牛の首
その話は、あまりにも恐ろしい。聞いたものは身震いが止まらず、数日で死に至るとか。
「牛の首、ですか」
先輩は、黒く長い髪をさらりと流して妖艶な笑みを浮かべた。
「えぇ。オカ研の会長さんなら、知っているかしらと思って」
「知っている、と言っていいのかどうか」
まっすぐに僕を見つめる先輩の視線がひどくむずがゆく、考えるように目を泳がせて言葉を濁した。
「古典の都市伝説、ですよね」
「えぇ」
「タイトルだけが独り歩きして、誰も内容を知らない、という」
「そういうことになっているわね」
何かを含むような言い回しをして、彼女はにぃっと目を眇める。
「ねぇ、牛の首って、首から上が牛なのかしら? それとも下が牛なのかしら」
「え?」
細く白い指を紅い唇に沿わせて、先輩は長い脚を組んだ。
「それとも、純粋な牛の、首……部位でいうところのネックかしら?」
「そのあたりも併せて、まるで謎ですね」
「あ、それとも時刻かしら。牛というより、丑ね。夜中の1時から3時」
「そう考えると、いろいろありますね」
「そう、考えれば考えるほど恐怖は深まり広がるものよね」
先輩の目に昏い愉悦が煌めく。
「あなたのために、『牛の首』を用意したわ。隠してあるから、見つけて驚くか、……降参したら教えてあげるわね」
「用意、ってそれはどういう、」
「考えなさい。そして怖がってくれると楽しいわ」
私がね、と先輩は笑みを含んだ言葉を残して帰って行った。
先輩と僕は学部が違う。そしてサークルも違う。
だからそうそう会うことはないのだが、それからというもの偶然遭遇することすらもなくなった。
牛の首。
隠す、とはどういうことか。先輩が言っていた通り、牛肉なのだとしたら早く見つけてあげないと大変なことになる。取り急ぎサークルの部屋と一人暮らしの自分の部屋の冷蔵庫を探したが、それらしき肉は入っていなかった。ほっとした。
つかみどころのない先輩。彼女のいたずらにはいつも手を焼いている。
降参したら教えてあげる、と言われたが、簡単に降参するのは悔しい。それに、連絡先を知っているわけでもなく、降参するにも偶然会わなければどうしようもない。
どこかに隠れている、牛の首。
一人になったとき、ふと我に返ったとき、『牛の首』という言葉が頭をよぎる。
白と黒のものを見ると、はっとするようになった。心臓が跳ねる。それから、茶色の塊を見ても、どきりとする。
隠した、と先輩は言った。だから、ロッカーを開くときも、扉を開くときも一瞬ためらうようになった。
だって、先輩は農学部なのだ。
バイオテクノロジー科であり、畜産科ではないけれど。もしかしたら、本当に本物の牛の首を用意していたら?
それを隠していたら?
さすがにないだろう。
でも、相手はあの先輩だぞ。
そんなに簡単に手に入るか?
手に入ったからあんな話を持ち出してきたのではないのか。
大学構内を歩くとき、先輩の姿を探すようになった。
けれど、歩くたび、行きかう学生の服や小物や鞄の色形そのすべてにいちいち心臓が跳ねる。
ドアや箱や穴や暗闇から気配を感じるようになる。じっとこちらを見ている黒目ばかりの牛の眼。
荒い鼻息すら聞こえてくる。
艶のある微かな含み笑いが混じる。
先輩、どこですか。
部屋から出られない。
開けたところに何かいる、いないかもしれない、いるかもしれないなら開けられない。
気配がする、体温を感じる、耳元で、あの中から、上から下から外から、……胎内から?
先輩、先輩。どうしよう。――助けて。
「あれ、また今日も会長来てないの?」
オカ研の部室に入ってきた一年生が、不思議そうに首を傾げる。
「あれだけ毎日入り浸ってた人が、どうしたんかな」
「どうしたのかしらね」
「あ、先輩! 先輩、会長と仲良かったですよね? 連絡先とか、」
「知らないわ」
先輩はつまらなそうにつんと唇を尖らせた。
「せっかく、ちょっとしたおまじないをかけてみたのに」
「おまじない?」
「えぇ、ちょっとね」
オカ研会長の気を引くようなワードを一つ。不安になるような要素も一つ。
ずっととは言わないけれど、心のどこかに留めて気にしてくれれば、って。
降参です、って言ってきてくれたら、『ずっと頭の中から離れなかったでしょ? 隠したのよ、あなたの意識の中に』とかなんとか言って、彼が呆れたような顔をしたら、それから、……。
「私に会いたくなってくれると思ったのにな」
「意外と乙女っすね!」
「早く来ないかしら」
「ほーんと、どこいっちゃったんすかね……」