第二十二話 “抗異形化薬”
時は少し遡る。
剣士の背中を見送った莉緒は、残る二人を振り返った。莉緒が何かを言うよりも早く、井口が口を開く。
「遠夜律は残すんだ? ここで虚目を引き付けて、外の【狩り人】に狩らせるのが一番早いと判断したか。賢明だね」
「……ここは広すぎるので、教室に入りましょう」
近くの講義室へと移動し、莉緒はそこあったロープで黙々と井口の両腕を縛り上げた。
「いてて、ちょっとキツすぎない?」
「大人しくしていて下さい」
カーテンを引いて外の景色を遮断する。何もできないのがもどかしいが、あとは外にいる【狩り人】たちに任せるしかない。
莉緒は律を背後に庇い、井口を睨み付けた。
「あなたの言う“抗異形化薬”の効能について。それから……どうやって先輩に注射器を打ったのか。洗いざらい吐いてください」
「さっきも言ったけど、この薬は異形化を防ぐものだよ。今の遠夜律は、虚目の群れに突っ込んだって異形化する事はないだろう。素晴らしい発明だと思わないか? そりゃあ多少虚目を引き寄せやすくはなるが、それだって異形化しないのならたいした問題ではない」
「……本当に、それだけなんですか」
「この事態を収拾させる為にはああするしかなかったんだよ。ただでさえ虚目を惹き寄せやすい体質の遠夜律ならば、この薬を最大限に活用できるはずなんだ。なにせ虚目は、一度取り憑いた相手から離れることができない」
間違っているのはお前だと言わんばかりに、井口は挑戦的に目を細めた。とても嘘を言っているようには見えない。――しかし、彼はまだその薬の真髄を隠している。そう思うのは、莉緒がもう虚目の持つ特性を知ってしまっているからだ。
「虚目は、感情を求めて人に取り憑く性質があります」
「どうしたんだ、突然?」
「取り憑いた人間が異形化してしまうことは、虚目にとっても不本意なことです。……感情を、得られなくなるので。なら虚目は、人間とどんな関係を築こうとしているのでしょうか」
井口は片眉を上げた。まさに授業でも受けているかのように耳を澄ませて聴講する。
「――相互扶助。人間に感情を分け与えてもらい、虚目は人間に恩恵を与える。そんな関係です。“抗異形化薬”が本当に異形化を防ぐものなら、取り憑かれた人間は虚目からの恩恵を受けることができる。例えば、身体能力の向上とか」
「驚いた。研究者でもないのにそこまで知っているのか。先の戦闘といい、虚目への反応といい……やっぱりあんた天然の成功例なんだな」
莉緒はそれには答えず続けた。
「人はなぜ、異形化してしまうのか。それは異物を心に住まわせることの拒絶反応が、虚目の予想をはるかに越えて大きかったからではないかと思います。“抗異形化薬”は、それを抑えるものなんですよね。副反応がないとは思えません」
「だから虚目を引き寄せやすくなると――」
「それは副反応ではないでしょう。異形化しない人間を嗅ぎつけた虚目が集ってきているだけ。副反応が出るとしたら、服用者の精神に関わってくるものなんじゃないですか」
それがどのようなものなのかは分からない。否、想像はできるが信じたくないと言ったほうが正しいか。
莉緒が振り払った想像を、律が引き継いで口にした。
「心の抵抗力を下げる必要があるのなら――思考する力が失われるとかかな?」
どうなんだと問う莉緒たちに、井口は「それは違う」と呆れた溜め息を吐いた。
「“抗異形化薬”は、服用者に取り憑いた虚目へと影響を与える薬だ。人間にとっては、本当にただ異形化を防ぐだけのものだよ。そも、心を失った人間に虚目は興味を示さないだろう。……まあ、取り憑かれた際に一部の感情は奪われるけどね。それだって些細なものだ。なにせやつらは、たった一部分の感情を切り取るだけで満足する。――天川莉緒、虚目と共存しているあんたなら分かるだろう」
莉緒は困惑した。
(そんなはずない。だって私は、何の感情も奪われていない)
暁彦は言っていた。虚目は人類の進化の為に生まれたのだと。その言葉を否定できなかったのは、莉緒が虚目を取り込んでからひたすら一方的に恩恵を受けていたからだ。
