第十三話 拒絶
少し、困ったことになったかもしれない。
いつもより密度の高い朝の教室。莉緒は自分の席に座りながら、出入り口と窓との間で不自然に視線をさまよわせた。
窓越しの天気は相変わらず不機嫌で、ストレスを発散せんばかりに雨が大地を打ち付けている。気が滅入る音だ。
しかし、今だけはその雨音に助けられてもいた。
何故なら、反対側でひしめく混沌を見て見ぬふり出来るからである。――言うなれば、遠夜律vsクラスメイトの攻防を。
「莉緒ちゃん」「あー、ごめんなさぁい! このドア今建て付けが悪くって通れないんですぅ!」「莉緒ちゃ」「すんません。ここ今掃除してるんで退いてください」「り」「危なーい! ああっ、お水こぼしちゃった! すぐに拭くのでちょっと待ってくださいねー!」
いっそ雷でも落ちてくれたらもっと助かるのだが。
「ああ……」
莉緒は頭を抱えた。
教室の出入り口にある現実と、現実逃避にもってこいな窓の外。その狭間で、所在なさげに両目をぐっと閉じる。
少し……いや、だいぶ、困ったことになってしまったかもしれない。
そしてこの教室にはもう一人、内心で頭を抱えている者がいた。
(あああ、ごめんなさいごめんなさい! ここまで大事にするつもりじゃなかったの――!)
揺れる栗色のポニーテール、浅木みのりである。
――きっかけは、些細な事だった。
「ああ、君。莉緒ちゃんを見なかったかな」
休日の寮で、遅めの朝食を摂りにロビーへ降りたみのりは、なんとあの遠夜律に話しかけられたのだ。
みのりが知る律は、基本的に莉緒以外には視線すらまともによこさない。声をかけられたら対応はするが、あからさまに興味のなさが滲み出ている。そんな人だった。
そんな彼が、莉緒に関することとはいえ、自分から声をかけるなんて。と、みのりは驚き慄いた。
「い、いえ、今日は見てませんけど……」
「そう。ありがとう。じゃあね」
義務的な挨拶だけを残して、律が早足で立ち去っていく。疎々しいその背を眺めながら、みのりは自分でも説明できない靄が胸中に立ち込めるのを感じた。
(私のほうが先に、りおちゃんと知り合っているんですけどね)
なんて、靄が言葉を得たことで、気付いてしまった。
(私、あの人に嫉妬してる……)
みのりは眉根を寄せて、そんな資格はないのだと自分に言い聞かせる。
みのりにとって莉緒は他人よりは距離が近いクラスメイトで、クラスメイトよりは距離が遠い知り合いだ。そういうことになった。そういうことにした――そのはずなのに。
我ながら未練がましい。
「「はあ……」」
自己嫌悪で吐いた溜め息が、どこからか聞こえたそれと重なって、いやに大きく響く。
驚きで反射的に溜め息の片割れが聞こえた方を振り向くと、向こうも同じように目を丸くして固まっていた。
莉緒だった。
「あっ、こ、こんにちは」
「……ん。こんにちは」
まるで壊れかけの機械同士で喋っているかのようだ。周りの目がある教室内などではもう少し自然に会話が出来るのだが、二人きりだとまだぎこちなかった。
とはいえ、今の関係としてはこんなものだろう。挨拶だけして、すれ違う。それだけの関係だ。
しかし今この時ばかりは、みのりの足はそこに立ち止まったまま動こうとしなかった。
と言うのも、莉緒がロビーの階段を支える柱の影に、身を潜めるように屈んでいたからである。どこぞの暗殺者かとツッコミそうになった。こんなの気にならない方がおかしいだろう。
「ど、どうしたの……?」
「いや、なんでも……」
莉緒は歯切れ悪くそれだけ言うと、さらに奥へ引っ込もうとした。なんでもない人の行動ではない。
「……遠夜先輩から隠れてるの?」
頭に浮かんだ事を、思い切って尋ねてみる。
すると莉緒はピシリと固まり、やがて錆びついた人形のように頷いた。
「何かあったの? それとも遠夜先輩のことが嫌いになった……とか?」
「ううん。そうじゃない。でも……距離を置きたいとは、思ってる」
みのりは喉を詰まらせた。それが本心なのか、そうではないのか、みのりには分からない。
けれど、莉緒がとても悲しい決断を下してしまった人のような顔をしていたから。どうしても、何もしないままではいたくない。そんな思いが、みのりの心を逸らせた。
(私は何をすればいい?)
