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第十六話 糸引く者

『オオオ、オォォォォ……』


 それはいっそ暴力的なまでに悲痛な咆哮(こえ)だった。遥か高みから見下ろす者の威嚇ではなく、深く深淵から手を伸ばす者の哀願である。


 目を見開いて立ち尽くす莉緒の肩を支えながら、律はその出どころを探った。幸いここは屋上。時計塔には及ばずとも、じゅうぶん遠くまで見渡すことができる。

 特定は早かった。北東の位置。時計塔のさらに向こう側だ。夕日に照らされた一部の校舎が、奇妙な黒い影に覆われていた。


「大学部のほうみたいだね」

「…………」


 莉緒は未だ放心している。律の呟きもまるで聞こえていないようだった。


「莉緒ちゃん、どうしたんだい? ……莉緒ちゃん?」


 何度目かの呼びかけに、ようやく莉緒が我に返った。その顔は、僅かに青褪めている。


「異形だ。行かないと……あ、先輩は……」


 弾かれたように走り出した莉緒は、扉に手をかけた所で思い出したように律を振り返った。迷うように視線を彷徨わせる莉緒へ、律は安心させるように頷く。


「虚目くらいなら自分で避けられるから、僕のことは気にしないで行っておいで」

「……分かりました。どうか、気を付けてください」


 パタンと扉が閉められる。いつもならその呆気なさを嘆くところだが、今は直前の莉緒の様子がどうにも気にかかった。


(早く後を追おう)


 到着する頃には全て片付いているかもしれない。それでも律は、莉緒のどんな些細な感情だって見逃したくはなかった。莉緒は感情をすぐ内側に押し込めようとするきらいがあるから、彼女のことを知ろうとするならば、感情が発露するその瞬間を逃してはいけないのだ。

 律は周囲に気を配りながら、足早に莉緒の後を追った。





 途中の虚目を排除しながら、莉緒は異形の元へと急いだ。その間にも、脳が過去の記憶を再生する。


『ああ残念。失敗ですか。虚目を受け入れる事の何がそんなに難しいのでしょう。とはいえこれも大事なデータですね。異形化した姿も拝みたいのですが、この状況では無理でしょうかね』


 脳髄(のうずい)を震わす咆哮が刺激となったのか、莉緒は思い出した。己を激情に駆り立てたその言葉を。恐らくはその声の主だろう人のことも。

 しかし、それでも疑問は尽きない。誰であろうとも、あの時、あの場で、その声が莉緒の耳に届いた理由にはならないのだ。

 莉緒はちらりと寮がある方角に目を向けた。彼は今も「残念だ」と喜色混じりに嘆いているのだろうか。


「……今は、目の前のことに集中しないと」


 何度も再生される声を無理やり思考の片隅に追いやり、ひた走る。そして近付いてきた影に、莉緒は呼吸を忘れた。

 その異様さに、背中を冷たい汗が伝う。


「なんだ、これ」


 思わず声に出す。足は止まっていた。止まらざるを得なかった。

 爪先より数センチ先に広がるのは、完全なる闇。それはそこにあったはずの学舎やグラウンドの一部を、ごっそりと切り取っていた。

 夕日の光さえ受け付けない漆黒は、まるでそこにあった物の存在ごと黒く塗り潰したかのようだ。


「あっ、莉緒ちゃん! キミも来てくれたんだ」


 片手を上げて、一人の青年が莉緒の元へとやってくる。顔馴染みの印付き、鷹崎爽汰だ。すでに帰宅した後だったのか、爽汰は私服姿だった。


「鷹崎先輩。あの、これはどうなっているんですか?」


 影を指差して問う莉緒に、爽汰は困ったように口籠った。


「これな。異形がやったのは間違いないんだけど……」

「異形が、こんなこと出来るんですか」

「信じられないよな。こんなん俺たちにどうしろって感じだよ。奏ちゃんと剣士さん、他にも二人の印付きがこの先に向かったんだけど、戻る気配もないし。今は他の【狩り人】に無闇に突っ込まないように待機させてるとこ。……それに最悪なのは、それだけじゃなくってさあ」


 爽汰は頭を乱暴に掻いた。普段の彼からは想像できない粗雑な手付きに余裕のなさが表れている。どうも、次に続く言葉を躊躇っているようだった。


(それにしてもみんな覇気がないような……)


 莉緒は周囲を見回した。影を警戒している【狩り人】も、遠くで成り行きを見守る人々も皆、一様に沈んだ様子だ。中には悄然(しょうぜん)と地面に膝を突いている者までいた。

