第二十一話 迫る脅威
「……どうか、安らかに」
両手をほどいて、莉緒は異形の死骸を見おろした。
元が人間だったなんてとても思えないこの白骨は、一部を残して研究所へと送られる。遺族の元に残るのは、その僅かな一部分だけだ。それすらも「異形の骨などいらない」として受け取りを拒否されることが多い。
莉緒にしても、両親の骨は病院で眠っている間に処分され、手元には何も――仇であるはずの虚目くらいしか、残っていなかった。
幸人の親族がどういった決断を下すのかは分からない。ただ彼が大切にしてきた物や想いが受け継がれていきますようにと祈るばかりだ。
莉緒は砦鵠学園を一望した。この距離からでも何十、何百という数の視線が突き刺さるのを感じる。そこに乗せられた感情は決して良いものばかりではないのだろう。しかし莉緒は、彼らが無事で良かったと心の底から思えた。莉緒が幸人から受け継いだものがあるとすれば、そう思える心そのものである。
「私、この学園の人たちを守ってみせます。だから安心してください」
その結果、自分に向けられる感情が悪いほうへ変わってしまったとしても構わない。そう思えるのはきっと、他の誰よりも強く、不変だとすら思える愛情をくれる人がいるからかもしれない。
「……そろそろかな」
淡浪幸人異形化の騒動は、一応の終止符が打たれた。
――しかし、【狩り人】にとって正念場となるのはここからである。
『緊急放送、緊急放送。高等部三年、印付きの鷹崎爽汰です。全校住人へ避難勧告を。虚目の大群が押し寄せてくる可能性があるため、ただちに屋内へと避難してください。なお、緊急事態につき地下通路を開放します。使用の際は【狩り人】の指示に従って行動してください。【狩り人】の皆さんは追って指示を出しますので、専用端末をご確認ください。繰り返します――』
一瞬のノイズ音の後、各所に設置されたスピーカーから放送が流れた。全校放送と呼ばれるそれは、北のショッピングモールから南の庭園まで、砦鵠学園という町に住む全ての人に向けて流されるものだ。異形は絶対に倒すからと約束して、爽汰には全校放送ができる一号館へと向かってもらったのだった。
莉緒は小型のタブレットを取り出す。胸ポケットに入るサイズのそれは、【狩り人】同士で情報交換や連絡をするために支給されたものだ。聞けば幸人が発案し、実現させたものだという。
位置情報を送ってから地図を開くと、自分に加えて他の【狩り人】たちの現在地も表示された。現在この五号館にいる【狩り人】は莉緒のみだが、近くには他にも十数人の【狩り人】が集まっている。異形を退治しにやってきた者たちだろう。
付属のイヤホンを片耳に付け、受信設定を爽汰のみに。これで爽汰の指示だけを拾うことができる。
「天川です。五号館に残った人たちを集め、地下通路へ向かいます」
内蔵されたマイクが莉緒の声を文章化し、タブレットに送信した。無事に作動していることを確認して、莉緒は足早に屋上を後にする。
「お疲れ様、莉緒ちゃん」
するとほどなくして、壁にもたれ掛かった律が片手をあげて莉緒を出迎えた。その慈しむような表情に、知人を葬ったことで凍り付いたように強張っていた莉緒の心が解れていく。
「お疲れ様です。放送を聞いたと思いますけど、残った人がいないかを確認してから地下通路へ向かいたいと思います。先輩も着いてきてくださいね」
「もちろんさ」
莉緒たちは最上階から一部屋ずつ見廻り、居残っている人がいないかを確認していった。影の中にいた時点ですでに非難誘導が行われていたこともあり、ここに残っていたのは両手で足りるほどだった。
一通り確認し終わったところで、莉緒は保護した人たちを振り返る。場所柄、そのほとんどが大学部の生徒だ。幸いと言うべきか、屋内に篭っていた彼らからは莉緒に対しての恐怖などは感じられない。
「それでは地下通路を通って寮へ――」
「ああっ、待ってくれ!」
莉緒の声を遮り、校舎の外から誰かがやって来る。大学部の生徒だ。研究部の者だろう。私服の上に白衣を着たその青年は、足を縺れさせながら莉緒たちの元へやって来た。
「良かった間に合って……!」
「あれ、井口もこっち来てたの?」
知り合いなのだろう。集まった避難者の一人が彼に声をかけた。
「ああ。その……異形の回収をしようとしたんだけど、さすがにこの状況じゃあね。俺も入れてもらっていいかな」
「もちろんです。では、」
行きましょう。そう言いかけた所で、莉緒は視界の端に見えたものに反応してすかさず井口の手を捻り上げた。
「っぐぁ――!」
その手から注射器が転がり落ちる。中には透明な液体が満たされていた。
「今、何をしようとしたんですか?」
「……ハハ、いや流石は人形騎士だなぁ。隙が無いや。大丈夫、害のあるものではないから」
「とてもそうは見えませんが」
莉緒は眉をひそめた。異形になってしまったとはいえ、幸人を葬った自分に殺意が向くのは覚悟していた。しかし、彼が狙ったのは律だ。それも恨みからの行動ではないようだった。
(研究棟とここは大学部内ではほとんど対極の位置にあったはず。わざわざここまで来て……遠夜先輩を狙った?)
