第一話 食堂にて
悪夢のような邂逅から早一週間が経過した。
高等部二年の教室に赤髪の大学生がいることに対して突っ込む者は、もう誰もいない。若者は順応が早い生き物である。
「莉緒ちゃん、一緒にお昼ごはんでもどうかな」
「…………構いませんけど……」
にこにこと笑顔を振り撒く彼の名は、遠夜律。この学園ではかなり有名な人物だった。
すらりと長い手足に甘い相貌。物語から飛び出してきたような鮮やかな真紅の髪。そこに立っているだけでとにかく目立つ存在。――しかし、律が有名である理由は容姿だけが原因ではない。
律は【喚び人】だ。元々【喚び人】は虚目を惹きつけやすい体質の者を指していう言葉だが、律は一線を画していた。本当に、異常なほどに虚目を惹きつけるのだ。律に付き纏われるようになったこの一週間で莉緒が屠った虚目の数は、今までのおよそ十倍にまで及ぶ。よく今まで生き延びたものだと思わずにはいられない。
そのため、莉緒の眼差しは日に日に鋭さを増していた。律にではなく、虚目に対してだ。遠夜律という存在自体は、莉緒にとって変な先輩から警護対象と化していた。いや、変な先輩という印象は一ミリたりとも変わっていないのだが、それはそれとして。今日も今日とて厳戒態勢で周囲に視線を走らせている。
「遠夜先輩。私の右ではなく、左を歩いてください。流れで斬ってしまいそうなので」
「おっと」
もはや用心警護をする御付きである。これには律ですら苦笑していた。
「過保護だね。やっぱり僕のバディになろうよ。もしくは生涯のパートナーに」
「なりません」
「でもこうして一緒にいるのは良いんだ?」
「何度断っても付き纏ってくるのは誰ですか……」
「僕です。だってもし莉緒ちゃんが他の男と組んだりなんかしたら――……嫉妬で異形化してしまうかも?」
舞い散る桜を雪と錯覚させるくらいの冷気が莉緒を包んだ。それは脅しか。莉緒は胡乱げに律を一瞥した。
「じゃあ、組む時は女性と組みますから」
「何言ってるの。女の子でもダメだよ。僕以外はダメ」
そうこうしている内に食堂に着いた。食堂は各学舎にあるが、どこで食べるかは自由なため、高等部以外の生徒もぽつぽつと見かける。一応三階まであるのだが、三階席は特権意識の高い裕福層たちの溜まり場となっていた。鼻につく事もあるが、彼らの家の財力によってこうして日々の食事もタダで頂けるのだから、文句を言う者はあまりいない。
「莉緒ちゃんは何を食べる?」
「うどんにしようと思います」
「なるほど。うーん、僕もそうしようかな」
莉緒たちは空いている席へ座り、備え付けのタブレットで注文する。すると数分もかからない内に配膳ロボットが注文した品を運んできた。莉緒はきつねうどんで、律はかき揚げうどんだ。
「だし巻き卵も注文したんですね」
「うん。莉緒ちゃんも食べる?」
「良いんですか? なら、ひとつだけ頂きます」
さっそく差し出されただし巻き卵に箸を伸ばす。恐怖の手紙が届いた時はまさかその相手と食卓を囲むことになるとは思いもしなかったが、不思議と嫌悪感は無かった。むしろ、こうしていると昔からの友のようにも錯覚してしまう。
「り〜お〜」
これで事あるごとに口説いてくるのさえやめてくれれば……と思っていた莉緒の耳に、綿菓子のようにふわふわとした甘い声が降ってきた。莉緒の背後に目をやった律が「おや」と目を細める。
振り返れば、いちごミルク色の巻き髪とゴスロリ風味に魔改造した制服の少女が「やほ〜」とゆるく手を振っていた。
だし巻き卵の芳醇な味わいに舌鼓を打っていた莉緒は、親友の登場に首を傾げた。
「恵ちゃん。あれ、今日は放送当番じゃなかったっけ」
「先輩が変わってくれたの〜。親切心……というより後輩くん目当てだと思うけどね〜。ってことで、あたしもい〜れ〜て〜」
「ん。遠夜先輩、彼女も一緒にいいですか?」
「もちろんさ。西園寺恵子ちゃん、だったかな。相変わらず派手だねぇ」
「あはは〜、律先輩ほどじゃないですよ〜」
律と恵子が会うのはこれで二回目だ。
一週間前の律の奇行は、瞬く間に学年中に知れ渡ることとなった。別のクラスである恵子もまた噂を聞きつけ、放課後に再び律の奇襲を受けていた莉緒の元へと駆けつけたという次第である。やってくるなり目を輝かせて、「なんでこんな面白い事になってるの〜⁉︎」などと宣った親友の姿を、莉緒は決して忘れないだろう。
