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第二十三話 恋した君へ

 刀を振るう華奢な背中を、律はただただ見守る。

 虚目が降り立ってからの十年間で、律はすっかり誰かに護られることに慣れてしまった。妹に、名も知らぬ【狩り人】に、同級生に、そして莉緒に――常日頃から、戦う誰かの背中を見ていた。


(杉本みたいな奴は、耐えられないのだろうね)


 護られることしかできない立場というのは、次第に人から自尊心を削りとっていく。杉本は先んじて人を引っ張っていくタイプの人間だ。そんな彼にとって、【喚び人】の称号はさぞ窮屈に感じたことだろう。それでなくとも不名誉な称号なのだから。


(少し前までは、そんなに他人の目を気にしてどうなるのだろうと思っていたんだけどな)


 もともと律は自立心が強く、親にも頼らない子供だった。しかし、【喚び人】になり他人に頼るばかりの日々を迎えても、その自尊心が傷付くことはなかった。自分が他人からどんな目で見られているかなど、心底興味がなかったのだ。言い換えればそれは、誇りが無いとも言えるのだろう。


(でも今は少しだけ、彼の気持ちも分かるかもしれない)


 迷惑をかけていることへの恐怖。ひいては、嫌われる可能性への恐怖。

 律は今、それをひしひしと感じていた。

 その対象である莉緒の背中に、言葉なく語りかける。


(君は今の僕が好きだと言ってくれたね。この、いつだって見ていることしかできない僕を)


 一度その声を思い返すと、こんな時でもこの心を浮き立たせてくる。本当に、恥も外聞もなく転げ回りたくなるほどに嬉しかった。


(僕も君が好きだよ。大好きだ。だから、君を悲しませたくない。傷付いてほしくない。ならさっさと終わらせてしまうべきだ。君が僕に感じた好意が、カタチを持つ前に。なのに――この恋だけは、失えない)


 これほど失いがたい感情をくれた莉緒への感謝は、きっとこの恋を失くしたとしても消えないだろう。

 こんな感情を得られたこと自体が、奇跡のようだった。

 だからこそ、今はほんの少し恨めしい。


(こんな感情はきっともう二度と手に入らない)


 それを失った時、果たしてこの激情を知らなかった頃に戻れるのだろうか。二度目の奇跡を信じて、彼女に期待をかけずにいられるだろうか。――失望せずに、いられるだろうか?

 ふいに、一匹の虚目が律の目の前まで飛んできた。莉緒の焦った声が聞こえる。反射的に振り払った際に、虚目はその姿を靄に変えて皮膚から体へ染み込むように消えていった。

 ぞわりと全身の毛が逆立つ。


「――先輩っ!」


 風向きが変わる。数匹の虚目を運んできたそれが、今度は虚目を通さんとする壁となった。杉本はかなり細かく空気を操れるようだ。


「……莉緒ちゃん」


 泣きそうな顔で自分を見る莉緒に、愛おしさが湧き上がった。

 いつ冷めてしまうのかと不安になったのが馬鹿馬鹿しく思えるくらいに、会うたびに降り積もっていった恋心。

 ――それが今、過去のものになろうとしていた。


「愛しているよ。これから先も、僕が愛するのはきっと君だけだ」




 恋をした。


『……え……えっ⁉︎ 恋⁉︎ 兄さんが――恋を⁉︎』

『そんなに驚かなくても』

『だって、だって……嬉しいのだもの! 兄さんったら色恋沙汰にはとんと縁が無かったし……。あ、お相手はどなたなの⁉︎』

『それは――』


 まるで自分のことのように喜んでくれた奏と、もしかしたらその時初めて対等に話をしたかもしれない。悪い気分じゃなかった。

 いや。むしろ嬉しかったと、確かにそう思っていた……と、思う。




 恋を綴った。


『君に恋をして、早一ヶ月。君に会うには、まだ修行が足りないようです。そうそう、君は知っていますか? この時期はショッピングモールの裏手に見事な牡丹が咲いていて――』


 この激情を制御できるまで君と会うことを禁じられてしまい、本当は少しだけ不満を感じながら書いていた。名前を書かなかったのは、少しでもこの手紙に意識を向けて欲しかったからだ。

