第7話 過去
さあ、いよいよ葵君のお母さんが、いろいろ語り始めます。
一体なにがどうしてこうなったのか。。
第7章 過去
ミクの母、真理絵さんは、地元ではそこそこ名前の通った裕福な家の末っ子だった。うちの母さんとは実家が近いことも手伝って、学生時代からの友達だった。普通のサラリーマン家庭に育った母さんにとって、真理絵さんは世間知らずなお嬢様に見えたようだ。それでも、母さんを慕って何かというと相談を持ちかけてくる真理絵さんを、母さんも放ってはおけない性質だった。
ある日、真理絵さんの父親が経営する会社が倒産寸前という事態になってしまったらしい。あちらこちら金策に回るうち、辿りついたのが立川家つまり教授の家だった。真理絵さんの父親の遠縁に当たる立川家はとても裕福で、真理絵さんの父親の会社の負債を肩代わりするくらい簡単な事だった。
しかし、立川家にも悩みはあったのだ。それは、立川家の次男の気難しい性格の事だった。どんな小さな事でも突き詰めて考え、とことん納得が出来るまでこだわってしまう。そんな次男に回りの大人達は手を焼いていたそうだ。
そんな時に真理絵さんの父が金の工面に訪れたのだ。おまけにその家にはうまいぐあいに箱入り娘が一人いると聞いて、立川家は金の工面をする変わり縁談に乗ってくれと言い出したらしい。
元々人見知りが激しいお嬢様だった真理絵さんに恋人のいるはずもなく、縁談はあっという間に成立してしまった。
「本当にそれで後悔しないの?って、私、随分彼女にくってかかったわ。その頃私も父さんと付き合いはじめてたから、恋も知らずに結婚させられる彼女が可哀想に思えてしかたがなかったのね」
母さんは、その頃を思い出しているのか懐かしげな優しい目をしていた。
回りの心配とは裏腹に、立川家の次男は真理絵さんをとても大切にしたのだった。真理絵さんにしても、恋愛の経験がない分素直に夫を受け入れていたので、時間はとても穏やかに過ぎていったようだ。真理絵さんが結婚したのを見届けると、母さんも続いて結婚、すぐに兄貴が生まれ、しばらくは真理絵さんとの音信も不通となっていた。
ところが、十年前の同窓会で、二人は再び顔を合わす事になった。聞けば偶然にも同じ学年の子供がいるという。そこで、真理絵さんと母さんは再び昔のように連絡を取り合い、何かにつけて顔を合わせたり、遊びに行ったりするようになっていったということだった。
「ここからは、ちょっとミクちゃんには辛い話になるわ」
母さんはちょっと躊躇いがちに言った。
真理絵さんから突然飛び出しの電話が掛かったのは、俺達が小学三年生になった夏だった。
「子供達をどちらかに預けて、一人で来てほしいの」
真理絵さんの口調からただ事でないことを察した母さんは、すぐさま約束の喫茶店に出かけたそうだ。俺達兄弟は途中にある母さんの実家に預けて行ったらしい。
目眩がしそうなほどの日差しが容赦なく照りつける、夏らしい午後だった。カランっとベルの音が心地よく響いて店内に入ると、コーヒーの深い香りが鼻をくすぐった。
「美砂子、ここよ」
声を掛けた真理絵さんは、若々しい笑顔で手を振っていた。それは母さんに違和感を覚えさせるほどの変化だった。真理絵さんが変わった。そんな印象を母さんは感じていたらしい。
「ごめーん。子供達を預けるのに手間取っちゃって。何かあったの?」
真理絵さんは、明るい母さんの問い掛けに困ったような顔になってしまったと言う。
「何か、あったのね。話してよ」
取り急ぎウエイトレスにコーヒーを注文すると、母さんはまっすぐに真理絵さんを見つめた。
「実は私、半年前から付き合ってる人がいるの。彼は主人の経営している研究所に勤めている人なのよ。ここ2,3年主人は研究に没頭してしまって、家族のことなんて見向きもしなくなってしまったわ。そんな時、いつも私を気遣って優しく声をかけてくれたのがアノ人だった」
真理絵さんがその人物について話す時、うれしそうな表情になるのを母さんは見逃さなかった。(そうか、それでこんなに華やいだ表情なのね。)母さんは見なれない真珠のリングを首に下げている真理絵さんを、当惑したように見つめた。
「でも、ミクちゃんもいるのにどうして…」
「…分からない。でも、決して主人を裏切ってやろうとか、娘をどうしようとか、そんなことは考えていないの。ただ、かまって欲しかっただけなのかもしれない。それが…」
