第四話 たからもの
時計塔の最上部で、みのりは友人たちと互いに身を寄せ励ましあっていた。その視線の先には、こちらを凝視する異形の姿がある。
大きさは三メートルほどか。口の左端が耳元まで裂けて、鋭い牙が覗いている。骨に皮膚を貼り付けただけのような体からは、強烈な死臭が漂っていた。ここまでは、背中に生えている蝙蝠の羽のようなもので飛んできたのだろう。巨大な手足で時計塔の外にへばり付いている。
学園へやって来る前に一戦交えたのか、その体には無数の弾痕があった。そのおかげか、人を前にした異形にしては比較的大人しい。
――しかし、それも時間の問題だ。異形が愚図るように体を揺らす。それに合わせて左右に振れる時計塔に、みのりは思わず悲鳴をあげた。
「みのりん。大丈夫だよ。このくらいじゃ崩れたりしないから、落ち着いて」
「う、うん……。ありがとう」
「ねえ、やっぱ下りた方がいいんじゃない?」
「それも危険だと思うわ。揺れているし……この高さから落ちたら、それこそひとたまりもないでしょう」
「う、そうだよね。【狩り人】だって来られるかどうか――あれ? あそこ……」
「どうしたの……?」
「人がいる。あの髪色、遠夜先輩だ。隣いるのは……天川さん、かな?」
「あ、本当! 助けにきてくれたのかしら」
「でもあんな所から……どうやって?」
その名に反応して、みのりはそろりと見晴らし台から下を見下ろす。
遠くてよく見えないが、片方は確かに鮮やかな赤い髪をしている。ならばその隣に立つ小さな人影は、やはり莉緒なのだろう。高等部二年の間で、あの二人はすっかりセットのような扱いになっていた。
「……りおちゃん」
その名を呼ぶと、みのりの胸につきりと棘のような痛みが刺さった。
『みのりちゃんは、ちがうと思うよ』
浅木みのりにとって、天川莉緒はヒーローだった。
それは正体不明の化け物の出現に世界中が混乱に包まれ、浮き足立っていた頃のことだ。それでも日常を押し進めるように、みのり達は小学校に通っていた。
みのりは外交的で友達も多かったが、それでも学校は多くの子供が過ごす集団生活の場。どうしても気の合わない子はいた。みのりは二年生への進級で、運悪くその子と同じクラスになってしまう。何をするにも反りが合わず、関係は険悪になる一方だった。緊迫した世間の空気に、ストレスが溜まっていたのもあるかもしれない。
いずれにせよ、遠からず事件が起きるのは必然だったと言えよう。
『あんたがやったんでしょっ!』
『ちがうったら! なんど言ったらわかるの⁉︎』
切っ掛けはクラスメイトの私物が紛失した事だった。みのりと対立している相手はそのクラスメイトと仲が良く、みのりが犯人にされそうになったのだ。違う、違うといくら否定しても、彼女はてんで聞く耳を持たない。
『あんた以外にだれがいるってのよ。ねー、みんなもこいつだと思うでしょー⁉︎』
彼女は尊大で、一度敵と認識した者には苛烈な態度をとる。諍いに巻き込まれたくなくて、誰もが口を噤んだ。
――ただ一人、天川莉緒を除いて。
『みのりちゃんは、ちがうと思うよ』
莉緒はお人形みたいに可愛らしく、学年でもちょっとした異彩を放っていた。しかし、普段は教室の隅で友達とお喋りに興じるだけの大人しい性格で、笑いもすれば泣きもする、普通の子供だったのだ。
だから、莉緒が当然のようにそう言い切ったことに、クラス中の生徒がポカンと口を開けて固まった。
『は、はあ⁉︎ じゃああんたはだれだと思うのよ!』
『さあ……? でもまずはみんなで探してみようよ』
そう言って莉緒は机の下からロッカーの隙間まで、丹念に探し始めた。その姿に、ぽつぽつと他の子も倣い始める。みのりのグループも、相手のグループも、男子も女子も関係なく教室中が失せ物探しに精を出した。その甲斐あって、失せ物は数分で見つかった。