嫌な予感に胸が騒ぎ出した。
どちらにせよ、こうなってしまっては一人で対処するのにも限度がある。これ以上他の避難者たちを不安にさせないためにも、監視と誘導で分かれた方が良いだろう。
「……みなさん、もう一人応援を呼ぶので、少々お待ちください」
莉緒は端末を操作して救援を頼む。応答はすぐに来た。この周辺を見回っていた剣士が駆けつけてくれるようだ。頼りになる知り合いの登場に、莉緒はひとまず胸を撫でおろす。――……その背後で、床に転がったままの注射器がひとりでに動き出していた。
「――――っ⁉︎」
「きゃあッ⁉︎」
誰かの悲鳴に混じって、律が呻き声をあげる。井口を除く全員が、驚愕に顔を強張らせた。いつの間にか律の首筋に注射器が刺さっているのだ。莉緒が井口を詰問している間、誰もその場を動いていないにも関わらずである。
そのうえその注射器は、意思を持ったように皆の目の前で中の薬品を打ち込んでいった。
怪奇現象としか言えない光景に、一人の生徒がへたり込む。莉緒も、当の律ですら、何が起きたか理解できていなかった。
「な……どうやって、先輩に何をしたんですか……!」
莉緒は思わず激昂して井口を拘束する手に力を込めた。今の彼に何ができたとも思えない。しかし、何かをするとしたら彼しかいないはずだ。
井口は莉緒を呆れた眼差しで一瞥し、ガラス越しに空を見上げた。いっそ不気味なほどに澄んだ瞳だ。
「――淡浪幸人の影響力は強い。虚目は絶えずここへやって来るだろう。何百、もしかしたら何千とね。それだけの数、【狩り人】の手にだって負えない。そろそろ人間も次のステージに立たなければ、いつか脅威に敗れてしまう」
「何を打ったんですか! ――答えろっ!」
「“抗異形化薬”」
「こ、う……異形化……?」
「虚目に取り憑かれた際の異形化を防ぐものだよ。人体に害を及ぼすようなものではない。体調はどうだい遠夜律。何ともないだろう?」
「……気分は最悪だけれどね」
律は首筋を押さえて悪態をついた。確かに、少なくとも表面上に異常は見当たらない。
「でも……でもそれなら、こんなやり方をしなくても――」
なおも問いただそうとした莉緒の耳に、虚目の声が届く。咄嗟に井口を背後へ放り投げて刀を構えると、そこには悪夢のような光景が広がっていた。
『ここ』『どこ?』『ぺた、ぺた』もう日も落ちきったはずなのに、玄関口のガラスが真っ白に埋め尽くされている。『とおれない』『むこう』『あれ』『とおして』おびただしい数の虚目の群れが、一面に張り付いているのだ。『ちょうだい』『ほしい』『あれが』『むむ、む』空気に溶け出したその声が、何重にもなって耳の中で反響する。『ぺこ、ぺこ』『すいたの』『おなか』『ほしい』莉緒はたまらず耳を塞いだ。『ほしい』『あれ』うるさい。『ほしい』『ほしい』『あけてー』うるさい。『ここ』うるさい。『ほしいの』うるさい。『あけて』
「――莉緒ちゃん」
洪水のように押し寄せる声に呑み込まれそうになる莉緒を、律はたった一声で掬い上げた。
「聞くなら僕の声だけを聞いていて」
「……な、何言ってるんですか。こんな状況で、まったく……」
あれだけうるさく反響していた虚目の声が、波が引くように遠くなる。
「落ち着いたかい?」
「……はい」
状況は何も変わっていない。虚目は依然として『ほしい』だの『あけて』だのと口にしている。
それなのに、律が虚目などよりもよほど主張激しくこの心の内側に居座ろうとするものだから、そんな声を聞いている暇などないのである。
「何故、耳を……? まさか、虚目の声が」
打ちつけた腰をさすりながら口の中で疑問を呟く井口を横目に、莉緒は玄関口が完全に閉ざされていることを確認する。
「とりあえず、虚目が入り込めるような隙間はなさそうですね」
