第十話 妹
パークの植え込みの裏手。鉄柵に腰掛けた奏と剣士は、暖をとる小鳥のようにピタリと寄り添っていた。
「虚目が現れてから、それが視える者は【狩り人】として祭りあげられ――反対に、それを惹き寄せる者は【喚び人】として疎まれるようになった。わたしたちの立場は明白だったわ。兄さんは次第に外へ出なくなった。いえ……出してくれなくなったのかしら」
奏は、焦点の合わない瞳でつらつらと過去を打ち明ける。その様はさながら逃避を諦めた罪人のようだ。
「わたしね、それが嬉しかったの」
奏は剣士の胸に頭を寄せると、艶やかな唇に仄暗い笑みを浮かべた。
「兄さんを独占できて、お父さんの期待もお母さんの慈愛も、一気に手に入ったのだもの」
「後悔しているのか?」
「ええ。……自分のことながら、優越感に浸っていたことにすら気付けなかった愚かさには、ほとほと呆れるわ。きっと兄さんは、最初から感じ取っていたのでしょうね。わたしが気付いた頃には、兄さんがわたしに向ける眼差しは乾き切っていたもの」
その瞬間、奏は己の過ちを知ったのだ。
兄の背から飛び出して、成長したつもりになって喜んで――その実、己の傲慢をひけらかしているだけであったのだと。
救いがたいくらい蒙昧だった幼き日の自分を思い出すと、今でも過去に戻って刺し殺したいほどの悔恨に駆られた。
「今は、そうは見えないが」
「……そう。兄さんは優しいけれど、薄情なのよね。それでも確かに感じていた親愛が、その時には完全に無くなっていたの。――今は、そうでないと言うのなら」
奏は顔を上げ、物静かな優しい目と視線を合わせた。ただ側にあるだけで赦しを錯覚する、夜の瞳。その中に自分だけが映っている。
ただそれだけのことが、奏の心に言いようのない歓喜を呼び起こした。
「それはきっとあなたのおかげよ。剣士に恋をして、その感情に振り回されている内に、兄さんともそれなりに話せるようになっていたの。あなたが、わたしの世界を広げてくれたから――壊れてしまった関係をも受け入れて、進むことが出来たのよ。兄さんも同じだと思うわ。莉緒さんに恋をしてから変わったもの」
剣士に恋をしなければ、奏はいつか律との関係の修復を諦めていただろう。莉緒に恋をしなければ、律は奏になにかを相談することなど決してなかっただろう。
恋というものはこうも人を変えてしまうのかと、奏は時々恐ろしくさえ感じた。
「俺や天川がいなくても、お前なら壊れた関係も修復できるだろう」
「あら、自信ありげね。どうしてそう思うの?」
「――全力で人を想う事が出来るからだ」
口数の少ない剣士が、真剣に何かを伝えようとしてくれている。
奏は五感の全てを働かせて、恋人の言葉に耳を傾けた。
「俺は口が上手くない。何かを伝えるのも、苦手だ。こんな俺といると相手は不安になるだろうと、人と関わる事を避けていた。だがお前が現れて――この時代に、まだこんな情熱を持てる奴がいるのだと思った」
「……剣士ったら、最初は取り付く島もなかったわね」
「それでも、お前は諦めなかった」
「だって、簡単に諦められるような恋ではなかったもの。あなたが折れて、わたしを受け入れてくれて、嬉しかったわ」
「折れたわけではない」
奏は首を傾げた。奏は今の律にも負けず劣らず、しつこく剣士に付き纏っていたのだ。良い返事を貰えたのは、最初の告白から実に一年後のことである。あまりに唐突で、一日目などは幻聴として片付けてしまったほどだ。
きっとその執念深さに負けて付き合う事にしたのだろうと、そう思っていた。
しかし、目の前の男がそれは違うという。いつも冷静な黒い瞳の奥に確かな熱を感じて、奏の心臓が激しく律動した。
「俺も、お前を欲しいと思ったんだ」
叫び出したいのを我慢して、奏は顔を伏せた。きっと今、自分の顔は頬から耳の先に至るまで真っ赤になっていることだろう。口元がみっともなく歪みそうで、奏は熱い頬に手を当てて「あー」「うぅー」と意味もなく呻いた。
「……剣士。好きよ」
「知っている」
向かい合えば絆を育んで、背中を合わせれば信頼を確信する。彼とならばそんな素敵な関係を築けるだろう。そうありたいと、奏は心の底から願った。
そう。夢も心もその所有者だけのものであって、決して他人が騙るものではないのだ。
「……そっか。わたし、啓太が羨ましかったのね。大切な人を護りたいって、まっすぐに言える姿が眩しかったのだわ。わたしにはもう、言えないことだから」
まったくみっともない、と奏は自分を叱咤した。少しは成長できたかと思ったそばから、未熟な部分が顔を出す。
せめてそれに気付けた時くらいは、またひとつ理想に近付きたいものだと、鉄柵からぴょんと飛び降りた。
「啓太に謝りにいかないといけないわね。……剣士、付き合ってくれる?」
「ああ」
奏と剣士は連れ立って歩き、喧騒の中に身を投じる。
啓太を探しながら、奏はもう一つ、誓いを胸に宿した。
(思えばわたしは、兄さんの察しの良さに甘えて、ちゃんと自分の気持ちを伝えられていなかったわね。……うん。ホテルに戻ったら、一度しっかり話してみましょう)
そしてその結果、拒絶されたとしても――ずっと「兄さん」と呼び続けるのだ。
●
夜のパーク内は昼間とは打って変わり、妖しげに誘うような雰囲気を漂わせている。
莉緒と律は向かい合って観覧車に揺られながら、イルミネーションが灯るパークを見下ろした。
「……あ。あれ奏さん達じゃないですか?」
「本当だ。もうホテルに向かっているみたいだね。……おや、もう一人いるね」
莉緒は目を凝らして、遠ざかりつつある人影を見やる。歩き方からして活発さがうかがえる小さな人影が、奏たちと並んでいた。
「あれは……啓太くん?」
三人は何かを話しながら、ホテルへと歩いている。ここからでも楽しそうにしているのが伝わってきた。
「仲直りしたみたいだね」
莉緒は「そうみたいですね」と返事をしながら、ガラス越しに反射する律を盗み見た。
(あなたは、ずるい……)
律は目を細めて、消えゆく妹の影を追っている。何も言わずとも、その瞳が雄弁に慈しみを語った。
莉緒はそういった表情にとことん弱いのだ。懐かしさと、切なさと……愛おしさを、覚えてしまうから。
ふと、律がこちらを向く気配がして、莉緒はサッと視線を戻した。
「莉緒ちゃん」
「なんですか」
「君はどうしたら僕を好きになってくれるのかな」
いつも通りと言えばいつも通りの言葉。しかし、なぜかいつもより重たく聞こえる。
なにが違うのだろうと、莉緒は眉根を寄せた。律に変わった様子は見られない。
ならば、何故こんなにも緊張しているのだろうか。
(私が、変わってしまったから……?)