『あっ、あった! ……ねえ、これであってる?』
『わたしのブローチ! そっか、あのとき落としてたんだ……ありがとう! みんなもありがと! その、みのりちゃん、疑ってごめんね』
『う、うん。分かってくれたなら、いいけど……』
それで呆気なく事件は解決した。みのりを犯人に仕立て上げようとした彼女はそれ以降、ほんの少しだけ大人しくなった。
『……りお、ちゃん? えっと、ありがとう。助けてくれて』
『ううん。大変だったね』
みのりが莉緒と関わるようになったのはそれからだ。何度か会話をしていく内に、莉緒には自分の行いに対して頑固な一面があることを知った。正義感が強いというよりは、悪行を働きたくないという気持ちが強いようだ。それでも、莉緒はその思いを貫き通せるだけの強さを持っていた。みのりはその強さに憧れたのだ。
その日から、莉緒はみのりのヒーローだった。
「おい、大丈夫かー⁉︎」
遠くから声が聞こえてきて、みのりはハッと過去から帰還する。どうやらついに助けが来てくれたようだ。
「あ、先生! ぜんっぜん大丈夫じゃないよっ。さっきからずっと危機一髪!」
意外にも時計塔に上ってきたのは担任の進藤だった。刀に加え、背中にも槍を背負っている。【狩り人】だとは聞いていたが、なかなか様になっていた。怯えるみのりの背を摩っていたくるみが、声を弾ませて手を振る。
それが合図となったのか、ついに異形が動き出した。猛々しい咆哮を響かせ、見晴らし台の柱をへし折る。捨てられた柱が地面で轟音をたて、下にいる人たちの悲鳴がここまで届いた。
「きゃあっ⁉︎」
「クソ――おらぁッ!」
いつものやる気のなさは鳴りを潜め、瞳に殺気を漲らせた進藤が伸ばされた異形の手に槍を突き立てた。異形はたまらず逃げ出し、大きな翼で停止飛行する。常しえの暗闇に沈む瞳なき瞳が、順繰りにみのりたちを捉えていった。
緊張の糸が張り詰める。この場所ではどう考えてもこちらが不利だ。
何も出来ずにいる内に、異形が巨大な手を振りかぶった。みのりは強く目を瞑る。その瞬間は、きっと死すら覚悟していた。――しかし、いくら待っても何も起こらない。恐る恐る目を開けると、いつの間にか異形の腕が降ろされていた。進藤も、油断なく槍を構えつつも困惑気味だ。
「なんだ? 様子が……あ、おい⁉︎」
なにか宝物でも見つけたように、異形が突如として方向転換した。あの方向には莉緒がいる。彼女が異形を遠ざけてくれたのだろうか。きっとそうなのだろうと強く確信しながら、みのりはその無事を祈るようにきつく両手を握った。
(りおちゃん。ずっと疑問だった。あの時、どうして私に襲いかかってきたのか。その理由を知って、後悔した。あなたは私の言葉にずっと傷付いていたんだよね。でもね、例え【狩り人】でなくても、普通の子のままでも――私にとってあなたはヒーローだったんだよ)
始まりの憧れと終わりの恐怖が、いつも一緒に蘇っては胸をかき乱す。
それでも。
――どれだけの時が流れ、関係が移り変わり、感情すら変化しようとも。出会わなければよかったとは思えないのだ。
●
時は少し遡る。
異形の報せを聞いた莉緒は、すかさず宝箱の景品を律に押しつけた。
「これ、持っていてくれますか? 私は時計塔に向かいますから、遠夜先輩は建物の中に隠れてください」
低く呻くように告げて、さっそく駆け出そうとする。その手を、律が掴んだ。
「僕も行くよ」
「それは危険です。お願いですから、今は私の言うことを――」
「手が震えている」
「っこれは、武者震いです――遠夜先輩!」
「行こう」
莉緒の手を引いて、律が走り出す。
(本当に人の話を聞かない……!)