 すでに蹂躙され尽くした後のような、重たい空気が立ち込めている。いくらなんでもこの落ち込みようは異常ではなかろうか。

 莉緒のその疑問は、衝撃と共に解消された。


「――どうもこれやった異形が、幸人さんらしい」


 声も出せずに、莉緒は固まった。

 もちろん、【狩り人】だからといって虚目に取り憑かれないわけではない。しかし幸人は印付きの中でも中心にいる人物で、多くの生徒たちの憧れで、例え【狩り人】でなかったとしても非の打ち所がない人格者だ。

 そんな彼が異形化したという事実は到底受け入れがたかった。

 ――少し遠くで、誰かが【狩り人】に縋った。


「お願い、幸人くんを殺さないで。助けてあげて。お願い、お願いします」

「……俺だって助けてーよ。でもこれはもう……クソッ」

「嘘……嘘よ、こんなの……」


 彼女は綺麗にまとめていた髪を振り乱し、最後にはその場にへたり込んだ。見兼ねた【狩り人】が、泣きじゃくるその肩を支えて寮へと運ぶ。あのままあの場にいれば、彼女まで虚目の餌食になっていただろう。

 幸人の友か、仲間か、それとも恋の相手だったのだろうか。いずれにせよ、彼女と同じような状態の者は、ざっと数えただけでも十は軽く越えている。建物に避難した者たちも含めれば、かなりの数になる事は簡単に予想できた。


(これが、淡浪先輩の影響力……。どうしよう。きっとこの学園は今、虚目の恰好の餌場だ)


 胸が痛むと同時に、恐ろしい未来を描いた脳から血の気が引いた。

 状況は最悪だ。


「このままじゃマズイな。あーもう、よりによって幸人さんか……」


 同じ未来を想像した爽汰が額に汗を滲ませる。


(よりによって。本当に、そう思う。でも……たまにとても昏い目をする人だった)


 その見た目の通りに虚目と名付けられた化け物を彷彿とさせる、虚ろな瞳だった。

 もし、莉緒が見たその翳りが原因で取り憑かれたのだとしたら。


(私に何ができただろう)


 意味のない問答だ。――誰にも何も出来なかったから、今こうしてその結果を突き付けられているというのに。

 沈黙を貫く深淵を見つめていると、視界の端に動く人影を捉えた。


「……今は、今の私にできることを」


 ぼそりと口の中で呟いて、莉緒は爽汰に頭を下げた。


「ご報告ありがとうございます。私は、向こうの方を見回ってきますね」

「ん? おお、頼んだよ」


 莉緒は異形が生み出した闇に沿うように、人影が消えた方へ走る。間もなく、校舎の裏道に差し掛かった所でその人物に追いついた。


「これは、あなたの仕業なんですか?」


 出し抜けに放った言葉に、その人はもったいぶった動きで振り返った。

 スーツ姿というにはラフな着こなし。まるでそれこそが正式な装いだと錯覚させる堂々たる佇まい。若々しい相貌に老獪(ろうかい)な瞳を持つ支配者。

 そして、一年前に莉緒を激昂させた声の持ち主。


「さて。そう問われてしまえば、違うと言わざるを得ないのですが」


 ――この砦鵠学園の理事長にして創設者、白鳥暁彦その人だ。

 彼はコツンと杖で地面を叩いた。


「もし『そうだ』と答えたのなら、貴女は何と仰るのでしょう」

「……質問を変えます。あなたはこのような異形が現れて、嬉しいと感じていますか?」

「ふ、可愛らしい質問ですね。……宜しい。()()たる貴女には、特別に教えて差し上げましょう」


 子を見守る親のように微笑んで、暁彦は口を三日月型に歪めた。


「――嬉しい。ええ、とても嬉しいですよ。彼にはあまり期待していなかったのですが、これは予想を遥かに上回る結果です。人と虚目が持つ可能性を、彼は見事に引き上げてくれた」


 莉緒は半歩後ずさった。深淵を作った異形と、いま目の前で笑っている人間。果たしてどちらがより異様なのか。答えなど出そうもない。それほど、暁彦が人という枠組みから外れた場所にいるように思えた。


