振り向くと、複数人の教師と生徒がこの屋上に入ってくる所だった。その中の一人が莉緒たちの前までやってくる。
「お疲れ様ね。怪我はないかしら?」
先程の声の女性だ。メリハリのある豊満な身体を清潔な白衣の下に隠したその女性は、気怠げな雰囲気とは反対に手際よく莉緒たちを触診した。
「あなたは、養護教諭の――」
「佐藤よ。……うん、怪我はないみたいね。後始末は彼らに任せて、キミ達はもう休みなさい」
無事で何よりだと佐藤が軽く肩を叩いて莉緒を讃えた。莉緒は「ありがとうございます」と言いつつ視線を落とした。格好だけならそこらの女子生徒よりも禁欲的なのに、なぜか目のやり場がない。視線にすら酔いそうだ。
「あの、私は大丈夫なんですけど。この人が異形を喚んでから、微妙に言動がおかしくて……」
「――喚んだ? 異形を?」
「はい、そうだと思います。……そうですよね?」
「確かに喚んだよ。愛の力で、ね」
佐藤が驚いたように律を見る。まじまじと見つめるその瞳には、どこか複雑そうな色が宿っていた。
「……そう。そうなの。キミがね。異常はないように見えるけれど、おかしいって具体的にどういった所が?」
「言動がこう、いつも以上に直情的というか、直線的で……」
「あー……………………ええ、問題ないわね」
「え」
今の間はどう考えても問題のない間ではなかった。問い詰めるような視線を向けてくる莉緒に対して、佐藤は肩をすくめた。
「ちょっと興奮しているだけよ。じきに落ち着くわ」
「そんな動物みたいな……」
莉緒がなおも食い下がろうとすると、わざとらしい咳払いが割って入った。
「少々よろしいかね」
声をかけてきた男性は、眼鏡の奥に覗く鷲を思わせる鋭い目が印象深い人だった。佐藤と同じく白衣を着ているが、医者というよりは科学者の趣だ。
律は彼を知っているようで、親しげに手をあげた。
「おや。井上先生ではありませんか」
「……遠夜律。君か。最近は高等部に入り浸っていると聞いたが」
「講義もちゃんと受けていますよ」
「そのようだな。全く抜かりない……それで、そちらの君は?」
「高等部二年の、天川です」
「私は大学部の講師をしている井上だ。君達にいくつか質問したい事があるのだがよろしいかね?」
「構いませんが……」
井上は頷いて質問を重ねる。どうやって倒したのか。弱点のようなものは無かったか。その他に気付いたことはあるか……と、質問は滞りなく行われた。
そんな井上が興味を示したのは、やはり律についてだった。
「……ふむ。【喚び人】の力か。興味深いな。ぜひ研究に力を貸してほしいものだ」
「研究?」
「ああ。私は虚目研究部の顧問もしているものでね」
「あ、なるほど……」
異形について知る機会は貴重だ。この学園では常に【狩り人】たちの目が光っていることもあり、尚更である。研究のために、どんな些細な情報も逃したくないのだろう。
しかし、井上のその言葉に、側で話を聞いていた佐藤が難色を示した。
「井上先生。まさか彼を実験台にでもするつもりかしら。医務室を預かる者として、賛同はできないわね」
実験という不穏な響きに、莉緒も眉をひそめて追従した。
「あの、【狩り人】としても、万が一にでも異形化させる可能性があるのなら、反対します」
「僕も莉緒ちゃんとの時間が取られるのは嫌だな」
「無論悪いようにはしないし、強制もしない。気が向いたらまた話しかけてくれ」
反対されることを予想していたのか、井上はあっさりと勧誘を諦めた。「それでは、失礼」と、異形を運び込もうとしている研究者たちの元へ向かう。
なおも険しい顔で、佐藤が呟いた。
「ちゃんと諦めてくれるかしらね……」
「どういうことですか?」
「彼ら、研究に関しては貪欲だから」
それだけ言い残して佐藤も退出する。他に怪我人がいたようだ。見晴らし台の柱が落とされた時かもしれない。
