第十五話 始まりの咆哮
それは、莉緒が律を避け始めてから一週間後のこと。
『莉緒へ 放課後、屋上に来てね♡ 恵ちゃんより』
莉緒のもとに、可愛らしくデコレーションされたメッセージカードが届けられた。文面は飾り文字で書かれている。
(そういえばこの前、カリグラフィーの練習してるって言っていたっけ)
インクまで数種類の色を使っている手の込みようだ。莉緒は感心半分に苦笑した。
この一週間は律から隠れるのに必死で、恵子と食事もできていない。いつでも一緒に行動するような間柄でもないのだが、こうも顔を合わせないとなると、さすがに寂しいものがあった。
「屋上なら滅多にいかないし、大丈夫か」
律にもマークされていないはずだ。
莉緒は頷いて、メッセージカードをポケットにしまった。休憩中に一度だけ律が顔を出したが、いっそう団結が強まったクラスメイト達によって、教室内への侵入は阻止された。
この一週間で、「いつも通り」なんて言えるほどになってしまった光景だ。
だから、油断していたのだろう。
「やあ、莉緒ちゃん。待っていたよ」
自分から誘導されて捕まるなんて、想像もしていなかった。
「…………恵ちゃん」
莉緒は屋上を陣取る謎のオブジェクトに腰掛けた恵子へ、恨めしげな眼差しを向けた。しかし、恵子は全く意に介さず「チッ、チッ、チッ〜」と人差し指を振った。
「だめだよ莉緒〜。面白いことをする時は、ちゃんとあたしを巻き込んでくれないと〜」
「恵ちゃん……」
莉緒は今度は頭を抱えた。恵子は波乱を面白がるきらいがある。ありすぎる。相談したらしたで、状況を引っ掻き回すのが西園寺恵子という人間だった。だから巻き込みたくなかったのだ。
(まあ、あれだけ騒げば気付くか)
とはいえまさか律の方に付くなんて――という思いは、一秒とせずに掻き消えた。
「いや恵ちゃんだからね……恵ちゃんならやるよね……」
友情を儚む莉緒を前に、恵子は満足げにその通りだと頷いた。どうしてくれようか。
今にもどうにかされる側であることも忘れて黒い謀を巡らせた束の間に、この場には不釣り合いな着信音が響いた。音の出どころは恵子のようだ。彼女は慣れた手付きで端末を取り出し、誰かと通話をした。
「どしたの急に〜? ……ふんふん、なるほど良いよ〜。すぐ向かうね〜」
嫌な予感がする。
刺さり続ける律の視線から必死で逃れていた莉緒は、縋るように恵子を見つめた。この地獄の空気の中で律と二人きりになるのは耐えられない。この際冷やかしでもいいので傍にいてもらいたい。
「恵ちゃん……」
「そんな目で見てもダメ〜。あたしはもう行くから、逃げずに話し合うんだよ〜」
「ああ西園寺ちゃん。協力ありがとう」
「いえいえ〜。今は応援してますけど〜、莉緒にひどいことしたら敵になっちゃいますからね〜」
「ふふふ、気を付けるよ」
恵子はあっさり背を向けてひらひらと片手を振った。
莉緒は呆然とその背を見送りながら、心の中で文句を連ねた。
なにかと頼られがちな恵子が多忙な身なのは理解している。しているが、それならばこちらにまで首を突っ込むのはやめてほしい。
兎にも角にも、どうすべきか――など言うまでもない。
「じゃあ、私もこれで」
逃げるが勝ちである。
莉緒は華麗に回れ右をしてドアノブを捻った。とても自然な動作だ。しかし、律には通じなかった。律はすかさず扉を押さえて、逃げ道を封じる。
「待ちなさい」
その一言で、莉緒は縫い止められたように硬直した。律にはたしかに強引な部分があるが、莉緒に対してはなんだかんだで先導を譲ることが多い。こうも強気に出られたのは初めてのことだった。
莉緒は恐る恐る振り返って息を呑む。