「あなたは何者なんですか。淡浪先輩に、何をしたんですか……?」

「はて。何者かなどと、それを貴女が問うのですか。では反対にお聞きしましょう。天川くん、貴女はいったい何者でしょうか?」


 全てを見透かすような挑発的な瞳に、莉緒の喉が引き攣った。その質問が莉緒にとってどれほど難しいことであるのか、まるで知っているような口ぶりだ。


「私は……わたし、は……」


 化け物だ。しかし、人間のままここにいる。この本質はどちらなのだろう。

 何者かなど――そんなの、自分が一番知りたかった。


「莉緒ちゃんは、僕が恋する素敵な女の子さ」


 背後から軽く肩を叩かれて、莉緒は状況も忘れて振り返った。夕焼けの中にあってなお鮮やかな赤色に、ふと目を奪われる。

 そんな莉緒に、珍しく息を切らせた律はお茶目にウインクをしてみせた。


「はあ、やっと追いついた。間に合ったみたいで良かったよ」

「おや心外ですね。その言い草、まるで私が悪者のようではありませんか」


 先に反応したのは暁彦だ。言葉とは裏腹に、その目は愉快げな弧を描いていた。


「え。彼女に近付く男はみんな悪者ですよ?」


 律は何を当たり前の事をと言わんばかりだ。莉緒のみならず、暁彦でさえ束の間呆気に取られた。


「ふむ、ふむ。遠夜くんは本当に面白い人になりましたね。喜ばしいことです」

「ははは。ありがとうございます」


 身震いするほど乾いたやり取りに、莉緒は逃げ出したい気持ちを堪えて律の裾を引いた。


「先輩、分かっていると思いますけど今は異常事態です。安全な場所に行ってください」

「うん、つまりは君の隣ということだね」

「寮に篭っていてください」

「君の側にいるよ」


 これは意地でもここにいる気だ。莉緒は頭を押さえて嘆息した。


「ところで、理事長と何を話していたのかな」


 弛みかけた心が、その一言で再び張り詰める。莉緒はさりげなく律の前に立って、暁彦を睨み付けた。


「……思い出したんです。あの日、私が聞いた声。それは理事長のものでした。残念、失敗だって。早く異形化した姿を拝みたいって。確かにそう聞きました」


 律が目を丸くする。一部始終を眺めていた律からすると、ことさら奇妙に思えるだろう。

 しかし、律は莉緒のその言葉を否定することなく受け入れた。


「成程ねぇ。【狩り人】はともかく、【喚び人】なんて面倒な存在を一所(ひとところ)に集めるなんて正気じゃないとは思っていたけど、そんな思惑があったとは」

「……信じるんですか?」

「君がそんな嘘を吐くとも思えないからね」


 そうもてらいのない信頼を向けられると、むず痒くなる。


「あ、ありがとう、ございます……」


 莉緒は尻窄(しりすぼ)みに感謝を告げた後、照れを誤魔化すように咳払いをした。


「でも、言われてみれば……」


 虚目に対抗する為に設立された学園。挑戦的だとは思った。実験的だとも。それはあくまでこれからの人々が生きる為のものだと思っていたのだが、違った。

 正に挑戦で、真に実験であったのだ。


「この学園そのものが巨大な実験場だった……という事ですか。理事長にとっては虚目も人間も変わらない。ただの、実験体だと」

「はて。違いますが」


 暁彦はなおも余裕の佇まいで肩をすくめた。


「本当に、なぜ貴女のような方が虚目を受け入れられたのか、不思議でなりません」

「私が虚目を受け入れることなんて未来永劫ありません」

「過去のお話ですよ」


 わかっているだろうと、榛色の瞳が言う。


「天川くん。貴女は虚目がこの世に降り立った理由を何と心得ますか?」

「理由なんてありません。災害はいつだって唐突で、理不尽に降りかかるものだから」

「しかし思巡らしたことはあるでしょう。どうして、何故、あのような化け物が現れたのだろうと」

「…………それは」

「私は人の為だと思うのです」

「は?」

「虚目は人類の進化の為にこの世に生まれたのですよ」

「そんな、こと……あるはずが……」


 莉緒はあえなく閉口した。その言葉の意味する所を察してしまったのだ。


「――貴女自身が、それを証明しているではありませんか」


 その時、闇が蠢きだし領土を拡大した。すぐ近くにいた莉緒たちは逃げる間もない。闇に触れた足は金縛りにあったように動かず、さらに影が腰まで迫り上がってきた。


「さて、天川くん。私から課題を差し上げましょう。さすがにこのままでは学園が危ないですからね」


 自分も呑まれかけているというのに、暁彦はいっそ暢気と言えるほど悠々としている。


「実は、淡浪くんの意識はまだ残っておりましてね。それを探し出して掻き集めれば、彼ならばこの影を抑える事が出来るかもしれません。影が引けば本体も出てくるでしょう。――これの対処は貴女に任せましたよ」


 視界が闇に支配される寸前、暁彦の身体は空中に溶け出すように消えていった。

 その様が【狩り人】に斬られた虚目にひどく似ていて、莉緒の背筋がぞくりと粟立った。その姿こそが人類の進化だとでも言うのか。

 もう見えない姿を睨みつける莉緒の手に、律の手が重なった。


「莉緒ちゃん」

「せん、ぱい」

「君のバディとして、僕も手伝うよ」

「――……はい」


 莉緒は握られた手をそっと握り返す。こんな時でも変わらない声色にひどく安堵した。


(いい加減、覚悟を決めるべきなのかもしれない)


 そんなことを思いながら、莉緒は自ら瞼を閉じた。

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