第十九話 意味を問う
第一図書館を後にした莉緒と律は、次に五号館の空き部屋へと向かうことにした。
薄闇の世界はさらに広がりを見せている。それは、その分だけ現実が侵蝕されていることを示していた。
「早くしないと……」
足だけは忙しなく動かしながら、莉緒は再び幸人に会えたところでどうしたら良いものかと思案する。現状、第一図書館での一件が良い方向に転んだのかどうかすら分からないのだ。
(淡浪先輩もこの状況を理解していないみたいだったし、ちゃんと説明すれば協力を仰げるかもしれない。けど……)
本当にそれだけで良いのかと自問自答する。
この世界が幸人の願望を反映しているのならば、彼には望まない事を強いることになるのだ。
莉緒は自分の胸に手を当てた。こんな場所だからか、自分の中にいる虚目の存在を強く感じる。
その在り方さえも。
この虚目は莉緒の願いを叶えなかった。むしろ莉緒にもたらされたのは、それとは真逆の生きる力だ。――理由は「宿主に死なれると困るから」といったところか。
暁彦は異形化を失敗だと言ったが、虚目にとっても失敗だったのだ。
(この影の世界はきっと、淡浪先輩を生かす為にある)
幸人がその心を失えば異形は完全に我を失くし、感情を求めて暴れまわるだろう。
そうならない為に、もっと淡浪幸人という人間を知らなければいけない。表面を掬っただけの浅い言葉では、なにを言ったところで響くはずもないのだ。
けれど、それは深淵を覗くに等しい行為だった。幸人の心中を考えれば考えるほど、莉緒の思考はこんがらがっていく。
「……先輩。先輩は、淡浪先輩を見てどう感じましたか?」
莉緒は律に助けを求めた。元々、莉緒は他人の心を押し測るのが苦手だ。反面、律はなにかと察しが良い。彼ならば、幸人の心にも辿り着けるかもしれないと思ったのだ。
「君の思考を占領しているから気に食わない」
「…………。あの、そういう意味ではなくて……」
「分かっているとも」
胡乱げな眼差しをした莉緒に、律は本音を引っ込めて「そうだなぁ」と真剣な顔をした。
「彼はかなりネガティブだよね。少しだけ君に似ているかもしれないな」
「私に、ですか?」
「うん。生きる意味を見出せなくて、死に救いを求めている感じが」
「……私は、今は違いますよ」
「そう?」
莉緒は口籠った。もうそこまで悲壮に生きるつもりはない。
しかし、自分が喰べた虚目がまだこの身体に居るのだと知って――安堵したのも、また事実だった。
愛する両親を奪った虚目への憎しみは変わらなくとも、莉緒を両親の元へと導けるのはどうしたってこの虚目以外にはいないのだ。
「そうです」
聞いたのが自分である事を棚に上げて、莉緒は簡単に心の内を暴いてしまう律を少しだけ恨めしく思った。
「……それにしても、たった数分見ていただけでよくそんな断言できますね」
「だって彼、言葉の端々から感傷的な思想が漏れ出ていただろう?」
そうだっただろうかと幸人の言葉を思い返すも、やはりよく分からない。
そうこうしている内に五号館の前まで辿り着いた。こちらも完全に影に呑み込まれてしまったようで、備え付けのテラスからから屋根のアンテナに至るまで、はっきりとその全貌を現している。
「それじゃあ、案内を――」
と言いかけたところで、莉緒の視界に見知った人物が入り込んできた。
軽く毛先を遊ばせた茶髪にトレードマークのヘアピンが似合う、人好きのする甘い顔立ち。胸元には印付きの証である薔薇のブローチが光る【狩り人】――鷹崎爽汰だ。
彼はテラスの椅子に座って、数人の男女と談笑していた。
「鷹崎先輩も取り込まれたんだ……」
「目、覚まさせるかい?」
「そうですね。少し待っていてください」
談笑しているところに割り込むのは気が引けるが、そうも言っていられない。莉緒は意を決してその輪の中に入り込んだ。好奇の視線を寄越す上級生たちに軽く会釈をして、輪の中心にいる爽汰へと話しかける。
「鷹崎先輩。少し良いですか」
「ん? あれ、莉緒ちゃんじゃん。どしたの?」
「少し相談したい事があるのですが……」
「相談?」
