第十四話 画面の向こうで
「それで最近、ここに入り浸っているんだね」
「それで最近、兄さんの機嫌が悪いのね……」
紅茶と茶菓子を机に並べながら、事のあらましを聞いた幸人と奏が神妙な面持ちでひとつ頷いた。
「お騒がせしてすみません……」
莉緒はログハウスの床に視線を落として項垂れる。
印付きの隠れ家はここ最近、莉緒の避難先と化していた。
「あはは。気にしないで、好きな時に来て良いんだよ。僕なんて皆の倍くらい入り浸っているから」
「印付きはなにかと目立つもの。この隠れ家は、人の目から逃れる為のものでもありますものね。むしろもっと来ても良いのよ? あなたと落ち着いて話せるのはここくらいだもの」
二人の優しさが身に沁みる。莉緒はその言葉に甘えて、紅茶と茶菓子を堪能した。この二人は特にここの常連のようで、いつもこうして暖かく迎え入れてくれるのだ。
「でも本気の莉緒さんは、わたしも見てみたいわね」
梅雨明けを報じるテレビを観ながら、奏は体育祭が楽しみだと語った。気を遣って律の話を振らないでくれているのだろう。しかし、それもまた莉緒にとっては答えにくい話題だ。
「……そんな露骨に手を抜いてるように見えるかな」
実際その通りではある。しかし、それでもチーム戦などではしっかり勝利に貢献しているはずだ。
(全力を出せと言われても……)
これがなかなか、莉緒には難しかった。
例えばリレー。マイルリレーのアンカーを任されたとする。チームは最下位、トップとの差は三百メートルを越えている。そんな状況でバトンを渡されたら、どうなるだろう。
少なくとも常人ならば優勝は絶望的だ。どんなに足が速い人でも、トップを追い抜くことは出来まい。――しかし莉緒であれば、そんな状況も余裕で覆すことができる。観戦者からは、一人だけ早送りをしていたかのように映るかもしれない。
莉緒にはそれだけの身体能力と、疲れ知らずの体力があるのだ。
その時、観客は湧き上がるだろうか?
クラスメイト達は笑顔で迎えてくれるだろうか?
――そうは思えない。
ありえない物事を前にした時、人は拒絶反応を起こす。そういう風にできているのだから。
怖い、と思う。人の輪から外れてしまう事が。あの愉快なクラスメイトたちから、もしも異形を見るような目を向けられたら……想像するだに恐ろしい。
「そうねぇ、余裕そうだとは思ったわね。息切れひとつしないのですもの」
「なるほど息切れ……」
「……莉緒さんまさか、この期に及んでまだ手を抜こうと……?」
「い、いやそんなつもりは」
「ふふふ。楽しそうだから、僕も観戦に行こうかなぁ」
莉緒は返答に困って逃げるようにテレビを見つめた。
肝心なのは競技決めだ。綱引きや玉入れならば、全力を出すまでもなく決着をつけられる。借り物競走も良いかもしれない。とにかく、身体能力を発揮しにくい競技を勝ち取るのだ。
競技決めは来週。とりあえず方針を立てた莉緒は、「まあ、頑張ります」と自信なさげに呟いた。
「それはそれとして、その前に七夕祭があるわ。まずはそちらを全力で楽しみたいわね」
「あ、そうそう。七夕祭と言えば僕、屋台の手伝いをする事になったから、良かったら覗いていってね」
七夕祭は生徒の有志で開催されているお祭りだが、学園の行事にも負けない規模を誇っている。そのぶん出店者側も客の獲得に頭を悩ませているようだ。学園の人気者たる幸人がいるならば、その屋台の売り上げは安泰だろう。
「まあ。是非、剣士も連れて行きますね。それにしても淡浪先輩が屋台だなんて、長い行列ができそう。何の出店でしょうか?」
「わたあめと、かき氷と……ああ、あと射的だったかなぁ」
「すごい引っ張りだこ……」
「順番に回っていけば見つかるかしら……」
もしや、裏で争奪戦でも行われていたのではなかろうか。
顔を引き攣らせる後輩二人をよそに、幸人は莉緒が持参したクッキーを美味しそうに頬張った。
「天川さんはお祭りには来るの?」
「私はそういうのは基本的に不参加ですね。行くとしたら――」
律に誘われた時くらいだ。
そんな言葉が自然に出てきそうになって、莉緒はすんでのところで口を閉じた。逃げている分際でなんて事を口走りそうになるのだ。
「いえ、なんでもありません。まあ、今年も不参加になると思います」
ひっそりと気恥ずかしさと気まずさに打ち震えていると、都会の街並みを映したテレビの向こうに見知った姿を見つけた。