 どんな顔でこれを読んでいるのだろうと想像しては虚目を惹き寄せるものだから、特別指導にあたっていた感情制御担当の教師が頭を抱えていたのを覚えている。

 便箋を選ぶだけのささやかな時間がひどく輝いていて、心を躍らせていた、はずだ。




 恋が溢れた。


『とにかく、バディにはなりません。絶対に』

『えー』

『そんな不満そうにされても……何なんですかもう……』


 初めて真正面から君と話した時、あまりの可愛らしさに一年間も感情制御の修行に時間を費やしてしまったことを後悔した。同類なんて一目見ればすぐに分かる。恋敵の多さに目眩(めまい)を覚えた。

 あんな登場の仕方をしたのは、人の目に晒された方が冷静になれるからだ。いきなり二人きりで会ってしまうと、この熱情を抑えることなどとても出来そうになかったから。

 その手に触れた時、本当に言うべき言葉をすっ飛ばしてしまうくらいに、とても……緊張、した……。




 恋と生きた。


『先輩、暇なんですか』

『ちゃんと講義を受けているのか心配してくれているんだね? 安心して、ちゃんと単位は取ってあるから。ああ、でも留年して君と同じ学年になるというのも……』

『絶対にやめてください』


 君は流されやすいくせに意外と頑固だ。呆れながらもあっさりと隣にいる事を許してくれたものだから、なし崩し的に恋人関係にまで持ち込めないかと期待したのだけれど……そこだけは頑なに首を縦に振ってはくれなかった。

 でも、僕を語って。君を知って。やっと少し、その心に近付けたと思ったのに――……。




「ああ――」


 激情が過去のものになっていく。

 宝物だったはずのものがガラクタへと変わっていく。

 恋で満たされていた心が空になり、懐かしい自分が顔を出した。


 ――そう嘆くことでもないだろう。今までがおかしかったんだよ。


 そうかもしれない。明日になればこんな忌避感も罪悪感も綺麗に消えて、何事もなかったかのように過ごすのだ。

 律は片手で顔を覆った。まるで叱られた子のように莉緒が声を震わせて、呼びかけてくる。


「先輩……?」

「……ごめん。今は見ないで」


 静まり返る講義室の中、一帯を隔てる風の音だけがひときわ強くごうと唸り声をあげた。


「遠夜律……能力を手に入れたんだろ。学園の虚目を一掃できないか」


 一歩も動かず、神妙な顔で成り行きを見守っていた井口が口火を切る。律は何も言わずに腕を一振りした。

 ――風が止む。


「? 杉本、どうしたんだ?」


 人の姿を取り戻した杉本が驚愕の表情で律を見た。


「【狩り人】たちの動きが止まった。虚目が消滅したようだ。遠夜……お前がやったのか?」

「そうだよ。僕が、やった」


 律は指の隙間から杉本を見た。紅玉の瞳は底冷えするほど醒めていて、まるで命を感じさせない。

 こうして、一つの恋心を犠牲にして学園の平和は守られた。


「騒がれるのはごめんだし、僕は裏口から寮に戻るよ。説明は君たちでしてね。莉緒ちゃん……君はどうする?」


 律は莉緒とは頑なに目を合わせなかった。けれど、その声は雄弁に莉緒への熱情が失われたことを語っていた。


「…………」


 莉緒は瞼を閉じて、両手を胸に当てた。

 何かを問うように。或いは、何かと問答するように。


「先輩」

「なにかな」

「こっちを、見てくれませんか」


 大人しく顔をあげた律を、莉緒は静かな表情で見据えた。


「私は【狩り人】です。虚目の脅威から人々を守る為に、この刀を振るっています。でもこれは……今からすることは、【狩り人】だとかは一切関係なくて、ただの私の我儘なんだと思います」

「……ごめん。どういう意味だい?」


 律は困惑気味に首を傾げた。先の見えない言葉に、苛立ちすら感じていたかもしれない。そんな律に、莉緒は瞳だけを不安げに揺らし、それでも精一杯に微笑んだ。


「――私、先輩のことが好きです」


 ごめんなさい。

 そう呟いて、莉緒は律へと口付けた。

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