第十一話 願い
ホテルのソファに腰掛けた莉緒と剣士は、遠く人気のない場所で向かい合う兄妹を見守っていた。並ぶと本当に華やかな兄妹は、いつもの柔和さを引っ込めて近寄りがたい雰囲気を醸し出している。一足遅くホテルに到着した律を、奏が話したい事があるのだと連れ出したのだ。その顔には隠しきれない緊張が滲んでいた。それだけ、大切な話なのだろう。
律は律で、これを機に親とのことを打ち明けるようで、莉緒は落ち着かない気持ちで手を弄っていた。
「……すまない」
すると、剣士がいきなり莉緒へ向かって頭を下げた。
「狩野先輩……? いきなり、どうしたんですか?」
莉緒は目を白黒させて狼狽える。気付かぬうちに何か粗相をしてしまっただろうか。
「俺といると息苦しいだろう」
そこで初めて莉緒は、まともに剣士と会話をしていなかったことに気付いた。既にそういうものだと思って、全く気にしていなかったのだ。
「……すみません。私の方こそ気を遣わせてしまいましたね。息苦しいとか、そういうのは特にないですよ。そもそも私だって会話得意じゃないですから」
「そうか。そう言ってもらえると助かる」
剣士の表情からは汲み取れないが、そう言う彼の方が沈黙を苦手としているのだろう。何か会話を振った方が良いかと、莉緒は話の糸口を探った。
「……そういえば、狩野先輩たちが啓太くんと歩いている所を見かけたんですけど、仲良くなったんですか?」
「ああ。あの後、謝りに行ったんだ」
「会えてよかったですね。啓太くんもここに宿泊しているんですよね?」
「ああ、そのようだ」
いざ会話を試みても、口下手同士では続くはずもなく。再び落ちかけた沈黙を、快活な声が遮った。
「俺の話題でむなしいキャッチボールすんなよな」
振り向くと、いつの間にかソファの背に肘を乗せて身を乗り出している啓太がいた。
「啓太くん」
「おう」
啓太はニカッと白い歯を見せて笑う。相変わらず人懐っこい子供だ。その翳りのなさに安堵すると同時に、また【狩り人】になりたいとせがまれたらどうしようと、一抹の不安が過ぎった。
「姉ちゃん」
「な、なに」
「その、あー……昼間は悪かった!」
しかし予想に反して、啓太の口から出たのは謝罪の言葉だ。
「あのあと奏姉ちゃんにめっちゃ謝られてさ、思ったんだ。俺はやっぱ【狩り人】になりたいけど、皆はなりたくてなったんじゃないんだよな。俺、そんなこと考えもしなくて……。なんかこう……大切なもん、見失うところだった。ほんとごめん!」
その言葉があまりに真っ直ぐで、莉緒は思わず瞼を伏せた。こんなにも眩しく思うのは、自分が欠けてしまった者だからだろうか。
(私はもう、こんなに真っ直ぐなにかを想うことはできない)
せめて啓太の大切なものが欠けてしまわないようにと、誰にともなく願いをかける。
「ううん。……私も、力になれなくてごめんね」
立ち去る小さな背中を眺めていると、剣士がどこかしみじみと呟いた。
「あいつは強いな」
「……そうですね」
啓太にあるのは誰もが持ち得るものではない、未来へ向かう強さだ。それは【狩り人】が持つ強さよりもずっと尊いものである。その強さは、きっと周りを太陽のように照らすだろう。
啓太の願いが叶えば良い。しかし、もしそれによって彼の輝きが損なわれるのならば、その願いを素直に応援することなど莉緒には到底できそうもなかった。
(どうしたら【狩り人】になれるのか、か)
何度聞かれても、「気付いたらなっていた」としか答えられない質問。しかし、もし仮に【狩り人】になる事に条件があるとするならば、それはきっと碌なものではない。
そう思うのは、【狩り人】の自分が後悔ばかりを重ねてきたからだろうか。
(本当に、どうして【狩り人】になんてなってしまったのだろう。――どうして私はまだ、生きているのだろう)
こうして悲しみに浸ることすら、罪深かった。
「莉緒さんは、兄さんの過去のことを聞いている、のよね……?」
律との話を終え、食事と入浴をすませる間も、奏はなかば放心状態だった。ようやくまともに口を開いたのは、床につこうと照明を落とした時だ。薄暗い中で表情は見えないが、その声は不安そうに揺れていた。
「うん。その……勝手に聞いてしまって、ごめんなさい」
部屋割りはもちろん男女別を死守したが、今ばかりは奏と剣士を一緒にした方が良かったかもしれないと、莉緒は思案した。いま奏が寄りかかれる相手は、剣士以外にいないのだ。
「ううん、いいの。他ならない兄さんが話したかったのでしょうし。ただ、今は少し、色々な感情がぐるぐるしていて……よろしければ、わたしの話も聞いてくださる? 何も言わなくても、寝てしまっても良いから」
「……うん。分かった」
恋人の代わりなど務まるはずもないが、せめてちゃんと聞き届けようと、莉緒は耳をすました。
そして何度目かの深呼吸の後、奏が口を開く。
「……妹からは優劣をつけられ、親からは毒を盛られ……けれど怒りに呑まれれば、【喚び人】の方が危険人物として扱われる。ひどい話だわ。兄さんを受け入れられる場所は、あの学園しかなかったのね……」
それは奏にとって、今さら取り戻せない不可逆の間違いを指折り数える行為だ。その声は重く、鬱屈としている。
しかし、奏はそれだけにはしなかった。
「それでもわたしは、誰が何と言おうと兄さんの妹だもの。兄さんが迷った時に、行き先の一つになれるような存在になりたい」
「奏さんなら、なれると思いますよ」
律が奏を見る時のまなざしは優しい。それだって、奏のこれまでの行動の結果に他ならないのだ。ならば、その願いが叶わない道理などないだろう。
「ありがとう。……うん。莉緒さんにまで言われてしまったら、もう頑張るしかないわね。――あのね、莉緒さん。今さらだけれど、わたしと友達になってくださらない? 兄さんの事を抜きにしても、わたし、あなたの事が好きだわ」
兄妹そろって好意が直球だ。莉緒は照れ臭さを感じながらも頷いた。
「そういうことなら、喜んで。私も奏さんのこと好きですよ」
「ふふ、ありがとう……わたしの世界を広げてくれて……」
眠気混じりにそう言って数秒後、奏は静かに寝息をたてた。
奏が残した言葉に、莉緒はガゼボで律が放った言葉を思い出す。
『だって――恋をしたから。奏も僕も恋をして、閉じた世界にいることがどれほど退屈なことだったのかを知ったから。愛おしい人を見つけて、誰かを想うことの素晴らしさを知ったから。ありがとう、莉緒ちゃん。僕の世界を色付かせてくれて』
じんと胸の奥が熱くなる。
「……こちらこそ、こんな私を好きだと言ってくれて、ありがとう」
好意を示してくれるのは嬉しい。奏にしても――律にしても。
それが友愛ならば受け取ろう。しかし恋愛感情ならば……やはり、受け取るわけにはいかなかった。例え、自分のほうが相手に惹かれていようとも。
胸に灯った温もりは、そびえ立つ現実によって急速に冷えていく。
(それでも私は、誰かと添い遂げることなんてできない)
なぜなら、天川莉緒は――化け物だからだ。