第8話 真実と幻想
立川教授の突然の訃報。。。
せっかく井上さんが罪を認めたのに、どうなっちゃう??
第8章 真実と幻想
母さんは淡々と読み始めた。
~ミク、お前を独り残して逝ってしまうおろかな父を許して欲しい。今まで、一生懸命私の身の回りのことをやりながら、明るい笑顔を振り撒いて私の傍で暮らしていてくれて、本当にありがとう。だが、私にはもう耐えられなかったのだ。お前は母さんに似すぎているんだ。ここに今までの経緯を、私の知る範囲で記しておこう。すなおで健気なお前が、どうしてこんな不幸な目に会う事になったのか、それで納得してもらえるはずだ。
私は、幼い頃から金に不自由するという事を知らずに育ってきた人間だった。だからその大切さも大してわかってはいなかったのだろう。両親は金に困った知り合いがいると、それとばかりに金をばら撒き、最後には非情なやり方で取りたてるようなそんな暮らしを続けていた。それを見て育った兄は親を反面教師にしてまともに育ち、私は人を信じない気難しい性格に育った。
そんな私に縁談話が舞い込んだ時も、私はそれを素直に受け止めたのではなく、どうせ借金のカタに連れてきたのだろうぐらいに思っていた。だから、ぬいぐるみや人形のような感覚で受け入れていたんだ。しかし真理絵は私が想像していたような人間とは、まったく別の種類の人物だった。どんなにひねくれたことを言っても素直に受けとめ、ただひたむきに私に尽くそうとしてくれた。そんな真理絵のひたむきさが、頑なだった私の性格をすこしずつ穏やかなモノへと変えてくれたのだ。
そうこうしている内にミクが生まれ、ただ偏屈なだけではなくて人の話をきちんと聞けるようになった私は、世の中のニーズにこたえられる研究をする事が出来るようになってきたんだ。家庭内も仕事もとても順調で、幸せな日々だった。
しかし、それは十年と続かなかった。真理絵に男の影がちらついてきたのだ。しばらく研究室に閉じこもって、随分寂しい思いをさせたと慌てて帰ってみても、別段寂しがってもすねてもいない。疑問が疑惑へと変わって行く。そこから昔の悪い癖が出るまでそう時間は掛からなかった。盗聴マイクを仕掛けたり、出張を装ってこっそり戻ってみたりしたのだ。思い詰めるとどんどん勝手な想像が一人歩きして、時々自分を見失ってしまったりもした。そしてついに、相手が井上君だと突きとめたんだ。
恨めしかった。腹立たしかった。自分が研究に打ち込んでいる間に、ぬけぬけと自分の妻をかどわかした井上君が許せなかった。そして、殺意を抱いてしまったんだ。
私は、井上君がいつも夜遅くに窓ガラスに小石を当てて合図を送っていることを偶然トイレに立った時知ったのだ。そして、大体何曜日に会うか、何時ごろなのか。綿密に調べ上げ、計画を立てた。井上君は、庭の奥にあるコニファーの木々に隠れながら窓に小石を投げていた。だから、彼がそこにいる間に、氷の塊が落ちてくるように分量を計算して、罠を仕掛けておいたんだ。たとえうまくいかなくても、井上君を脅すぐらいの効果はあるはずだった。
予定通り、その日の夜も井上君は窓ガラスに小石を当ててきた。だが、私はその日に限って自分の部屋に入らずに、台所やリビングをうろうろして、真理絵に外へ出るチャンスを与えなかった。そして、ついには夜明けを迎えるまでになったのだ。
ところが、その夜は思いのほか冷え込んで、本当なら夕方からの気温で徐々に氷が溶けて、括ってあったロープをすり抜けて井上君の頭に激突する予定だった氷が、ちっとも解けてくれなかった。そのまま朝になって、計画の失敗に気付いた私は、がっくりとうなだれて研究所に行ってしまったのだ。罠を外す事などすっかり忘れていた。
不幸なことに翌日はいつも通りの暖かさで、氷は午前中の光りを浴びて急速に解け始めていった。真理絵は恐らく庭に私のペンが落ちていたのを見つけて拾ってくれたのだろう。氷はそんな彼女の頭に落下し、砕けて溶けてなくなったらしい。真理絵は倒れた時右手にしっかりと私のペンを握り締めていた。その日の朝、私がペンをなくしたと話していた奴だった。それは、今から思えば私がわなを仕掛けているときに落としたのに違いなかったのだ。つまり、私が真理絵を罠に落しいれたも同然なのだ。