おっとりとお嬢様そだちのまま主婦になった真理絵さんは、道ならぬ恋におちてもやはりおっとりと幸せに浸っているようだった。だが、最後の言葉が気にかかる。母さんは探るような目で肩を落としている真理絵さんを見つめた。
「とんでもない事に気が付いたの。彼は研究所のお金を横領しているようだったの。それも、顧客との商談の際に少しずつ水増ししたり、自分の手元で二重帳簿をつけていたりして…。私、やめてくれる様に彼に頼んだわ。そしたら、彼はとても動転して、主人に自分との関係をバラすって脅してきたの。私、どうしていいかわからなくて……」
「それで私に相談に来たって訳ね」
ため息混じりに言う母さんに、真理絵さんは首を横に振った。
「いいえ、やっぱり横領はいけないことだと思ったから…。私、彼にはっきり言ったの。主人に話したければ話せばいいって、そんなことしても貴方が警察につかまるだけで、自分を正当化する事はできないって。そしたら、彼、泣き出しちゃって…。僕は貴方の何だったんだって。ガックリ肩を落として帰ってしまったの。それが今朝の話。ねえ。私ってそんなに彼を傷つけたのかしら。私、彼にはそんな風に悪いことをしてほしくなかっただけなのに」
真理絵さんはそれほど悪気もないまま困ったような顔をしているだけだった。母さんはあきれ果て、しばらく頭に手を置いたまま考え込んでしまった。目の前の真理絵さんは、華奢なフレームの眼鏡を外して、レースをふんだんに使ったハンカチで磨いている。それをぼんやり見つめながら、母さんは子供の頃からずっと世間ずれした真理絵さんの感覚を一つ一つ思い出していた。しかし、ここまでくると返す言葉もなかったのだ。そして、その様子を大人しく座ったまま小首を傾げて見つめている真理絵さんは、少女のような無邪気な雰囲気をあたりに撒き散らせていた。
「ねえ、もしも今の生活やミクちゃんを失いたくないのなら、やっぱりその彼とは別れるべきだと思うわ。そして、説得してみるべきよ。今までの分はともかく、とりあえず二度と研究所のお金に手を出さないでってね」
しばらく考え込んでいた母さんが言った。
「そうねえ。一度話してみるわ」
軽く答える真理絵さんを見て、どっと脱力感に襲われる母さんだった。
「教授はお元気? 今度の事に気付いていないの?」
「ええ、とても元気よ。今は新しい研究に取り組んでるとかで、夢中になっているの。彼のことには気付いていないみたい。でも、そんな一途な所が素敵なんだけど」
真理絵さんの胸元で、ちいさな真珠が小刻みに揺れていた。母さんはそんな真理絵さんを複雑な想いで見つめていた。
二人が店を出る頃には日は少し傾いて、気持ちのいい風が通り過ぎていった。銀の外車を運転する真理絵さんを見送ると、母さんは再び実家に立ち寄って俺達と共に自宅に帰ったのだそうだ。
「それから二度ばかり貴方達を連れて遊園地に行ったけど、その度にその人が現れて、貴方達を観覧車に乗せておいて、わずかな時間に話し合いが行われたわ。ミクちゃんは観覧車が好きで助かったけど、健二は一度だけ酷く気分を悪くして、後が大変だったっけ。あの時が、最後だったと思うわ、彼女とその人が会って話し合いをもったのは」
母さんは感慨深げに話した。覚えているさ、俺だって。ミクのお袋さんは可愛い人だったから、俺もちょっとは心ときめかせていたんだ。それなのに観覧車の中から、若い男と言い争っている所を見てしまったんだ。随分とショックを受けたもんさ。
「結局、それ以降お互いを干渉しないということで、その人が退職させられたという話は聞かなかったし、真理絵も離婚する事無く、そのまま暮らしていたんだけど……」
「でも、それじゃ、その男の人はそんな中途半端なままで気持ちの整理がついたのかな」
俺にはどうしても理解できなかった。そんなに簡単に何事もなかったように元に戻れるものなのだろうか。もしかしたら… それは佐伯にもらったあのメールの影響で思いついた事に過ぎないのかもしれないが、確かめずにはいられなかった。