まだ小学生くらいの、活発そうな少年。間違いない。テーマパークで出会った啓太だ。画面の隅で、両親と弟と一緒に楽しそうに歩いている。
再会と呼ぶには一方的な巡り合い。それでも元気そうなその姿に、莉緒は人知れず口の端を上げ――すぐに引き結んだ。
不自然にならないようにティーカップを持ち上げ、音もなく飲み干す。
「あ、」
「莉緒さん? どうなさったの?」
「ううん。……その、紅茶をもう一杯貰っても良い?」
「あら、もう空なのね。わたしが淹れてくるから、莉緒さんはゆっくりしていらして」
「ん、ありがとう」
トレーを持って台所へ向かう奏を、莉緒は注意深く観察した。どうやら奏は気付いていないようだ。莉緒はホッと息を吐いて、視線をテレビに戻した。
その瞬間――画面の向こうで、小さな身体が歪んだ。
骨が皮膚を突き破り、異形の様相を成す。両目があったはずの場所は空洞で、真っ暗闇の中から真っ黒な血を流していた。肥大化した手が、近くにいる子供――大切な弟だったはずの少年へ振り下ろされる所で、映像は反転。カメラマンがリポートの芸人と並んで悲鳴をあげながら逃げていく。上下に揺れる画面がふいに振り返った先で、警官の銃に撃たれる異形が映った。
『ああ、死んだみたいだ。良かった……。はあ、びっくりした……ったく……』
番組がめちゃくちゃだよ。誰かの呟きをマイクが拾う。その声には隠しきれない恐怖と嫌悪が滲んでいた。
それでもなんとか仕切り直して、番組が再開される。こんな事にかかずらっていたら、なにも出来なくなるからだ。
人々は今や異形の存在にさえ慣れ始めていた。【狩り人】に頼る以外の対策も打ち出されている。それは人の持つ強さなのだろう。けれど莉緒は、そんな姿を目の当たりにする度に、世間に置いていかれるような心地がした。
この程度の被害ではもうニュースにもならない。知り合いの死という事実のみを突きつけられた莉緒は、膝に置いた手に爪を食い込ませた。
「……どうしてこんな世界になっちゃったんだろう……」
「……天川さんは、今のこの世界が嫌?」
無意識の呟きを幸人に拾われ、莉緒はハッと顔をあげた。
「あ……いや……」
莉緒は言い淀んで幸人から視線を逸らす。「嫌だ」と言えば良いだけなのに、言えなかった。
――眉尻を下げて淡い笑みを刻む幸人が、今にも消えてしまいそうで。
「……すみません。知り合いに似ている人がいたので、つい……」
「ああ、それは嫌な気分になるよね。チャンネルを変えようか。あ、鷹崎くんが持ち込んだDVDもあるよ」
「そうですね。お気遣い、ありがとうございます」
「いえいえ」
幸人は得られなかった答えを追求する事なく、リモコンを手に取る。テレビが切り替わる瞬間、昏く翳ったその瞳を見て、莉緒は深淵を覗いてしまったような不安感に胸を押さえた。
●
「俺は元の世界に戻ってほしいとは思いませんよ」
大学部の東にある一棟に、虚目研究部のエリアがある。
その内の一室。何も無い真っ白な空間で、杉本は手の中の注射器をじっと見つめて言った。
「ただ、今のままで良いとも思っていないだけです」
ここは虚目や異形の生態を暴くための実験室。扉は鋼鉄で、窓もない。大きな衝撃にも耐えられる丈夫な部屋だ。杉本はそんな部屋の中央に一人、突っ立っていた。
「世界のどこかでは【喚び人】の大量殺戮が行われました。今も獄中にいる加害者に対する非難の声は多いですね。当然ですよ。彼らがした事は非難されて当然の狂気だ。……しかし、中には彼らを称賛する声もある。『【喚び人】はただそこにいるだけで周囲の命を脅かしているようなものなのだから、殺戮もやむなしだ』と。その認識は、その事件を非難している人々の心の中にさえ薄らと刷り込まれている」
杉本はぐっと手を握り込む。その顔は、死地に赴く戦士のようだった。
「――俺は、その認識を変えたい。その為なら何だってやりますよ」
『ああ。君の勇気はこの世を大きく変革するだろう』
部屋のすみに設置されたスピーカーが、杉本の決意に答えた。虚目研究部顧問、井上の声だ。
『虚目に対抗するための薬は人間自身が被検体になるしかない。分かっていると思うが、今回の実験――失敗すれば君は死ぬ。それでも、やってくれるか?』
杉本は迷うことなく「はい」と返事をした。
「俺は【喚び人】です。親に捨てられ、身寄りもない。被験体になるなら俺が適任でしょう」
『……そうか。では、頼む』
杉本は頷いて、自分の腕に注射器を刺した。
――……そして、砦鵠学園の片隅で一人の【喚び人】が密やかな変革を迎えた。