莉緒は俄に青褪めた。いつもと違う反応に、律が訝しげに目を眇める。
「やっぱり異常に虚目を惹き寄せるうえに一度異形化しかけて、親にも見放された男なんて頼りない?」
「……いや、それは別に関係ないです。というか、急にネガティブにならないでください……」
「ごめん。可哀想な身の上に絆されてくれるかなぁと思って」
「思ってても口に出すことじゃないですよそれ」
律が冗談だと笑う。そうではなくても、そういうことにしてくれたのだろう。このまま甘えるのは不誠実だろうか。
葛藤の末に、莉緒はおずおずと口を開いた。
「……先輩に限らず、私が誰かを好きになることはありません」
「理由を聞いても?」
「相手を、真っ当に愛せる自信がないからです。……私は、両親をこの手で殺めました」
どんな感情を返されても受け止められる気がしなくて、逃げるように視線を外へと向ける。言ってしまった。けれど、これで律の心も離れてくれるだろう。
莉緒は手のひらに爪が食い込むほど強く、拳を握りしめた。
「誰よりも大好きな人たちを、この手で殺しました。異形になった二人を。――先輩、私は【狩り人】です。それ以外の生き方は、もうできません」
「僕のこともいつか殺してしまうかもしれないから、拒絶するのかい?」
「……はい」
それなりの勇気を要した言葉。
それを、律はあっさりと否定した。
「君にその生き方は無理だよ」
二の句が告げずにいる莉緒へと、律は慈悲深く微笑んだ。
「少し前まで幼馴染みとの確執をずっと引きずって、未だ僕のことも振り払いきれない。そんな君が、人との関わりを絶って生きていけるとは思えないね」
恋する相手への言葉とは思えない辛辣さだ。いっそ清々しいほどである。
「あと、そんな理由ならこれからも僕は君に求愛し続けるから。僕との関係は永遠に絶てないよ」
「そんな理由、ですか……」
「君に殺されるなら僕としては本望だからね。ただ、君が悲しむのなら、僕がそんな状況にはさせないさ」
「どうしてそんなこと断言できるんですか」
「愛ゆえに――なんて言葉じゃ納得してくれないか。実は僕、虚目が視えるんだ」
は。と、驚きとも疑問ともつかない息が漏れる。
虚目が視えるのは【狩り人】だけだ。その他の人間には、視ることはおろか触れることすらできない。
「それは……先輩には【狩り人】の適性もあるという事ですか?」
「いいや。異形化しかけてから、なぜか視えるようになっただけさ。君たちのように触れたりは出来ないよ」
「じゃあ、声を聞いたりは……?」
「声? いや、聞けないよ」
「そうですか」
律は美しい夜景の一点を指差した。
「ああ、ほら。あそこに浮いているの、虚目だろう?」
「……本当に視えるんですね。……その、あんまり他の人には言っちゃいけませんよ。あの強引な研究者の人とかには特に」
「心配しなくても、これは君しか知らないよ。奏にすら言っていない」
それは言わなすぎでは、という思いは胸に秘めた。その慎重さが律を助けてきたのだろう。
「どうして今、私に言おうと思ったんですか?」
「君を手に入れる為ならばどんな秘密だって明かすとも」
「私の方が秘密だらけでもですか」
観覧車の狭い箱の中、いつもより遠く感じられる距離感で莉緒はぼそりと呟いた。
「……その秘密が、到底受け入れがたい事でもですか」
両親の事だけではない。莉緒にはもう一つ――口にするのも恐ろしい秘密がある。誰かに明かすことなどとても考えられない、莉緒だけの胸に秘められた真実。
「それでもと言いたいところだけれど、僕は君のことは何でも知りたいからなあ」
虚目を彷彿させる空虚な瞳をした莉緒の手を、律は恭しく掬い上げて口付ける。
そして、極上の笑みを浮かべた。
「――いつか君の全てを暴くよ。そしてそれでもこの愛が消えないことを、証明してみせよう」