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第二十話 憧憬と畏怖

「どうしよう、困っちゃったな……」


 幸人は眉を八の字にしてポツリと呟いた。淡く微笑むその表情は、莉緒たちがよく知っている彼のものだ。

 だというのに、どこか底知れない薄暗さを感じた。


「……思い出したんですか?」

「そう。思い出した。あー、とんでもないことしちゃったな」

「今ならまだ、異形を抑えられると聞きました」

「そうだね。僕に取り憑いた虚目はなぜか僕の意志を優先しているみたいだから、できると思う。……でも、ね」


 幸人は窓から地上を見下ろした。

 他の者たちもみんな、今の状況を思い出したのだろう。小パニック状態で騒ぐ人々を、【狩り人】や教師たちがなんとか(なだ)めていた。少し遠くの方では奏と剣士が駆けずり回っている姿も見える。

 幸人はその様を痛ましげに眺めながら、己の願望を口にした。


「――僕はこの世界を、手放したくない」

「っな、何言ってんですか幸人さん!」


 愕然として、それでも真っ先に一喝(いっかつ)したのは爽汰だ。彼は必死の形相で机に両手を叩きつけた。


「この学園ごと心中でもする気ですか⁉︎」

「だって、この世界でなら僕の望みが叶うかもしれないんだ。こんな奇跡もう二度と起きないよ」


 幸人の額は青白く、しかし頬だけは僅かに紅潮していた。彼だって、自分がどんな罪深いことを言っているのかなど十二分に解っているのだ。

 しかし、目の前にぶら下げられた夢は、そう簡単に諦められるものではなかった。


「……戻りましょう。もうすぐ七夕祭りで、その後には体育祭や文化祭だってあるんですよ。幸人さん、祭りが好きって言ったじゃないですか」


 記憶が戻った今、幸人がその気になればすぐにでも学園中を影の中に取り込むことが出来るだろう。しかし、それをせずにお喋りに興じているのは、彼がまだ願望と情との間で揺れ動いているからだ。

 爽汰は顔を強張らせながらもなんとか食い下がり、幸人の情を掻き立てようとした。その言葉に、莉緒は強烈な違和感を覚える。


(戻る……)


 何故だろう。なにか、とても重要なことを見落としている気がして、莉緒は記憶を探った。答えはすぐに見つかって、莉緒の顔から血の気が引く。――爽汰が口にした未来は、もう実現し得ないものだ。

 何も言えずにいる莉緒の傍らで、律が否定した。


「それは無理ではないかな。彼の身体は既に異形になっているだろう?」


 そう。一度異形化したら、元の姿に戻る術はない。

 仮に幸人から虚目を引き剥がせたところで、今までのように暮らすことは不可能なのだ。

 あまりに当たり前のように人の姿で目の前にいるものだから、その前提がすっかり抜け落ちていた。願望も混じっていたのかもしれない。どちらにせよ、何もなかった事になどならないというのに。

 どう足掻いても行き止まってしまった未来に、爽汰はついに力なく口を噤んだ。


(……虚目。私の中にいる、おまえ。異形化した人間を元に戻す方法はないの? あるなら教えて。――教えろ)


 何度も問いかける。しばらくして虚目が莉緒に突き付けたのは、「なにもない」という事実だけ。

 項垂れる仲間たちに、幸人は苦笑した。


「僕ね、今は少しだけ虚目の気持ちが分かるんだ」

「……虚目の気持ち、ですか」

「そう。――何もないのは苦しい。何ができたって、心が空っぽじゃ意味がないんだ。だから、自分を生かすほどの確実で強い感情を求めてしまう」

「でも、それはあくまで他の誰かのものでしかありません」

「そうだね。きっとね、僕も虚目も怠惰なんだ。他人の感情に触れて、手っ取り早く自分のものにしようとしてしまう」


 幸人は今まさに誰かの感情を受け取るように胸に手を当てた。


「……ああ、やっぱ無理だなぁ。僕はもう充分ここの子たちに元気を貰っちゃったから。……うん。安心して。ここにいる人達は全員、無事に外へと出してあげるから」


 誰もが憧れたその強さと優しさを拾い上げて、幸人が朗らかに笑う。


「――だから、ちゃんと僕を倒してね」


 その姿が完全に輪郭をなくす寸前、彼は約束だと言って小指を立てた。





 ぐらりと意識が揺さぶられて、奏は目を強くつむって遠のく意識を掻き集めた。酔いのようなその瞬間が収まって最初に目に入ったのは、地平に差し掛かろうとしている赤い光だ。


「夕日……」


 呆然と呟く。先程まで奇妙に薄暗い世界の中にいたからか、やけに眩しく感じた。


「ここ、外か……?」「外よ! 間違いないわ!」「見て。影が引いていってる」

「――でも、それじゃあ、あの人は……」


 学園を覆う影は、波が引くように音もなく消えていった。奏が保護していた周囲の生徒達の混乱が安堵に切り替わり、しかしその事実が突き付ける結果に再び俯く。

 嵐が去った後の荒れた大地を眺めるような、ひとつの終局を迎える空気が流れはじめた。


(……いいえ。まだだわ)


 しかし、影が引いていく先を睨み付けていた奏は、そこに浮かびあがろうとしているものをいち早く察した。

 まだ、何も終わっていない。

 まだ誰も、この騒動の幕を引けていないのだ。

 すなわち――淡浪幸人の人生の幕を。


「剣士!」

「ああ」


 同じくその様を見ていた剣士と頷き合って、奏は生徒たちへ呼びかける。反対に剣士は背を向けて、影を追うように駆け出した。


「皆さん。まずは落ち着いて、安全が確認できるまでは寮へと避難してください。先生、わたしは後方を警戒しますので、誘導を任せてもよろしいでしょうか」

「え、ええ。わかりました」


 奏の言葉に生徒たちは不安げながらも素直に従った。虚目に関する非常時下での印付きの言葉は、時に教師のそれよりも優先される。肩にのしかかる責任の重さに、奏は今すぐ剣士に追いすがりたい気持ちをぐっと抑えて虚目の警戒にあたった。現状最も恐ろしいのは、連鎖的に異形化する者が現れる可能性だ。