「こっち。来て」
律は――怒ってはいなかった。それどころか、どこか哀れむような力ない微笑で莉緒を見ている。
初めて頬を打たれた子のように、莉緒は抵抗を忘れた。そんな顔をするくらいならばいっそ怒ってほしいと、理不尽な感情が湧き上がる。
律は子供にも振り解ける強さで莉緒の手を引いた。その温もりがいつかの日々を思い起こさせ、莉緒は顔を歪めた。
「――どうして、私なんですか」
ついに口を突いて出た疑問に、律が振り返る。
「理由があるなら教えて下さい。どうして私なんか、好きになったんですか」
聞いたところで意味がない。どちらにせよ、その想いに応えることはできないのだから。
そう何度も同じ答えを出しては納得して――それでも消えなかった、「聞きたい」という欲求。
「聞かせて下さい」
「……言われてみれば、話したことは無かったかな」
律は少々面食らっているようだった。それが言外に「恋に理由を求めるのか」と言われているようで、莉緒は俯いた。
恋は相手に幻想を重ねながら肥大化していくもの。
なんて、そんなことを言ったら卑屈に思われるだろうか。
しかし、天川莉緒に関してはそうなのだ。莉緒に好意を抱く者共は皆、莉緒が正常な人間であるという幻想を重ねている。その本質も知らずに。
「僕が君に恋をしたのは、一年前のことだよ。君が一人の男子生徒を救ったその時から」
空を見事な赤に染め上げる夕日に目を眇めて、律は語り出した。
●
その日も、ぞっとするほど真っ赤な夕焼け時だった。
律が高等部三年に上がったばかりの頃で、奏の恋がやっと成就した頃でもある。毎日のように聞かされる妹の惚気話に些か辟易していた律は、用事があるフリをして特別棟へ向かう途中だった。
前方を足早に歩いていく噂の人形騎士をなんとはなしに眺めながら、渡り廊下にさしかかった時にそれは起こった。
「ぐ、あああ……っ!」
渡り廊下の反対側で、一人の男子生徒が虚目に取り憑かれたのだ。床に両膝を突いて蹲る彼は、今にも異形と化そうとしていた。
当然、律より前にいた莉緒はその瞬間を目の前で目撃している。
(よりによって【狩り人】の目の前で異形化するなんて、ね)
濃い茶色の制服を着ている彼は中等部の生徒だ。幼さを残すその目が正面に佇む【狩り人】を見つけて、恐怖に染まった。
強く、強く死を意識しながら、少年は縋るように莉緒へ手を伸ばした。
「ごめん、なさ、い……」
その手が取られることはなく、しかし無碍に払われることも無かった。
何故か、人形騎士は刀に手をかけたまま微動だにしなかったのだ。完全に異形化してしまう前に始末するのが最善だろうに、その小さな背は縫い付けられたようにピタリと静止している。
(まさか、躊躇っている?)
その静かな間が、さっさと引き返そうとしていた律の足までもを縫い止めた。なんて事はない。単純に興味が上回っただけである。
すると一拍の後、人形騎士の背に肌がひりつくほどの怒気が立ち込めた。
「――ふざけるな」
それは音に先駆けて落ちる稲光のようだった。
まさに目の前で落雷を目撃した人のように、少年が「ひっ」と悲鳴をもらす。律もまた、額を伝う汗を拭うことも出来ずに、物陰で息を潜めた。
「ふざけるな! 命は弄ばれる為にあるんじゃない! ――化け物! お前が真に感情を喰らう者だと言うならば、私の感情を喰らってみせろ‼︎」
それは正義と騙るには増悪に満ちていて、ただの癇癪と切り捨てるには情熱的で。
それまで律が知っていた莉緒といえば、冷静ながらどこか張り詰めていて、敵が現れれば顔色ひとつ変えずに葬る絶対的な強者だ。冷血漢だとすら思っていた。
――だと言うのに、目の前の彼女はなんだ?