私は当惑した。混乱と罪悪感に押しつぶされそうになった。しかしどんなに自分を憎んでも真理絵は帰っては来ないのだ。周りの連中は私の様子がおかしいなどと煙たがり、私の大切にしていた真理絵の写真までとりあげて、真理絵のことをなんとか早く忘れさせようと実家に送り届けてしまったりした。私は、ただ真理絵が恋しくて命日の度に縁のある人を招待しては話を聞いた。だけど、それでものうのうと仕事を続けている井上君が腹立たしくて仕方がなかった。三年近くも悩んだ末、真理絵との事をご両親に話し、借金をすぐに返して井上君には会社を退職してもらいたいと迫ったのだ。ところがその日の夜遅く、井上君のご両親の訃報が届いた。
あれから一年。井上君は、堰きを切ったようにあれこれと仕掛けてきた。だけど、私にはそれを責める資格はなかった。自分を責めて責めて、もう何がどうなっているのか分からなくなってしまった時期もあった。そして、最近のミクが急に大人びた表情を見せるようになって、それがとても真理絵に似ていて…。喜ぶべきなのに、なぜか私には真理絵が復讐しにきたように見えて仕方がなかったのだ。
怖くて、怖くて、眠れない日々が続いた。そんな時に、窓ガラスが昔のようにパチっと音を立てたんだ。昔、井上君が真理絵を呼び出したように。私はその音を聞いただけで自分を失い、何もかもわからなくなってしまうのだ。気がつくといつもそばにはミクが心配そうな顔で身体をさすっていてくれる。そのミクの表情が優しければ優しいほど、私は罪悪感に苛まれてしまうのだよ。
自分の罪も償わずに、逃げるように逝く私を許してほしい。
最後に、研究所の土地と建物および運営そのものを、坂本君と井上君に託す事にした。もう、ある程度の手続きは終わっている。後は、二人がはんこを押すだけになっている。そして、ミクには、今の家と土地、それから、後のことは兄に任せてあるので相談するといい。
健二君
私は、君がうらやましいよ。私に君ほどの行動力があったなら、真理絵や井上君をこんな風に悲しませる事はなかっただろう。ミクを、頼む。 ~
沈痛な空気で満たされた台所に、ミクのすすり泣く声だけがひびいていた。井上さんは静かに立ちあがり、警察を呼んでほしいと母さんに声を掛けた。
母さんが電話を掛けると、井上さんはホッとしたように床に座り込み、ぼんやりと窓の外を見上げていた。だけどその眼差しは、どこか穏やかでやっと平穏を取り戻したという風情だった。
「井上さん。ひとつ聞いてもいいですか?」
俺は自分の中でいまだにくすぶっていた疑問を持ち出してみることにした。
「なんだい?」
「井上さんは、どうして研究所のお金を横領するような真似をしたんですか?」
井上さんは、ちょっと首を傾げて寂しげな顔を見せたが、すぐに穏やかな表情に戻って答えてくれた。
「夢を見ていたんだ。自分の働いたお金は、年老いた両親の為に必要だったんだが、それでも、自分自身の夢を叶えたかった」
「井上さんの夢って、何だったんですか?」
じっと聞いていた佐伯が口を開いた。井上さんは自嘲するように笑って言った。
「誰もが抱く夢と変わらないさ。大好きな人と一緒に暮らしたかった。どんなちっぽけな部屋でもいい、大好きな人と泣いたり笑ったりしながら、生きていたかったんだよ。確かに研究所のお金を横領したのは犯罪だ。だけど、私がその中で使ったのは、たった一度。彼女の誕生日にプレゼントした真珠の指輪の代金の分だけだ。あれを受け取ってくれた時の彼女の涙を私は信じていた。だけど、私の恋はただの幻想に過ぎなかったようだ。彼女は、夫が一生懸命に築き上げた研究所のお金を横取するような真似はしないでくださいって、必死で頭を下げてきたんだよ。私はとんだ道化師だった」
庭に車が入ってくる音がした。警察が来たようだった。井上さんは、ふうっと力なくため息をつくと、静かに立ちあがり台所を後にした。
母さんが、何かを思い出したように慌ててその後を追った。
「井上さん。あなたの恋は幻想ではなかったわ。彼女は、ずっとあなたを想っていたのよ。彼女はいつもペンダントをしていたわ。真珠の指輪をチェーンに通した、そんなペンダントだった」
母さんの後を追って庭に出た時には、井上さんは刑事さんに促されてパトカーに乗り込もうとしている所だった。母さんは玄関を出た所で止まってしまってそれ以上進むのをためらっていたが、さっきの言葉は届いたのだろう。井上さんは急にうつむいてじっと身動きひとつしなくなり、ふたたび顔を上げた時には涙でぐしょぐしょの顔になっていた。