思わず遠い目になった莉緒を余所に、恵子は持参したサンドウィッチを幸せそうに頬張っている。
「っていうか律先輩、まだ莉緒のこと諦めてなかったんですね〜」
「そんな選択肢は無いからね。莉緒ちゃんが諦めるか、受け入れるか。二つに一つだよ」
「やだ〜、それ実質ひとつじゃないですか〜!」
なにが面白いのか大笑いする恵子と意味ありげに流し目を寄越してきた律を、それこそ諦め半分に受け流して莉緒は黙々とうどんを啜った。やはりここの油揚げは美味しい。
「ま〜、莉緒は頑固だけど流されやすいから〜、可能性は――おおっと〜」
緊張感のない声とは反対に、恵子が目にも止まらぬ速さでテーブルにナイフを突き立てる。ここにいる大多数の人間には奇行に映るかもしれないが、硬直は一瞬。視えない生徒たちもすぐに理解した。「ああ、虚目か」と。
『いたい、いたい』
黒く崩れ消えていく姿を見届けて、莉緒は顔を顰めた。
「恵ちゃん、ありがとう。……気付かなかった」
「いいよ〜。テーブルの下に隠れてたみたいだね〜」
恵子はナイフを抜いて、レッグシースへとしまう。手慣れたその様子を、律は感心して見た。
「虚目がいたんだね。ありがとう。君も【狩り人】だったんだ」
「ですです〜。ちなみにナイフは特注品ですよ〜。せっかく制服改造部に服を可愛くしてもらったので、それに合わせたデザインにしたんです〜」
「制服改造部って実在したんだ」
何事もなかったように再びお喋りに興じる二人を見て、莉緒は妙にしっくりくる絵面にピンときた。
「遠夜先輩、バディが欲しいなら恵ちゃんと組むのはどうですか? 実力も折り紙付きだし、おすすめですよ」
「あれ〜? あたし親友に売られてる〜?」
「莉緒ちゃん。前提条件が抜けているみたいだけど、僕は君が好きだから誘っているのであって、君とでなければそもそもバディなんて要らないと思っているからね」
その言葉に莉緒は目を丸くした。
「そう、ですか」
「そうだよ。バディなんて面倒だし、君とでなければむしろ御免だね」
「……遠夜先輩は、外に出たくないんですか?」
「外に出る方法なら他にもあるさ。それに砦鵠学園は、住むだけなら別段不便はないからね」
「学園内って言ってもショッピングモールまであるし〜、ほぼ街みたいなものですからね〜」
「そうそう。――ところで莉緒ちゃん。まさか君は僕がバディが欲しいがために君に求愛しているのだと思っていたのかな」
律の朗らかな笑顔から圧が漏れ出ている。
【喚び人】はその性質ゆえに、他の生徒より行動の制限が厳しい。バディ制度などはそんな【喚び人】のために作られたようなものだ。しかし律ほど特異な体質ならば、組む相手はそれなりの実力者でなければまず受理されないだろう。――例えば、莉緒のような。
まあ、つまり、そういうことである。莉緒はせめてもの抵抗に沈黙を貫いた。そもそも対面して初めての台詞が告白ではなくバディ勧誘だったのがいけないのだと、心の中で言い訳をする。
「そんな澄ました顔をしてもダメだからね。うーん、やはり愛の言葉が足りなかったか……」
「いえそれはもう充分なので」
とんでもない呟きに内心焦って否定する莉緒を後押しするように、昼休憩の終了を告げる予鈴が鳴る。これ幸いと話を打ち切ろうとすると、恵子がそれよりも早くガタリと椅子を鳴らした。
「やば〜、次移動教室だった〜。あたし先に行くね〜」
返事も待たず、恵子は手を振って走り去った。彼女は出会った時から変わらず、突風に煽られる雲のように緩く忙しない。
「……私も教室に戻ります」
「そうだね。行こうか」
律は追及する気は無いようで、あっさりと席を立つ。莉緒も内心ホッとしてそれに続いた。
器を乗せたトレイを返却口に置いて、食堂を後にする。律は当たり前のように莉緒の隣を歩いた。まったく、差出人不明の恋文より数段厄介である。そもそも、と莉緒は難しい顔をして律を振り仰いだ。
(この人はどうして私を好きになったんだろう)
手紙にも切っ掛けは書かれていなかった。考えられるのは手紙が届き始めた一年前だが、莉緒には心当たりなど欠片もない。
「遠夜先輩は……」
「うん?」
「……いえ。なんでもありません」
莉緒は湧き出た疑問に突き動かされるようにして開いた口を、すんでのところで引き結んだ。
聞いたところで意味がない。どちらにせよ、その想いに応えることはできないのだから。