エピローグ
何が、起こっているのだろう。
唇に触れる柔らかい感触に、律は呆然と目を見開いた。思わずその肩を押し返そうとしたところで、するりと冷気のようなものが身体の中へと入り込んできた。
(虚目……)
間違いない。虚目が入り込んでくる感覚だ。
(莉緒ちゃんが、虚目を送り込んできた……?)
その虚目は感情を攫うことなく、ただ心の表層を撫でていく。不快感はない。むしろ、じんわりと広がる温もりを心地良く感じた。
(何かが伝わってくる)
心という名の器の中を、虚目が隅から隅まで駆け回っているような感覚だ。何をしているのだろうという疑問の答えはすぐに出た。
あ、と声にならない声を漏らす。律は信じられない思いで莉緒の震える睫毛を見つめた。
(感情が、戻ってきている?)
それは莉緒が虚目に与えられた能力――解放の力だった。
莉緒の虚目が律に取り憑いた虚目たちに語りかけ、取り込んだ感情を解放させているのだ。
『好き』『好きだ』『君が、大好き』
身体が熱い。初めて恋をした時もこうだったと思い出した。心臓が産声を上げるように早鐘を打つ。律は一筋の涙を流しながら、懐かしさすら感じるその感覚に酔いしれた。
虚目が感情を解放していく合間に、別の者の感情まで流れ込んでくる。
『愛おしい』『守りたい』『他の誰よりも、幸せになって』
――これは莉緒の両親のものだ。渾々と湧き出る泉のように、尽きることを知らない愛情。
二つの愛は虚目が取り憑く際に結合してしまったほどに、一対のものとなっていた。
『ごめんなさい』『どうか、いきて』
――……これは、誰のものだろう。深い後悔と悲しみに、心臓が押し潰されそうだ。
(虚目、かな)
莉緒のものでも両親のものでもないのなら、きっとそうなのだろう。
泡のように弾けては消える感情の中で、律は微かに混じって聞こえる愛しい声を掻き集めた。
『私はなんなのだろう』『あの頃に帰りたい』『いっそ全て終わらせてほしい』
――悲しみと憎しみと恐怖を混ぜて煮詰めたような感情に、息をすることもままならない。いま彼女が生きていることが奇跡のようにさえ思えた。少なくとも律には、こんな感情を抱えながら生きられる自信がなかった。
(これが、君が抱えてきた激情)
やっと、莉緒の感情に寄り添えた気がした。この先もずっと忘れないように、律はこの苦しみを反芻する。
しかし、さらに奥底から湧き上がってきた想いが、その苦しみを優しく包み込んだ。
『こんな私を好きになってくれて、ありがとう』
唇が離れる。名残惜しい。思わず手を伸ばしかけて、すんでの所で止まった。莉緒が何かを言おうとしている。律にとって彼女の言葉は、口付けよりも甘美な誘惑だった。
「……もし先輩の気持ちが離れてしまっても、今度は私が追いかけます。だから、覚悟していてください」
精一杯の強がりなのだろう。その肩は不安げにこわばり、微かに震えている。
その姿が無性に愛おしくて、律はたまらず掻き抱いた。
●
一月後。
「つい先日戻ったばかりだと言うのに、また外に行かれるのです?」
「……理事長ですか」
「そのように嫌そうな顔をなさらなくても」
まだ陽が顔を出し始めたばかりの早朝。一人校門をくぐろうとしていた莉緒は、背後からかけられた声にげんなりと振り返った。
「……助けを求められているのに、そう暢気にしていられませんから」
あれから莉緒はろくにクラスに顔も出さず、虚目の討伐依頼を受けて方々を駆けずり回っている。
やはりこの学園の人々が莉緒を見る目は多少なりとも変わった。彼らの目には今、莉緒の背にでかでかと「取扱注意」のラベルが貼られて見えていることだろう。まったく態度が変わらなかったのは恵子ぐらいだ。
「遠夜くんが寂しがっていますよ」
「依頼を受けたのはあなたでしょう」
暁彦との関係もまた少しだけ変わっていた。ふざけたことに、暁彦が先導する虚目対策組織とやらの仲間に誘われたのだ。
最初はもちろん断ろうとした。だがあの後、律が熱を出して寝込んでしまったのだ。それはただの熱ではなく、たくさんの虚目に取り憑かれた反動によるものだった。