聞きたくても、聞けない。
莉緒はクラスメイトで、クラスの誰よりも遠い人で、今は印付きにまでなっていて、密かな人気者で――
(あと、恩人)
その時、みのりの中でパチンと何かが弾けた。
それはもしかしたら、理性とか、そういった外してはいけないものだったかもしれないけれど。
(そう、恩人だよ。恩人なんだから、恩人に恩を返したいって思うのは普通だよね?)
もはやその二文字だけを頼りに、みのりは意を決した。
「なら、私が協力するよ」
戸惑いをみせた莉緒へ、みのりは一歩踏み出した。
「クラスメイトのよしみで、どうか遠慮なく頼ってほしい」
とは言ったものの。
みのり個人に出来ることなど限られている。
だから相談した。してしまった。
みのりが砦鵠学園でできた初めての友達。秋咲くるみ。
――彼女は、来る体育祭に熱意を燃やす体育会系女子だった。
「次から次へと……煩わしいな」
「ひ、ひぃ〜」
「こらー男子! 逃げるなんて情けないぞ!」
くるみの激励もむなしく、逃げ込んだ男子生徒が教室の隅でガタガタと震えている。莉緒は「これ、どう言うこと?」と問いかけてくる律の視線を必死に躱しながら、哀れな男子生徒に心の中で謝り倒した。
「まったくもー」
くるみが大きくため息を吐いて、くるりと反転。莉緒へ勝ち気にウインクした。
「天川さん。あたし、ぜーったいに遠夜先輩を近付けさせないから。だから、ね?」
「は、はい」
思わず敬語になってしまうほどの圧が、くるみから漂っている。密かに親近感を感じていた小柄な体躯が発する熱意は、莉緒よりもずっとパワフルだ。
それはもう、自分の野望にクラス全員を巻き込むほどに。
(まさかこんなことになるとは……)
律から隠れている所をみのりに見つかってから三日後のこと。止めようとするみのりを引き摺りながら猛然と莉緒の元へやって来たくるみは、「あたし、遠夜先輩のこと全力で阻止するよ!」と藪から棒に切り出した。
そして目を白黒させている莉緒に、「だから、ね」と上目遣いで条件を差し出したのだ。
『来月の体育祭、天川さんも全力を出して欲しいの。いつも力抜いてるの、知ってるんだから。ね?』
その目は笑っていなかった。
拒絶も言い訳も許さない無言の圧力に促されるがまま頷いた莉緒に、くるみは嬉しそうに表情を崩して拳を突き上げた。
『よーし、皆も聞いてたよね。さっそく準備に取り掛かろう! 全ては勝利のために!』
『『『えっ⁉︎』』』
こうして、気付けば耳を欹てていたクラスメイト達をも巻き込んで、くるみによる「遠夜律妨害計画」は実行されたのであった。そんな彼女は今、小柄な身体を精一杯大きく見せて、自ら律の眼前に立ちはだかっている。
「ここから先は通しません」
聞いているのかいないのか、律は貼り付けた笑顔のまま身動ぎひとつしない。強者の貫禄である。伊達にこの教室に辿り着くまでの数ある妨害を突破してきたわけではない。
くるみも負けじと真正面から律を睨み返した。冷えた沈黙が辺りを包む。教室中が固唾を呑んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………っく、うっ、ううう」
――かくして。奮闘むなしく、くるみはその勝負に敗けた。というか、泣いた。律は未だに笑顔を貼り付け、もはやマネキンのように微動だにせず扉の前で佇んでいる。ホラーか。誰かが呟いた。なまじ容姿が整っているだけに、余計に人間味がなく見えるのだ。
元来、生き物にとって笑顔とは威嚇であることを身をもって知ったくるみは、しかし口の端に笑みを浮かべてみせた。
始業のチャイムが鳴る。
「お、おか、お帰りの時間です……」
震えながらも言い切ったくるみを一瞥して、律はやれやれと肩をすくめた。
「莉緒ちゃん。また来るからね」
それだけ言って律が来た道を引き返す。
その背中が見えなくなると、シンと静まっていた教室が突如湧き上がった。
「うおお、退けたー!」
「やった! やったぁ!」
クラスメイト同士で奮闘を讃えあう。みのりですらどこか興奮した面持ちだ。
巻き込まれただけのはずのクラスメイトも皆なんだかんだでやる気に満ちていて、莉緒はその様子を取り残された気分で眺めていた。