ザワザワと這い上がるような不安に胸を押さえた莉緒へ、律は柔らかく微笑んだ。
「そんなに不安そうにしなくても大丈夫だよ。君が心配するような事には――」
「遠夜! そうか、お前だったのか!」
「藪から棒に誰かな。莉緒ちゃんとの語らいを邪魔しないでほしいのだけど」
次から次へと、今日はよく人が来る。律は内心で舌打ちした。
「杉本だ。高校で三年間同じクラスだっただろう。覚えていないとは言わせないぞ。井上先生から聞いたんだがお前、意識的に異形を引き寄せたんだって? 凄いじゃないか! ぜひその力を研究に役立ててくれないか」
「興味ないなあ」
「そこをなんとか!」
律は困ったような顔を作った。杉本は押しが強い。そして勧誘がしつこい事でも有名だった。
(そういえばこいつは虚目研究部に所属していたっけ)
これは井上の策略だろうか。ちらりと横目で彼の方を見ると、異形をカートに乗せた研究班が数人、こちらを静観していた。杉本が勝手に暴走して特攻してきたが、止めるつもりもないといった様子だ。
「あの」
くいと、律の服の裾が引っ張られる。成り行きを見守っていた莉緒が、律を庇うように一歩前へ出た。ただでさえ小柄な莉緒が、ガタイの良い杉本の前に立つとさらに儚げに見える。まるで熊と子うさぎだ。
「先ほど井上先生にもお話ししましたが、【狩り人】としてそれは許容できません。お引き取りください」
「なんだお前は。そのジャージ……高等部の生徒か?」
「はい。天川です。研究の話ですが」
「危険かどうかは大人が決める事だぞ。お前はそういうが、賛同してくれる【狩り人】も大勢いるだろう。お前はまだ高校生で、この話には何の関係もないはずだ。黙っていてくれ」
杉本は熱烈な勧誘の時とは打って変わって、冷静に莉緒を諭した。勢いで押し切ろうとしているかと思えば急に理論的になる。杉本の最も厄介な部分だ。
しかし、莉緒は引き下がらなかった。たじろぎをすぐに引っ込めて、杉本を睨みあげる。
「関係、なら……あります」
「どういうことだ?」
「私と遠夜先輩は――バディです。私のバディに好き勝手されるのは困ります」
「そうなのか? いやしかし」
「お引き取り、ください」
地獄の底から響いてくるような低い声に、杉本がびくりと後退りした。さらに莉緒の後ろで感激して胸を押さえている律にドン引きし、顔を引き攣らせる。
「そ、そうだったのか! それはすまなかった。しかし遠夜、ぜひ考えておいてくれ。今の研究が進めばきっと世を揺るが、す――」
「………………………………」
「あ、ああ、もう戻らねばいけないな。では俺はこれでッ!」
冷気さえ感じさせる莉緒の無言の威圧に対し、最後には完全に逃げ腰の姿勢で杉本は仲間の元へ戻った。寮の屋上には再び莉緒と律だけが残される。
「私の、バディ……」
背後からものすごい視線を感じる。とんでもない嘘をついてしまったと、莉緒は真っ青になった。あの杉本を退けるにはああ言うしかなったのだ。しかし、こんな嘘はすぐにバレてしまう。そう――今すぐにバディ申請でもしなければ。
正面に回り込んだ律が、莉緒の両手を取って握り込む。その瞳の赤色が陽に照らされて、一層きらきらと輝いた。
「これからずーーーっと、一緒だね」
莉緒は、まだ申請もしていないのに破棄したい思いでいっぱいになった。
莉緒は重い足取りで律と共に屋上を出る。腹を括って理事長室へ赴こうとすると、階段から息を切らせたみのりがやってきた。
「――あ、天川、さん……!」
「…………浅木さん」
みのりは息を整え、意を決して莉緒を見据える。
「お話ししたい事があるの。少しだけ、時間いい?」
勇気を振り絞ったのだろう。その唇は少しだけ震えていた。
「――うん。分かった」
その震えが、先程までみのりを脅かしていた異形ではなく、いま目の前にいる自分のせいであること。
それを、莉緒は知っている。