この学園で暁彦ほど虚目に詳しい者はいない。さらに、次に頼れそうな佐藤までもがその組織の仲間だと言う。
たとえ莉緒が入団を断ったとしても、彼らは律を放置したりはしないだろう。しかし、莉緒自身がどうしても彼らを信用できず、苦渋の末に入団することに決めた。なるべく側で律を見守るためだ。「先輩に危害を加えたら自分でもなにをするか分からない」などとさんざん脅した甲斐もあってか、だいぶ手厚く看病されたようだった。
今は安静期間に入っており、本人は会うたびに暇そうにしている。
「そうでした。頼りにしていますよ」
余裕綽々な笑みに、いつか絶対に組織を乗っ取ってやると決意して、莉緒は今度こそ学園を後にする。そして、あらかじめ予約をしておいた送迎車へと乗り込んだ。
「駅までお願いします」
「かしこまりました、英雄サマ」
返事をしたのは妙に艶かしい声の女性だ。莉緒はまじまじとバックミラー越しにその人を見た。
「何やってるんですか、佐藤先生」
「アタシも外に用事があるのよ」
莉緒を送るのはそのついでと言うことらしい。
「……じゃあ、お願いします」
「はいはい。それにしてもよくやるわ。本音を言うと、キミも安静にしていて欲しいのだけれどね」
「私はなんともありません」
「表面上はね。けれど、どこかで負担は掛かっているはずだわ。――自分に与えられたものでもない能力を共有しているのだもの」
莉緒は黙り込んだ。
佐藤曰く、莉緒は現在、律の能力を共有している状態なのだそうだ。すでに有していたものに加え、今は十もの能力を扱うことができる。
「何度も言うけれど、虚目の能力は抜けた感情の穴を埋めるように発現するの。けれどキミたちはなにも失わないまま、能力だけを手に入れた。本来なら、収まる場所を失った力が暴走し、心身が破壊されてもおかしくないわ。キミたちが無事なのは、一杯になった容量を解放の力でむりやり広げているから。……そのうえ、キミの能力だって元々はご両親のものなのよ。自分が爆発寸前なの、分かっているかしら?」
「……あんまり」
「でしょうね。身体能力を底上げされているのなら、疲労にも気付けないわよね」
悩ましげな溜め息を吐いた佐藤に、莉緒は口をへの字に曲げて居心地悪く制服の裾をいじった。そう言われても、扱える能力が増えたこと以外の変化など微塵もないのだから、自覚のしようがないではないか。
「体もそうだけど、精神の方も心配だわ。キミは何でもかんでも背負いすぎよ。少しくらいは恋人に背負わせたらどう?」
「先輩はただでさえ慣れない能力に寝込んでしまったんです。負担はかけられません」
「過保護ね」
その後もぽつぽつと釘を刺されながら車は坂道を下り、野を越え、街へと辿り着く。その頃には莉緒は疲労感によってくたりとしていた。
「それじゃあ、気を付けるのよ。英雄サマ」
疲労の元凶である佐藤は、短く別れを告げて颯爽と立ち去った。
「……その呼び方はやめてほしいんですけど」
莉緒は何度目かもわからない溜め息を吐いて、軽く伸びをする。
今、世界中が砦鵠学園に注目していた。情報統制が敷かれている学園内ではあまり話題になっていないが、それも時間の問題だろう。
なにを思ってか、暁彦は“抗異形化薬”の存在を世間に公表したのだ。それによって今、多くの期待と不安が虚目研究部に寄せられていた。彼らは現在、死にものぐるいで“抗異形化薬”の改良に取り組んでいるそうだ。世間の目がある以上、今までほど好き勝手な行動はできないだろう。
そして“抗異形化薬”と並んで注目の的となっているのが莉緒だった。世間では『現代の英雄』などと称されている。
そんなふうに持て囃されるようになったのにも理由がある。莉緒は律から得た能力の一部――分解と構築、再生を駆使する事によって、異形を元の人間に戻す事ができるようになっていたのだ。
その力は瞬く間に知れ渡り、あちこちから名指しで依頼が来るまでになっていた。
(気が重い。けど、異形化した人たちを元に戻せるなら、頑張りたい)