「ありがとうございました」
そんな言葉を残して、井上さんはパトカーのなかに消えて行った。刑事さんが軽く会釈してパトカーに乗り込むと、あっけないくらいあっさりとパトカーは去って行った。
母さんは由紀にしがみついて泣いているミクに向き直ると、そっと肩に手を掛け促した。
「病院まで送るわ。お父さんに顔を見せてあげて」
ミクは健気に頷いて、必死で涙をぬぐっていた。
「坂本さんに知らせて来るか」
俺はとりあえず、何も知らずに仕事を続けている坂本さんの元へ向かった。
「あれ? めずらしいねえ。今日はバイトじゃないだろ?」
坂本さんは何も知らずにお茶を入れながら明るく声を掛けてきた。
「坂本さん。教授が、亡くなりました。さっき病院に詰めていた母さんがミクに知らせにきたんです」
「うそだろ…。どうして教授が? 確かに体調が芳しくないとは聞いていたが、命に関わることではなかったじゃないか?」
坂本さんは、急須をテーブルに置いて俺に向き直った。
「自殺でした」
「そ、そんな! どうしよう。井上さんは私用で出て行ったまま、まだ帰ってこないし…」
坂本さんはうろたえ頭を抱えてしまった。
「井上さんは、ここには戻りません……」
「葵、その続きは俺に任せておまえは早く病院に行ってやれ」
気がつくと佐伯と由紀がやってきていた。坂本さんは突然やってきた高校生カップルに戸惑った様子だったが、説明している暇はなかった。
「すみません。コイツは俺の親友で一応今回の事情もわかってますから、聞いてください。取引先への連絡もあるでしょうし、なにかわかったら連絡します」
俺は、坂本さんの返事を聞く間もなく、研究所を飛び出した。後のことはこの二人に任せておいても大丈夫だろう。ミクの自宅の門を入ると、母さんが車のエンジンを掛けている所だった。俺が乗り込むのを待って、車はすぐに動き出した。病院までの見慣れた風景が、今日はなんだか違うモノに見えた。
病院に着くと、受付に何やら手続きをしていた伯父さんが、ミクを見つけてかけよってきた。
「ミク……辛い事になったね。今、手続きが終わった所なんだ。すぐにお父さんに会わせてあげるよ。こっちなんだ」
伯父さんは俺達を引き連れて、病院の奥へと歩き出した。夜間診療が始まってにぎやかになってきたロビーと違って、長く続く廊下は暗く寂しかった。何度か階段を降りて行くと、やっとひとつのドアの前で伯父さんが立ち止まり、ドアを開けた。
戸惑うミクをそっと後押しするように母さんが肩を抱いて一緒に入った。その後を俺が続いた。ひんやりとしたその部屋は、とても簡素だった。白い布を伯父さんがそっとはずした。あの厳格で、知性と品行を兼ね備えた表情は見られない。そこには、あまりにも疲れ果てた一人の老人が眠っているだけだった。
「お父さん……。お父さーん!」
ミクはやっと現実を理解したように、教授にしがみつきひたすら揺り起こそうとしていた。そしてただその身体に突っ伏して泣き続けた。俺はどんな言葉もかけて遣れず、ただ傍で立ち尽くしているしかなかった。
どのくらいそうしていただろう。ミクがすこし落ちついた頃、母さんがミクの肩を抱いて遺体の傍のイスに座らせると、静かな声で教授に話しかけた。
「立川さん。向こうで真理絵に会っても、責めないであげてくださいね。彼女は貴方を裏切ろうと思っていたんじゃないわ。ただ、寂しかったのよ。それだけなのよ。それから、ミクちゃんの事は心配しないでください。私達がいつも傍にいますから」
後から、伯父さんが声をかけた。
「明後日夜七時からが告別式です。その翌日、葬儀は朝の十一時からになるそうです。そちらの段取りは、私の方でやっておきますので、申し訳ありませんがミクをもうしばらく預かってもらえませんか」
「わかりました。しばらくはミクちゃんも先のことを考える事はできないでしょう。落ちついた頃にミクちゃんを交えて話し合うべきかと思いますが」
母さんは、教授が亡くなった時点でそこまで考えていたようだった。あの言い方じゃ、とっくに父さんとも連絡ができているらしい。伯父さんは軽くお辞儀をすると、部屋を出て行った。
「じゃあ俺、坂本さんに連絡してくるよ」
俺は一人霊安室を出て、一階のロビーまで歩いた。
ロビーは相変らずにぎやかで、今までいた場所が同じ敷地にあるとは到底思えないほどだ。公衆電話を見つけて坂本さんに連絡を入れた。