だから、成功を相互扶助と捉えた。
しかし井口の言が正しいのであれば、能力を使いこなしていた暁彦や同じく成功例だと思われる佐藤は、虚目に何らかの感情を奪われた後だということになる。
(……そうか、私は取り憑かれたわけじゃないから)
そう、自らこの手で虚目を取り込んだのだから、彼らとは前提が違うのだ。与えることもなければ奪われることもなく、ただ自分が奪う側でいただけの話だった。
胸の内に孤独感が芽生え、莉緒は心のどこかで自分が同類を見つけた事に安堵を抱いていたのだと知った。
(でも、だとしたらやっぱり、虚目に取り憑かせてはいけない)
【狩り人】としての矜持が莉緒を奮い立たせる。
井口はこう言っているのだ。異形化を防げても、感情の喪失は防げないのだと。
律が肩を竦めて反論した。
「減らず口だね。何十匹もの虚目に取り憑かれれば、そのうち廃人にもなる。そうだろう? 僕を狙ったのは君たちに協力しようとしないことへの逆恨みかな」
「逆恨みなんかじゃない。“抗異形化薬”は大量生産には向かないんだ。効率的に使わなければいけない。俺たちでは無理だ。人に取り憑いた虚目は今度は宿主を死なせまいと能力を開花させるが、相性というものがあってね。【喚び人】が虚目に狙われやすいのはその相性が良いからなんだ。――そう、だから! あんたなら素晴らしい能力を開花させることが出来るはずなんだよ! それこそ、今この学園に集う虚目を一掃できるくらいの能力を!」
井口の言葉が徐々に熱を帯びていく。その姿は、影の世界を惜しんだ時の幸人に少しだけ似ていた。
「……そんなことをしなくても【狩り人】が退治します。時間は、かかるかもしれないけど……信じてくれませんか」
莉緒は出来うる限り真摯に言葉を紡ぐ。しかし井口はそれには答えず、ただ薄く微笑んだ。
もう、とっくに歩む道を決めてしまった者の顔だった。
「質問、もう一つあったね。どうやって遠夜律に注射器を打ったのか、だったか。虚目は人間にしか取り憑かないから、当然薬の実験も人間自身で行うしかない。研究部でも何度か治験を行ってね。その中で一人、強力な能力を開花させたものがいるんだ。――杉本!」
正面を向いたまま、井口が叫ぶ。杉本。聞いた事のある名だ。
警戒しつつ記憶を辿っていると、突如として部屋中の空気が振動した。
「ああ 任せ ろ」
どこからともなく男の声がする。律でもなければ、井口のものでもない。空間そのものを揺るがす歪な声に莉緒がその顔を思い出した瞬間、建物が悲鳴をあげた。
近くで、遠くで、ガラスというガラスが割れる。一瞬の破砕音が共鳴し、耳を劈くような轟音を響かせた。
「まずい――先輩!」
莉緒は顔を真っ青にして律を引っ張る。どこか密閉された場所へ行かなければ、虚目の恰好の的だ。早速カーテンの隙間から十数匹の虚目が這い出てきている。
(とにかく、まずはここから出て――そうだ、あの人も)
予断を許さない状況に莉緒は歯を噛み締めて、まずは井口の縄を解いた。井口は目を丸くして莉緒見上げる。
「あなたは自分で逃げてください」
「……驚いた。この状況で俺に構う余裕があるのか」
「私は印付きの【狩り人】です。この学園の人々を、守らなければいけない」
黙り込んだ井口を尻目に、莉緒は再び律の手を引く。
「無駄 だ もう 逃げ 場 など ない」
「う、ぐっ――⁉︎」
「莉緒ちゃん――!」
ドアに手を掛けようとした莉緒の体が、衝撃波によって反対側へと吹き飛ばされた。机を越えて壁に背中を打ちつける。それでもすぐに立ち上がり、侵入してくる虚目を斬り伏せた。まったく、倒れている暇もない。
莉緒は痛む背中を無視して、どこかに潜んでいるであろう杉本を睨みつけた。
「杉本……先輩。言ったはずです。私のバディに、手を出さないでください」
ぐわんと空間が歪む。莉緒はまた攻撃かと身構えた。しかし、空間が生み出したのは衝撃波ではなく人の形だ。気体が液体に、液体が固体になるように、空間が徐々に一人の男を組み上げていく。