「そうよね。それで今日、田舎に帰っていたのよ。教授が余りに取り乱していたから、真理絵の私物の殆どは彼女の実家に送られていたわ。彼女のその後について分かる事がないか、調べに行ってきたの。だけど、残念ながら期待してたような日記は見つからなかった。真理絵のお母さんがまだ健在だったので話を聞いてもみたんだけど、真理絵は子供の頃から両親の躾が厳しくて、本当の気持ちを素直に出さない子だったらしいから、たとえ日記を書いていたとしてもそれが本心なのかどうかはわからないっておっしゃってたわ。それでもいろいろ見せていただいたんだけど、唯一彼女が大事にしまっていたフォトフレームには教授とミクちゃんと彼女の三人が微笑んでいる写真があっただけ。ひょっとしたら、本当に彼女にとっては寂しい時の話し相手に過ぎなかったのかもしれないって、思えるのよね」
「その割には彼の方は熱を上げてしまっていた。彼女にどんなに気持ちを伝えても、ちっとも手応えのある答えが帰ってこない。ってことか」
母さんの言葉に続いて、俺が補足してみた。母さんはそれを否定も肯定もしなかった。ただ、やるせない深いため息をひとつついただけだった。
「母さん、その男の人の名前、井上さんって言うんでしょ」
しばらくの沈黙の後、俺はつぶやくように言った。母さんもミクも目を見開いてこっちを見ている。やっぱりそうだったのか。
「病院で、立川教授に頼まれたわ。真理絵がどんな事を考えて最後の数年を過ごしていたのか、調べて欲しいって。自分は研究に没頭していたので気付かなかったが、真理絵には何か自分の知らないところに楽しみを隠し持っているような雰囲気があったって。だから、それが何だったのか知りたいんですって」
「でも、井上さんはよく逃げ出したりせずに勤め続けたもんだなぁ」
井上さんがミクのお袋さんの浮気相手だったとして、それだけもめれば普通は退社してしまうものじゃないのだろうか。
「お金、ですよね。私がまだ幼い頃、井上さんのご両親が何度か家に訪ねて来られてお父さんともずいぶんお話されていたのを思い出したわ。こちらが悲しくなるほど何度も何度も頭を下げて。その横で井上さんが下を向いたまま動かなかったのを凄く印象的な事として日記にも書いてあった。
お父さんって、一つの事突き詰めて考え過ぎる所があったから、もしかしたらお母さんの事にうすうす気付いていていたのかもしれない。だけど、井上さんはご両親の借金のことがあるから、反発したり退職したりできない。お父さんから攻められるとか退職を言い渡されるとかしない限り、自分からは逃げられない状態にいたのかも。そして、お母さんが居なくなってご両親も去年他界されたから、井上さんの気持ちが暴走を始めたのかもしれないわ。私、明日父の部屋を調べてみます。なにか手がかりがあるかもしれない」
ミクの思い詰めた瞳が俺の胸を刺した。
「さあ、もう今日は休みましょう」
母さんが雰囲気を一掃するように立ちあがった。
「あ、そういえば、葵君の日記、見せてもらえるかしら。そこにも何か書いてあるかも」
そうだった、見せる約束になっていたんだ。何を書いたかなんてまったく覚えてはいなかったが、ミクが思い出したようになにか見つけられるかもしれない。俺は大急ぎで押し入れをひっくり返して、小学四年の春休みの日記を見つけ出した。
「あら、なつかしいわねぇ。これ、ミクちゃんに見せる約束なの? へぇ~」
母さんの変な笑いが気になったが、ミクに日記を渡すが早いか今日はもう遅いからと母さんが俺を部屋に追いたてたのでミクがそれをどうしたかはわからなかった。いや、俺としては、もうしばらくミクの傍にいてやりたかったが、それも無理のようだった。
部屋に帰ると、いつもの癖でメールを確かめる。佐伯から随分長いメールが届いていた。佐伯は、その受信時間から考えて、俺より数時間早く、その事実に辿りついていたようだった。こんな事でもアイツには勝てないのか。まったく。
佐伯のメールには、例のゲームソフトの会社の人間の中に、井上さんと幼馴染だと言う人がいる事を付き止めたと書かれていた。案の定、井上さんの父親は、誰かの保証人になったことが元でお金に困り、突然家族全員が行方不明になっていたらしい。しかし、ここ1,2年の間に顔を出すようになり、急速に接近してきたということだった。そうか、これでサブリミナル効果を狙った犯行が可能になるのか。しかし、昔ミクのお袋さんとつきあってたって事と、サブリミナル効果を利用することが可能になった事はちょっとかけ離れているよな。
翌日、朝から四人で食卓を囲んだ。心配していたわりに、ミクは元気に振る舞っていた。父さんは、ミクがいるだけで家が明るくなるとべた褒めだった。