「坂本さん。告別式は明後日、夜七時、葬儀はその翌日の朝十一時からだそうです。連絡、よろしくお願いします」
「わかった。葵君、佐伯君達から聞いたよ。教授の奥さんの事、井上さんの事、そして、君とミクちゃんの事も」
「えっ……?」
俺は思わず聞き返した。
「何日か前に、一度だけ、井上さんが窓ガラスに小石を投げている所を見てしまったんだ。だから、井上さんは僕のライバルなんだと思ってた。だけど、まさか君とミクちゃんが結婚まで決めていたとはね。うかつだったよ。あっ、こんな時に不謹慎だったね。申し訳ない。だけど、どうか彼女を幸せにしてやって欲しい。まだまだ君たちは結婚するまでに時間が必要だ。それまでに彼女を傷つけたりしたら、すぐさま僕が彼女をさらって行くからね。覚悟してくれ」
坂本さんの口調はアクまでも明るかった。俺は、ちょっとだけ坂本さんを見直した気分だった。
「それから、葬儀が終わったらしばらくは学校の帰りに毎日来てもらう事になるよ。井上さんまで抜けてしまったら、ホントに人出不足になっちまう。彼女を取られた分、こきつかってやるからな!」
「はい!」
俺は、なんだか知らないうちに涙を流していた。坂本さんは終始優しかった。こんな俺と一緒に頑張ろうとしているんだ。あんなに辛い立場なのに。
受話器を置いて涙を拭うと、俺はもう一度霊安室に向かった。途中、缶コーヒーを四本買って霊安室まで急いだ。階段を降りて重い扉を開けると、ミクと母さんがまるでホントの親子のように寄り添って教授の傍に座っていた。
「結構冷えるな、ここは。ほら、いつもミクには入れてもらってるからな。たまには俺が用意してやるよ」
俺は買ってきた缶コーヒーをミクと母さんに手渡すと、教授の枕元にも一本置いてやった。
「ありがとう。あったまるよ」
ミクはかじかんだ手でしっかりと缶を握り締めて、乾き始めた瞳にまた涙をにじませた。
ミクが落ちついているのを見計らって、母さんは夕食の準備をしてくると一旦家に戻っていった。残されたミクと俺は、なんとなくぼんやりと教授の顔を見つめていた。もう、こんな風に三人で居ることはできなくなるのか。ミクと教授と三人で、昼食を摂ったのがついこの間だったなんて、信じられない気がした。
「もう二度と、こんな風に教授と向き合える機会はないから……。俺、今の内に言っておくよ。教授に頼まれていた通り、俺はミクを守っていくから。教授のミクに対する愛情に比べたら、俺なんてまだまだだと思うけど、それでも、負けないくらい大切にして行くから。教授、ずっと俺達のこと、見守っていてください」
ミクは涙でくちゃくちゃの顔を俺の胸に摺り寄せてきた。
「やっぱ、男の俺からきちんとしなきゃな。佐伯には先をこされたけどな」
俺が照れくさくて言い訳していると、ミクが泣きながら笑っていた。
「小学四年生のあの日記の時からずっと思い続けてきたのに、いざ告白となるとどうしても言い出せなくて…。 もうあきらめかけていたの。 でも葵君に日記を見せてもらって、葵君も同じ気持ちでいてくれたってわかったから、もうちょっとあきらめずにいようって思えたの」
「えっ? 俺の日記?」
俺は遠い記憶を必死で紐解いていた。そのとき不意に母さんのにやけた顔と、ミクのお母さんをわざとミクに見立てて日記に書いたことを思い出した。耳たぶが熱くなる。しまった! だけど、いまさらどうすることもできないことだ。俺は極力平生を装って答えた。
「ああ、あれか。ミクがあんまり自分の日記を気にしていたからあれでおあいこになると思ったんだ。ミクは何かあるたびに眼鏡を拭いていたよね。それをみるたびに、俺、心臓がバクバクしてたんだ。だけど、恋愛ゲームのように「告白する」なんてボタンないんだもんな。焦っちゃったよ。教授が事故に遭って再入院した日。俺、教授に言われたんだ。自分はこんな身体だから、ミクを守ってやって欲しいって。様子がおかしいとか心配していたけど、今から考えてもあの時の教授は尊敬できる今までの教授そのものだった。だから俺、しっかりと頷いたんだ」
ミクは返事も出来ずに、何度も頷いてはハンカチで涙を拭っていた。眼鏡はひざの上に乗せたままになっていた。
遺書の中の独白で、大人たちの過去のやりとりは分かったけれど、火曜サスペンスじゃないんだもんね。
ミクちゃんをしっかりフォローしてあげてよ、葵君!