こんなところでと首を傾げる爽汰を余所に、周りの生徒たちは密かに盛り上がった。人のフリをした影と人間とが、顔を寄せて囁き合う。
「(まさか告白⁉︎)」「(そ、そんなわけないよ。……ないよね?)」「(いやいやいやないだろ。あの人形騎士だぞ)」「(そういやお前ファンだったな……)」「(爽汰ぁ……誰のものにもならないでぇ……)」
「虚目の事で、相談なのですが」
耳に入った言葉に思わず情報を追加すると、周囲から安堵のため息が漏れた。一部残念がる声も聞こえたが、それらには聞こえないふりで通す。
爽汰は虚目という単語に顔を引き締めて「分かった」と頷いた。実のところ、莉緒が知っている印付きの中で誰よりも責任感が強いのが爽汰だ。彼は友人たちに断ってから、莉緒と共に少し離れた場所へと移動した。
「それで相談って? なにかあった?」
「はい。まず、落ち着いて聞いてほしいんですけど……」
莉緒はこの世界の事を順に話した。元来、異形がこのような特殊能力ともいえる力を使った事例は無い。爽汰は莉緒の話を不可解そうに聞いていたが、「淡浪幸人」という単語を聞いた瞬間に走った頭痛が異常事態を告げた。
「――――っ」
「大丈夫ですか?」
「ああ、うん……」
まだ少し、信じがたい。
そう思いながら爽汰は空を見上げる。雲もないのにずいぶん薄暗い昼だと感じた。
すると、なぜ今まで気付けなかったのか不思議なくらい、周囲の景色が色褪せて見えるようになった。それと連動するように疑問が溢れてくる。
そもそもここは大学部の敷地で、まだ高校生の爽汰には馴染みが薄い。第二図書館辺りならよく行くが、ここ五号館はそこからも離れた場所にあるのだ。あのテラスで寛ぐのも今が初めての経験である。
なぜ自分は今の今まで、なんの疑問も持たずそこにいたのか。
整合性がとれない自分自身の行動に、爽汰は歯噛みした。なんとも言えない気味の悪さが喉元まで迫り上がるのを、長く息を吐くことで押しとどめる。
「……うん。本当に異常事態みたいだ。ごめんな莉緒ちゃん。気付かせてくれてありがとう」
「いえ。……異形はこの世界に取り込んだ人たちの記憶を改竄しているようなので、あまり気に病まないでください」
爽汰は自嘲するような笑顔を浮かべて再び礼を告げた。
「にしても、淡浪幸人か……思い出せそうで思い出せないな……」
爽汰は友人たちと別れ、ひとまず莉緒たちに着いて行く事にした。未だ異形は姿を現さない。まずは幸人の事を思い出さないと何も出来ないと判断したのだ。
「僕はさっき会ったけど、それでも思い出せないよ」
「マジですか〜……厳しいな……」
「印付き同士、鷹崎先輩は淡浪先輩との付き合いも長いですから、思い出せる可能性は少なくないと思います」
「よし分かった。死ぬ気で思い出してやる」
爽汰がグッと拳を握り締める。目的地は四階だ。階段を駆け上がり、間もなく到着する――その手前の部屋から声がした。
「――生きる意味なんて、見つけたところで荷物になるだけよ」
一度聞いたら中々忘れられない蠱惑的な女性の声だ。莉緒たちはそれが養護教諭の佐藤のものだとすぐに分かった。
佐藤の職場は高等部にあるはずだが、彼女は【喚び人】の第一人者として方々から相談を受けて奔走している。不幸にもそのタイミングで異形の影に巻き込まれたのだろう。
そのまま通り過ぎようとしたところで、佐藤に答える男の声に莉緒はぴたりと足を止めた。
「じゃあ、先生には生きる意味が無いんですか?」
窓を覗くと、佐藤と並んで窓枠に肘を乗せている幸人がいた。
「そうねぇ。自分の人生に無理やり意味を付けるのなら、『子供たちを見守る為に生まれてきた』かしら」
「えー、あるじゃないですか。ずるいなぁ」
幸人はどこか甘えた口調で話していた。莉緒や他の生徒の前では見せない姿に、ドアにかけた手が止まる。
「ふふふ。でもね、一度人生の意味を定めてしまったら、もうそれに縋って生きるしかなくなってしまうのよ。恐ろしいことだわ。本来は無数にあるはずの道を、一つに絞ってしまうのだもの」
「一つの道を突き進むって格好いいと思うけどなぁ」
「そう? ま、とは言ってもキミにまず必要なのは意味より理由の方ね」