莉緒は少しだけ緊張を緩めて、注射痕の残る律の首筋に手を伸ばした。
「先輩。本当に、なんともありませんか?」
「少なくとも今は大丈夫だよ」
「でも少し赤くなっているような……」
「それは、まあ、うん。好きな子にこんな風に触れられたら、誰でも赤くなるよね」
「…………す、すみません」
莉緒はぎこちなく手を引っ込めた。確かにこれは付き合ってもいない男女の距離感ではない。しかし、こんな事をしてしまったのは律の日頃の行いのせいではないかと、莉緒は心の中で言い訳を述べた。
「――天川。すまない、遅くなってしまった」
そこでようやく救援がきた。剣士だ。玄関が虚目に覆われているため、裏から回って来てくれたのだろう。僅かに息を切らせていた。
到着すると同時に、ぐるりと視線を一周させた剣士が真顔で尋ねる。
「これは、どういう状況だ?」
玄関口を埋め尽くす虚目の大群。何故かうっすら頬を染めた莉緒と律。顎に手を当ててぶつぶつと呟く研究部の井口に、すみで困惑と共にそれらを見守る生徒たち。混沌と言うほかない状況だ。
「狩野先輩。すみません、少し厄介なことになっていて……」
いち早く立ち直った莉緒が経緯を説明する。
「彼が突然、遠夜先輩に危害を加えてきて……」
「心外だな。俺はただでさえ虚目を呼び寄せやすい遠夜律に、薬を処方しようとしただけだよ」
「……その薬が、今これだけの虚目を惹きつけているんじゃないんですか」
「へえ。俺には視えないけど、そんなにいるのか? 他の者の治験記録では多少の増幅効果しかなかったんだけどな」
玄関の外では徐々に【狩り人】が集まり、各々武器を振るっている。視えない者たちは、その様子を見て尋常じゃない数の虚目がいることを察した。成り行きを見守っていた一人が身震いして声を張り上げた。
「あの、は、早く寮に帰りたいのだけど……!」
「あ、そうですね……状況はあとで話しましょう。とにかく狩野先輩には彼女たちを寮まで送り届けてほしいんです。私はしばらく、ここで彼を監視しています。また何をしでかすか分からないので。お願いできますか?」
「ああ、分かった」
すぐに戻ると言い残して、剣士は保護した者たちを地下通路へと引き連れた。
五号館の地下通路への入り口は講堂にある。
剣士は壇上の壁に隠されたスキャナーに端末をかざした。それから舞台の下、パイプ椅子が収納されている台車の一つを引く。すると、普段は床でしかないはずの場所に地下への階段が現れた。
この学園にはこういった場所が至るところにあるが、剣士もこの道を使うのは初めてだ。いつにも増して硬い表情で通路を覗きこむ。少し埃くさいが、照明もしっかりと点いている。問題なさそうだ。
剣士は生徒たちを促し、自らも痛いほど静かな通路の中へと踏み出した。
最後に、虚目が入り込まないように台車を元に戻す。その時、遠くで何かが割れるような音がした。
「……今、何か聞こえなかった?」
「聞こえた。ガラスが割れる音、だよね。結構派手に聞こえたけど……」
ここにいる全員の脳裏が、先程までいた玄関のガラスが砕け散る様を思い描く。もしそれが現実に起こっているならば、今この五号館には大量の虚目が押し寄せていることだろう。
「なあ。そういえばさっきの注射器、結局なんだったんだ……?」
「え、わ、私に聞かれても……。井口くんがやったんじゃないなら……ゆ、幽霊? なわけないよね……」
「……案内する。着いてきてくれ」
地下通路の地図を確認しながら、背後で繰り広げられる会話に剣士は密かに焦りを募らせていった。
一難去ってまた一難、得体の知れない影が砦鵠学園を覆い尽くそうとしている。今まで個性的な印付きたちをも見事にまとめ上げていた幸人を失った状態で、この災厄を終わらせなければいけないのだ。
ずしりと重くなる心に、剣士は端末を握る手に人知れず力を込めた。