こうなったら仕方ない。時計塔に着けばたくさんの【狩り人】がいるはずだ。着いた後は彼らに託そうと、莉緒も覚悟を決めて走った。
時計塔は寮の東側に併設されている建物だ。その最上部は砦鵠学園で一番高い場所でもある。遠く噴水広場からも、その一端を窺い知ることが出来る。
徐々に時計塔へと近付いていく中で、最上部付近にへばりついている何かが見て取れるようになった。
「――あれが」
そこにいるのは、幽霊などよりもよほど生々しく死を連想させる不気味な姿。
あれこそが、虚目によって異形化してしまった元人間だ。
おそらく異形が見つめる先に、みのりたちがいる。
(まずは時計塔に上って……いや、多分他の【狩り人】がすでに行っているはず。狭い見晴し台では応援に行っても邪魔になる。今できるのは異形が地面に落とされるのを待つことだけ。でもそんなの、なにかあってからじゃ遅い。どうすれば――)
必死に突破口を探る。危険なのは何もみのり達だけではない。こんな状況が長引けば、不安に耐えきれなくなった他の者まで虚目に取り憑かれかねないのだ。
莉緒は歯を噛み締めた。ああでもない。こうでもない。人の身では、所詮できることなど限られている。――そう、人の身では。
「莉緒ちゃん。寮の屋上へ行こう」
「え……」
「大丈夫だよ」
律の手があやすように莉緒の頭を撫でる。たったそれだけのことが、莉緒の焦燥を掻き消していった。しなやかな指先から伝わる温もりに、莉緒はいっとき身を委ねた。
「……なにか、勝算があるんですか?」
「うん。僕を信じてくれる?」
律は【喚び人】だというのに、今この時において莉緒よりもよっぽど冷静で頼もしく見える。
だから、莉緒は迷いもなく頷いた。
「信じます」
寮の屋上では、異形の姿がぐんと近付いて見えた。しかし、それでもまだずっと上にいる。仮に拳銃を持っていたとしても届かない距離だ。ライフルでもあれば話は別だが。
異形が最上部の見晴らし台の柱のひとつを握り潰すと、突然奇声を上げて飛び上がった。きっと辿り着いた【狩り人】が反撃したのだろう。しかし、飛ばれてしまっては再びどこかに降り立つまで手も足も出せまい。
あんな風にはなりたくないなぁと思いながら、律は天を仰いだ。
「遠夜先輩、私はどうすればいいですか?」
「僕があの異形を喚び寄せるよ。虚目も寄ってきてしまうと思うから、駆除を頼むね」
「えっ」
莉緒が驚いて律を振り仰ぐ。その姿を閉じ込めるように、律はゆっくり瞼を閉じた。
(莉緒ちゃん。本当なら、君への想いをこんなことに使いたくはなかったのだけれど。それでも、君が望むなら。僕は何度だってこの愛を捧げよう)
律は秘めたる想いをほんの少し、解放した。
莉緒が息を呑み、鯉口を切る。虚目がやってきたのだ。
(――愛している。心の底から、君を愛している。君は知らないだろう。この想いを制御するのに一年もかかってしまったことを。僕は君の隣に並び立つに相応しい男になれただろうか? どちらにしても、こうして君と過ごす悦びを知ってしまった以上、もう元には戻れない。君の姿を目にする度に春が芽吹いた。君が微笑んでくれる度に熱に浮かれた。君と話す度に満たされて、君と離れる度に凍えた。君という存在は、四季などよりもよほど、僕を翻弄してくれる――)
これ以上想いを込めるとうっかり外に出してしまいそうで、律は一旦大きく息を吐いた。周りでは莉緒が次々と現れる虚目を仕留めている。凛々しいその姿に、また愛おしさが湧き上がった。今抱きしめたら、彼女は照れも忘れてものすごく怒るだろう。
律は衝動を振り払い、異形に呼びかける。
「おいで。――その子たちより、僕の方がよほど甘美な餌だろう?」
挑戦的に、傲慢に、優美に微笑んでみせた。
何かの匂いを嗅ぎつけたように、異形が周囲を見回す。やがて虚目の特徴を引き継いだ虚ろな眼孔が、律を捉えた。より強い感情を好むのは虚目の本能だ。大きく翼をはためかせ、律めがけて舵を切る。もうそれしか見えていないような全速力。
あと三十メートル、十メートル……五、三――……。
異形が目前まで迫る。しかし、律の中にはほんの少しの恐怖も生まれなかった。なぜなら、
「――おまえの相手は私だ」
誰よりも信頼する【狩り人】がいるから。