莉緒の目には幸人が今までになく自然体でいるように見えた。これは下手に突っ込むよりもそっとしておいた方が良いかもしれないと、ドアノブから手を離す。
幸人の意識が他にも分散しているのならば、そちらを優先させたい。そう言おうとして莉緒が律たちを振り返ると、背後でカラカラと扉が開く音がした。奥から伸ばされたしなやかな指先がガシリと莉緒の肩を抱いて、ぐるりと向きを反転させる。
「ほら。キミを追ってくれる存在なんてのはどうかしら」
「え、え」
「えーっと……君たちは……?」
「あ、俺は高等部の鷹崎爽汰です。その子が天川莉緒ちゃんで、こっちの赤い人が遠夜律さん」
驚きで固まっている莉緒の代わりに、爽汰が返す。その余所余所しさは初めて会う人に対するものだ。幸人もまた怪訝な表情で莉緒たちを見ていた。
「あ、あの先生。手を」
「離したら逃、げ、な、い?」
耳に息を吹きかけられ、莉緒は思わず「ひゃあ」と情けない悲鳴を漏らした。その瞬間、今まで静観していた律に掻っ攫われる。
「莉緒ちゃんにそういう事をして良いのは僕だけなので、やめてくださいね」
「あら」
「……って、どさくさに紛れて抱きしめないでください!」
律の腹に一撃を喰らわせて、莉緒は咳払いをした。取り繕うように幸人へ向けて一礼する。第一図書館の時と同じく、幸人の身体は薄らと透けて輪郭がたまにブレていた。
(とにかく、こうなったら直接淡浪先輩の想いを聞くしかない。私が相談役なんて、さっきの司書の人よりもよっぽど不適格だけど……あれ、そう言えば)
莉緒は背後で扉にもたれかかっている佐藤を振り向く。彼女は気怠げに壁にもたれかかって、こちらを見守っていた。
「あの、佐藤先生」
「なにかしら」
「あなたは、淡浪幸人さんをご存知ですか」
この影の世界に取り込まれてから、何度目かの言葉。誰の記憶からも消された名を口にした莉緒に、佐藤は顔を綻ばせた。
「もちろん。アタシは生徒の名を忘れたりしないわ」
「それは……」
「今はアタシの事なんてどうでも良いでしょう? 彼のことをお願いね」
ひらひらと手を振って、佐藤は白衣を翻して背を向けた。
(……【喚び人】の第一人者、か)
なにを以て【喚び人】の第一人者とするかなど、考えた事もなかった。ただ漠然と【喚び人】について人よりも詳しいのだろうと思っていただけだ。
しかし虚目の特性を知った今、もうそんな暢気な答えには至れない。
(あの人も虚目を受け入れたのかもしれない)
遠ざかっていく背中は何も語らない。莉緒は複雑な思いを抱きながら、扉を閉めた。
佐藤の言う通り、今優先すべきは幸人だ。
「突然押しかけてしまってすみません」
「ううん。それは構わないけど……君たちも僕に何か用?」
幸人は所在さなげに窓の縁に指を這わせている。その姿はとてもではないが学園中の憧れの人が見せるものではなかった。莉緒はその姿を目に焼き付けながら、その心に潜む想いを探ることにした。
先ほどの会話を聞く限り、律が言った『生きる意味を見出せなくて、死に救いを求めている』という印象は、あながち間違ってもいないのだろう。
「淡浪先輩、私たちとお話しをしましょう。――人生についての、お話しです」
莉緒はそう言いながら、人を生かすものとはなんだろうと考えた。
死への恐怖や痛みへの忌避感か。その死を悲しみ嘆いてくれる人の存在か。それともまだ見ぬ未来への期待だろうか。
不幸な頭がそんなことばかりを並べてみせるが、人が「生きたい」と思う時の感情は恐らくもっと単純だ。
(もう少しだけ生きていても良いかなと思える喜びや楽しみ。きっと、そんな些細なものを頼りに人は生きている)
幸人にもそういったものがあるのならば、それはこの状況を打破する光明となるはずだ。
莉緒はそう意気込んで、真摯に幸人を見つめた。
「淡浪先輩は、好きなものはありますか?」
「好きなもの……?」
「はい。嫌いなものでもいいですよ。ちなみに私は両親が好きです。早朝の通学路とか図書館の静かな空気も好きですね。嫌いなものは……やはり、虚目でしょうか」
「僕が好きなのはもちろん莉緒ちゃんだよ。嫌いなものは莉緒ちゃんとの時間を邪魔するあらゆるものだね」