「お前こそ、人間の進化を妨げるな。人形騎士」
そして杉本が姿を現した。体格の良い体にやはり白衣を纏った彼は、自身を睨みつける莉緒へ傲然と鼻を鳴らした。
「……あれからお前の事を調べたぞ。幼少より自警団に所属し、異形に立ち向かい、多くの人々をその手で救ってきたそうだな。それは称賛すべき勇敢な行動だ。――だがな、お前のような者がいるから、人類はいつまで経っても成長できないんだ」
杉本が話す最中にも、莉緒は次々と虚目を斬り捨てた。窓からだけではなく、廊下からも大群が押し寄せてきている。逃げ場がない。莉緒の額にじわりと焦りが滲んだ。
「誰も彼も、成長だの進化だの御託を並べて……。そんなことを言う前に、望んでもいない人に迷惑をかけて危険に晒すのをやめたらどうですか!」
「先程の異形との戦闘を見ていたぞ。まるで化け物同士の戦いだと誰もが思っただろう。噂が噂を呼び、明日から周りの者がお前を見る目は変わるだろうな。だが“抗異形化薬”によって、近い将来にそんな異常も当たり前のものになる。……それに、お前は望んでいるのだろう。激情が悪とならない世界を」
「……見ていたんですか」
「どうにか出来ないかと思ったのだがな。一体化に時間がかかってしまった。……この薬さえ投与していれば、淡浪は素晴らしい能力を得られたかもしれないな。本当に、残念だ」
杉本は影の中でこの五号館に幸人の姿を見つけた時から、ずっと潜んでいたのだ。当然、莉緒が語った言葉も聞いていたはずである。さらに莉緒に着いてきた律の姿を確認して、この計画を立てたらしい。井口は莉緒の気を逸らす為の陽動だったということか。
「空間と一体化する能力ですか」
「慣れればもっと使いこなせるようになるはずだ。現にあの異形を制したお前ですら手も足も出なかっただろう。想像してみろ。【喚び人】という称号が栄誉となる未来を。異形化して誰かを襲うのではなく、異能を得て誰かを助ける側になるのだ。【狩り人】も異形を……いや、虚目でさえ殺す必要がなくなるかもしれん。それは輝かしい未来だと思わないか?」
“抗異形化薬”は一概に悪い薬とは言えない。むしろ今後の人々にとって大いに役立つものであることは明白だ。それは莉緒にも理解できる。
「……少し前の私なら、その言葉に揺れ動いたかもしれませんね。でも……」
それでも、今彼らがやろうとしている事を見過ごすことはできなかった。
「――私が今一番怖いのは、今ここにいる先輩を失うことです」
莉緒は強く足を踏み込んで縦横無尽に講義室を駆け回る。机をとび越え、壁をつたい、虚目を屠っていく。重力さえも無視したようなその動きに、鈍重な虚目はなす術もなくその身を灰に変えていった。
十秒。
たったの十秒で、莉緒はこの講義室に押し寄せようとしていた百余りの虚目を葬り去った。井口や杉本に迫っていた虚目までをも、残さずに。
「一つ、教えてください。……あなたは、虚目を取り憑かせたことで何の感情を失ったんですか?」
「……未来へ向かう感情が、虚目の好物らしい。俺は【喚び人】の地位を向上させたかった。くれてやったのは、その熱情と言ったところか」
「でも、あなたは今も人の未来のために動いているんじゃないんですか」
「いいや。これは――惰性だ」
杉本はふっと嗤って、再びその姿を消した。
「――っ、また風が……!」
律へ向かって暴風が吹く。四方から数えきれないほどの虚目が風に運ばれてやって来た。無理やり取り憑かせる気でいるのだ。
(――捌き、切れない!)
もはや直感だけで虚目を斬り捨てる中、ついに一匹の虚目が莉緒の横をすり抜けた。
その虚目はまっすぐ律へと飛んでいき、肌に触れると同時に灰色の靄へと姿を変えて、律の体内へと入り込む。
「先輩――っ!」
動揺が油断を誘う。これを契機に一匹、もう一匹と、数匹の虚目が莉緒の剣戟を逃れていった。
こうなってはもうどうすることも出来ず、風が止んだことにも気付かぬまま莉緒は顔を真っ青にして律を見つめた。