電車に揺られ、目的地に着いた頃には昼前になっていた。莉緒は足早に指定された場所へと向かう。
目的地にはすでに数人の役人が落ち着きなく莉緒を待っていた。
「天川です。依頼者の方々ですか?」
「ああ、よくぞお越しいただきました! 本当に、本当に、ありがとうございます!」
「遅くなって申し訳ありません。早速、異形の元へ案内していただいてもよろしいでしょうか」
落ち着きはらった莉緒の眼差しに、その姿を見て不安になっていた役人たちも顔を引き締めた。
「ええ、こちらです。ここは退魔部隊もいないうえに警官も少なくて、なんとか異形を隔離施設に追い込み、閉じ込めているところです。通常なら近くにいる【狩り人】の方に依頼して始末してもらうのですが、やはり元の姿に戻せるのならば戻してやりたいと思いまして……貴女のような年若い学生さんに頼むのも気が引けますが、どうかよろしくお願いいたします」
やがて、ポツンと佇む武骨な施設が見えてきた。頑丈さだけを考えて造られた異形の隔離施設。各地で見られるタイプのものだ。
二重扉の一つ目をくぐる直前、背後で「誰だ!」と誰何の声が聞こえて、莉緒は即座に振り返る。
そして、そこにいた人物に目を見張った。
「や。来ちゃった」
「来ちゃったって……」
そこにはやたらニコニコと笑顔を振りまいている律がいた。慌てて周囲の者に「知り合いです」と言いながら割って入る。
なんでここにいるんだと目を険しくさせる莉緒に、律は照れながら言い訳を述べた。
「だって、あんなこと書かれたら居ても立ってもいられないだろう?」
「手紙のことですか? そんなトンチキなことを書いた覚えはありませんけど」
依頼によって頻繁に学園の外へ行くようになった莉緒は、あまりにも律が寂しがるものだから、手紙を書くようになっていた。直接渡すのは気恥ずかしいので奏にたくしてはいるが、内容はごくありふれたものだ。恋人間で交わすものにしては味気ないとすら言える。決して、このように頬を染めながら読むような文は書いていないはずだ。
しかし、律は熱のこもる吐息をもらして、ありえない文章を読み上げた。
「“会えない時間を寂しく思います”」
「……は?」
「“落ち着いたら、先輩と色んな場所へ行って、色んな思い出を作りたいです”」
「………………。なんで、それ」
莉緒は戦慄した。書き覚えのある文面だ。けれど出した覚えはない。気の迷いで書いてみたものの、正気に戻ってすぐに破り捨てたものなのだ。そんなものが律に届くはずがない。なぜ届いている。
「書き損じた紙を奏が拾ったみたいでね。今日の手紙と一緒にくれたんだ」
(奏さん――――‼︎)
莉緒は心の中で絶叫した。
奏は一週間ほどずっとぎこちない態度で、莉緒の動向を探っていた。しかし、ある日突然吹っ切れたような顔で「わたし、何があっても莉緒さんの味方でいようと思います」と宣言し、それ以来前にも増して莉緒たちの恋愛事情に首を突っ込むようになったのだった。おもに律の援護射撃に精を出している。
頭を抱える莉緒の手を取って、律はその甲にキスをした。
「君はもっと我が儘になるべきだ。愛が欲しいなら求めてみせて。僕のものなら、いくらでもあげるから」
全く、完敗である。律がこうだから、こちらまで熱に浮かされてらしくない行動に出てしまうのだ。
莉緒は咳払いをひとつして、律の手を握り返した。そのまま、困惑顔の役人たちへ声をかける。
「すみません。彼も連れていきますね」
「は、はあ……しかし一般人が立ち入るのは危険では……」
「大丈夫です。彼は――私の相棒なので」
やがて二人の活躍は国を越え、歴史にまで名を残すこととなった。
完成した“抗異形化薬”の普及と共に表舞台からは退いたが、その後も仲睦まじく暮らしていることなど、彼らを知る者ならば想像にかたくないだろう。
あとがき
『人形騎士と恋の喚び声』、これにて完結とさせていただきます。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。素人の拙い文章ですが、ほんの少しでも楽しませることができたのであれば幸いです。