今の時代では悪とすらされる激情。莉緒のそれは、あらゆる負の感情を無理やり一つの鍋に入れて煮詰めたかのように混沌としている。
なのに、惹かれて止まないのは何故だろうか。
(ああ、顔が見たい)
莉緒の感情が伝播して、律の鼓動をも速めて熱くする。
律は初めての感覚に困惑し、それ以上に興奮した。これは恋なのか。これが恋ならば、なんて抑え難く、激しい感情なのだろうか。
律は莉緒の目の前にいる少年を羨んだ。彼女の激情を受け止めるのが自分であったなら、それはどれほどの幸福か。
同じように、虚目も惹かれたのだろう。少年の身体を捨てて、吸い寄せられるように莉緒の方へと向かう。しかし、儚くも一瞬の後に斬り捨てられ、芒洋とした意識にその身を溶かした。
それと同時に少年の体が崩れ落ちる。少なくとも表面上に変化は見られないが、果たして中身はどうだろうか。莉緒は弾かれたように駆け出して彼の前に膝を突いた。
「だ、大丈夫……?」
当然ながら返事はない。ただ、微かな寝息と上下する胸が、彼がしっかり生きている事を示していた。莉緒は脱力したように深く息を吐いて、徐に立ち上がった。
「……人、呼ばないと」
その言葉を背に、律はそっとその場を去った。今すぐ、彼女の元へ駆け寄りたい。しかし、今莉緒と会話などしようものなら、世界中の虚目が自分を目掛けてやってくる自信がある。精神修行の授業など何の役にも立たないくらい、想いが溢れて止まないのだ。
「参ったな……」
律は空き教室に身を潜め、悩ましげに睫毛を震わせた。頭に浮かぶのは、一つの疑問。
この想いは刹那のものか、否か――……。
律には自分が薄情である自覚があった。その時々に感じた喜楽も悲哀もすぐに古ぼけて、過去のものとしてしまうのだ。
「この感情も、明日になったら色褪せてしまうのかな」
それはとても惜しいことのように思えた。窓の向こうでは、十数匹の虚目がへばりつくようにしてこちらを窺っている。普段は中々お目にかかれない数だ。真っ白な体毛が夕日の光で赤みを帯びて、いっそう不気味に見える。
けれど、それも莉緒への想いの強さを証明しているのだと思うと、嬉しさすら感じた。
「あっ、もう兄さんったらこんな所にいらしたのね――って、これは……⁉︎」
「奏」
窓の虚目に絶句する奏を、律は壁に背を預けたまま仰ぎ見た。今ならば、奏がしつこいくらい惚気話をしてきた気持ちが分かる。確かにこの感情は、自分一人に留めておくには強すぎるものだ。こんな思いを奏はずっと抱え続けていたのだと思うと、尊敬の念すら湧いてきた。
律は情けなく眉尻を下げて笑った。
「僕も、恋をしたかもしれない」
●
律が語り終える頃には、莉緒は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「……分かりません。あれは【狩り人】として最悪の行動でした。感情任せに喚き散らしているだけの……惚れる要素なんて一つも無いじゃないですか」
律にとって甘い恋の始まりであるその瞬間は、莉緒にとっては己の未熟を突き付けられた苦い記憶だ。
異形の力は強大で、万が一逃せば甚大な被害が出る。【狩り人】ならば即座にその生徒を斬らなければいけない。それが当然至極の結論なのだ。
しかし、莉緒は躊躇してしまった。少年の全てに見捨てられたような目が、心ある人間のものでしかなくて。
「君の激情はいじらしい。こんな僕の心さえ、動かすほどに」
結果だけを見ればむしろ異形となった少年を斬るより良い方向に進んだのに、それだけでは終われない所も愛おしくて、律は甘く微笑んだ。
「ただ困った事に、それ以来僕はそれまで以上に虚目を惹きつけることになってしまってね。君との高校生活を満喫することも出来ず、ひたすら精神修行に明け暮れていたよ」
「それであの手紙ですか。気味が悪いので差出人名くらいは書いてください」
「名乗るのが恥ずかしくて」
そう言ってはにかむ律を、莉緒は眉根を寄せてじぃっと見つめた。まるで未確認生物でも見るかのような目だ。
「それにしても、あの時は何故あんなに怒っていたんだい?」
「それは……確か、声を聞いて、それが許せなくて……」
「声?」
不思議そうに首を傾げる律に、莉緒も口を噤む。当時莉緒がいたのは渡り廊下の途中だ。その廊下は二階にあり、構造も至ってシンプル。隠れられるような隙間などどこにもない。なのに、その声は確かに莉緒の耳元で囁いていたのだ。
(虚目の声ではなかった。もっとハッキリとした、男の人の声だったはず)
莉緒はつきりと痛む頭を押さえて、件の渡り廊下を見下ろした。光は赤く、影は濃く。放課後の寂しげな廊下を面妖に仕立てあげている。今日の夕日は、当時のそれと本当にそっくりだったことを覚えている。
虚目に取り憑かれた少年の姿を覚えている。猫背気味で、内気で優しそうな顔をしていた。
渡り廊下を通った理由を覚えている。特別棟に忘れ物をして、取りに行く途中だったのだ。
怒りに任せて吐き出した台詞を覚えている。全てが終わった後、自分の行動に愕然とした。
なのに、
「――思い出せない……どうして……」
その声の内容だけが、切り取ったように抜け落ちていた。それどころか、思い出すのを拒むように頭が痛んだ。
(なんだろう。見えているのに、届かない感じ。すごく……気持ち悪い)
ついには崩れ落ちた莉緒を、律が慌てて支えた。
「莉緒ちゃん! 大丈夫かい。無理に思い出す必要はないから」
「でも……」
思い出さなければいけない気がする。取り返しがつかなくなる前に。
律の腕に縋ろうとする己を制して、莉緒はふらつきながらも立ち上がる。
――その時、轟音と咆哮が大地を震わせた。