 幸い、奏たちがいる場所から寮まではほど近い。急げば十分程度で辿り着ける距離である。一行は途中で立ち尽くす人々に手を貸しながら、真っ直ぐ寮へ向かおうとした。

 ――しかし何事もそう上手くはいかないもので、


「お、おい! あれ見ろ!」


 予想よりも早い異形のお出ましに、ざわりと緊張が広がる。

 奏たちがいる位置からはちょうどその全貌が見えた。大きい。五メートルはあるだろうか。異形特有の、化け物の形に組み替えられた(むくろ)の姿。骨には人間だった頃の名残りである皮膚や肉片が纏わり付いていて、ここまで異臭が漂ってくるようだ。

 腹にぽっかりと空いた空洞が影を吸いきると、その異形は「オオオ、オオオ」と涙に暮れる人のような咆哮をあげた。その背からは数十本もの細長い影が伸び、鞭のようにしなって周囲の物に当たり散らす。テラスにある丸テーブルが真っ二つに割れた。誰もがその残骸に自分を重ねたことだろう。

 誰かが唾を呑む音が聞こえた。それはもしかしたら奏自身だったかもしれない。


(剣士……ううん、大丈夫。彼は強いし……あの場には剣士以外にも印付きの【狩り人】がいるはずだわ)


 その祈りに応えるように、刀を携えた人影が現れる。数人の生徒が短く悲鳴を漏らした。それもそのはず、その小柄な人物は――なんと、五号館の四階から異形めがけて飛び降りたのだ。


「莉緒さん⁉︎ なんて無茶を――!」


 いくら身体能力が高かろうが、所詮は人の身。あんな高所から飛び降りて無事で済むはずがない。さらに、追い打ちをかけるように異形が操る影が莉緒を貫こうと伸ばされていた。

 けれど、ああ、なんということか。

 莉緒はまるで当たり前のように重力を味方に付け、空中で体を捻らせて器用に影を(かわ)しながら的確に影を切り捨てた。そしてその勢いのままくるりと一回転。体勢を整え、異形の頭上へ刀を振りかぶる。


 それはそのまま異形の頭蓋(ずがい)を叩き割るかと思われたが、すんでのところで避けたようだ。代わりに片腕を犠牲にした異形は、再び影の塊となって地面と壁を泳ぐようにして五号館の屋上へと退いた。またあの世界に閉じ込める気かと皆の間に緊張が走る。

 しかし、異形は屋上で再びその姿形を取り戻してじっとしていた。無傷で自身を睨み付ける莉緒を警戒したまま、失った腕に影を(まと)う。間もなく取り払われた影の下には、何事も無かったように腕が再生していた。再生能力まで備えているなど前代未聞だ。


 ――ああ、アレには敵わない。


 皆の意識が絶望感に支配される。そもそも元が()()淡浪幸人なのだ。およそ完璧に近しい我らの憧れの人が。ならばこの異形だって完璧な存在(そう)に違いないのだ。そんなものにどうやって勝てと言うのだろうか。

 しかし、その絶望はすぐに驚愕に吹き飛ばされた。


「――えっ」


 一歩、二歩、三歩、思い切り踏み込んで、跳躍。莉緒は小指一つ分の出っ張りを足掛かりに、五号館の壁を駆け上がる。最後に柵の手前でバネのように膝を曲げて、躊躇なく体を上へと投げ出した。

 屋上を囲む柵は三メートル程もあり、先端は槍のように鋭い突起が等間隔に並んでいる。普段はお洒落な洋風のそれが、今は侵入を拒む凶器のようだ。この勢いで突き刺されば、莉緒の柔い体など容易く貫いてしまうだろう。


 固唾を飲んで見守る皆の想像を裏切り、莉緒は軽々と頭から柵を飛び越える。図ったように繰り出された異形の影を振り払う余裕すらあった。そして、着地と共にその姿を消す。

 ――……勝敗は夜と共に静かに訪れた。

 気付いた時には異形の頭部が地に落ち、それを追うように体が崩れ落ちる。

 莉緒はその背後にただ佇んでいた。腰に()いた刀は素知らぬ顔で鞘に収まっている。


「え……え? 終わっ、た……?」


 夕日を映し取ったような赤い月明かりの中、両手を合わせて黙祷を捧げる人形騎士の姿を、人々は呆然と見上げた。

 淡浪幸人を(もと)とした特殊能力持ちの異形を、

 絶望の始まりだと誰もが信じて疑わなかったその存在を、

 彼女はまるで赤子の手をひねるかのように打ち倒してみせたのだ。

 そして、奏は気付いた。


(……息切れひとつしていないわ)


 どこか神聖ささえ窺わせる同級生の姿に、奏は畏怖の念を抱いた。莉緒の人間らしい所をたくさん見てきたはずなのに、今の彼女は自分とはもっと別の時空に立っているように思えたのだ。

 緊張は和らぐどころか、今にも引き千切れんばかりに張り詰めていく。

 それを才能と称するには、あまりに人間離れし過ぎていた。

 彼に、彼女に、黒いシミのような不安がじわりじわりと広がっていく。


 ――これでは、彼女の方が異形などよりよほど化け物のようではないか。

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