「遠夜さんブレねぇな……。うーん、俺はそうだな、ゲーセンとかカラオケとか皆で盛り上がることが好きですね。嫌いなものは、ずばり雨! 髪のセットに時間はかかるし、気分は落ち込むし、この時期はもうだめ」
各々好きに話し始める三人に、幸人がぽかんと口を開ける。それでも、優しい彼はその唐突な疑問に答えてくれた。
「僕の好きなものは……お祭りかな。楽しそうな人たちを見ていると、こちらまで浮き浮きしてくるよ」
「祭りと言えば淡浪先輩、七夕祭りで屋台の手伝いに駆り出されるって言ってましたね。それも三つくらい」
「三つ⁉︎ すごっ、人気者だな〜……」
「学園中の憧れの人ですから。その時は勝手に大変そうだなんて思いましたけど、楽しんでやっているみたいで良かったです」
幸人は心の底から不可解な言葉を聞いてしまったと言わんばかりに、困った顔をした。
「……僕、気付いたらここにいて、何故か自分の記憶もないんだよね。名前もさっきの先生に教えられたんだ。でも、自分がそんな憧れられるような人間じゃないっていうのは分かるよ」
「どうしてそう思うんですか?」
「それは……」
幸人は再び窓枠に片肘を掛けて、空を仰ぐ。その瞳はゾッとするほど空虚だった。
「どこまでも続く空が嫌いで、果てのない時間が嫌いで、確定していない未来が嫌い。――こんな人間に、憧れなんて素敵なものを貰う権利はないから」
それは本来ならば好悪で語るようなものではない、根源にある恐怖だった。
記憶を失ってなお彼が心の底から嫌うそれらは、生きている限り永続的に付いてまわるだろう。この世界の理でも覆さない限りは。
一度は自ら死に手を伸ばした莉緒にとって、それは必ずしも同調できないような言葉ではない。
けれど、莉緒はあえて憧憬を語った。あの光景を見てから、ずっと伝えたかったことでもあった。
「でも、私があなたに感じた憧れはそんなことじゃ薄れないですよ」
「……参ったな。君も僕なんかに憧れているの?」
「はい。――十年前、人の感情が虚目の餌となったその日から、人々は感情を抱くことを恐れるようになりました。始まりの時代で最も恐れられたのは感情の伝播です。異形の出現によって伝播する恐怖に虚目が食い付き、また誰かが異形化する。その頃の傷は未だ深く人々の中に残り、徐々に対抗する手段を得てきた今でも激情は悪とされ、それを隠しきれなかった者は時に罪人のように扱われます。異形化した人なんかまるで犯罪者ですね。……私はそれが嫌で仕方ありませんでした。危害を加える可能性があるのだから仕方がないと、諦めてしまうことも」
ここにいるのは全員莉緒よりも年上だ。当時の記憶もより鮮明に残っていることだろう。
莉緒は乾く喉を無理やり唾液で潤して、言葉を続けた。
「――淡浪先輩が異形化したと知って、みんな泣いていたんです。地に膝を突いて、拳を握り締めて、こんなのは嘘だと叫んで……そうじゃない人もそれを当たり前のように受け止めて、慰めていました。それが、今の時代でどれほど難しいことか。それはあなたが多くの人の憧れであり続けた結果です。私はそんなあなたに憧れたんです」
「……そう。ありがとう。なんて……言い逃げるのは卑怯かなぁ」
憧れと言うには浅ましいかもしれない。けれど幸人はそれを茶化すこともなく受け止めた。瞼を閉じて、何かに堪えるように眉根を寄せる。その顔は次第に蒼白になっていった。
窓から見える景色が、一瞬だけ石を投げ込まれた水面のように揺らめく。
「あ……」
幸人が目を開けるよりも先に、誰かの吐息が漏れた。気付けば、律と爽汰が揃って頭を抑えて痛みに顔を歪めている。爽汰などはもはや苦悶と言っていい表情だ。
「あの、大丈夫ですか……?」
「……うん、思い出したよ。彼のこと」
「俺も……」
莉緒は息を呑んだ。二人がまったく同じタイミングで思い出すなんて偶然はありえない。そんな事が起こるとすれば、記憶を改竄した大本――つまり幸人の影響を受けた時くらいのものだろう。
「淡浪先輩……?」
莉緒の呼びかけに幸人はゆっくりと顔を上げて、空のような果てのない瞳で微笑んだ。