「どうだ、このままうちの息子の嫁に来るか?」
調子に乗ってとんでもない事を言い出した。俺はもうちょっとでみそ汁を吹き出す所だった。ミクは真っ赤になって眼鏡を拭いている。こいつ、なんだか焦ると眼鏡を拭く癖があるみたいだ。気がつくと母さんまでこっちを見てにやけている。
「どういう親だ、まったく」
俺がつぶやくと母さんが笑い出した。
「その言い方。父さんそっくり。いやぁね、親子って変なとこ似るのよね。さ、早くしないと遅刻するわよ」
俺とミクは慌ててカバンを取って玄関を出た。
靴を履きながら、ミクは小さな声で俺に言った。
「葵君、日記読ませてくれてありがとう。私、元気がでてきたわ」
バタバタしていてよく聞こえなかった。
「えっ?」
聞き返そうとする俺の後から母さんの声が追い掛けて来た。
「帰りに病院に寄ってね。私も早めに仕事を切り上げて、病院に行ってるわ」
学校に着くとすぐに佐伯たちに合流した。
「メール、見たか?」
「ああ、見たよ。ちょうど母さんからそれと同じ事を聞き出した所だったんだ。だけど、単純にサブリミナル効果に関することに井上さんが関係しているかもしれないって事だけじゃ、解決にはならないだろ。それから…」
言いよどんでいると、ミクが頷いて先を促した。
「ミクのお袋さんの昔の恋人が井上さんだったこともわかったんだ。詳しい事は昼休みにでも話そう」
佐伯が頷くのと始業のベルが鳴るのが同時だった。
授業の間中、俺は井上さんの事を考えていた。何か、不審に思っていた事があったはずなのに。なんだったんだろう。
昼休みに入ると、俺達四人は教室の片隅に顔を会わせた。昨日母さんから聞いた話をとりあえず、そのまま佐伯と由紀に聞かせた。由紀はショックをうけ、ミクに同情していた。佐伯は話の途中一度だけ、井上さんの両親の所在地と亡くなった年を確認しただけで、後は黙って聞き入っていた。だが、やはり一連の事件の事が気になるらしく、昨日俺達がニアミスした相手が誰なのか、突きとめたいと考え込んでしまった。
すっかり冬になってしまったと言うのに、暖かな日差しが教室内に差し込んでいた。ぼんやりとそんな教室内を眺めていると、ふと先日のバスの中を思い出した。あの頃、こんなことになるなんて思ってもいなかった。そうだ、あの自動車工場で見かけた車。どこかで見たような気がしていたんだ。俺はひとつの仮説に行き当たった。
「なあ。今日の帰り、ミクちゃんの家に行ってみてもいいかな」
佐伯は一度現場を確かめてみたいと言い出した。
「ついでに坂本さんに確かめたい事もあるしな。大人相手だし、ちょっと工夫をしないと行けないが」
佐伯は調べ物があるからと席を立った。その後を由紀が慌てて追いかけて行った。
放課後になって、俺達は揃って学校を出た。昼休みの日差しがうそのようにどんよりと重い雲が広がり、風が強くなっていた。佐伯が家に寄って着替えて来るというので、俺とミクは先に行くことにした。バスに乗ってしばらく行くと、信号で止まった。自動車工場の多い場所だ。そうだ!
「次で降りよう。ちょっと調べたい事があるんだ!」
慌てて準備するミクを連れて、俺はバスを降り立った。
さっき来た道をしばらく戻って行くと、小さな自動車工場があった。ここだ! すでにあの時の車はなくなっていた。修理が終わって持ち主に返されたんだろう。俺はあの時工場で作業していた初老の男の人を見つけて尋ねた。
「あの、この前ここで紺色の車を修理してもらった井上の使いのモノなんですが。車の中に入れておいた書類が見当たらないそうなんです。ご存知ないですか?」
横でミクが驚いたように俺を見ていたが、俺は気にせず続けた。
「ええ、そんなもの見なかったがなぁ。だいたいうちは車の修理はするけど、内装には手をつけないからなぁ。」
「参ったなぁ。それがないと僕、井上さんにしかられちゃうんだけどなぁ」
俺の言葉を聞いて、困った顔のその人はポケットをまさぐって言った。
「なあ、坊主。あの人は何にぶつかったんだ? 突然遣ってきて、すぐに修理してくれだなんて、ちょっとおかしいだろ。これはお前さんに渡しておこう。フロント角のところに引っかかってたボタンだよ。早い事お金を入れてくれって頼んでくれよ。変な事には関わりたくないんでね」
手渡されたのは、黒っぽいボタンだった。俺はすばやくそれをポケットに入れると、さも訳知り顔で言った。
「あれは、いつだったっけ。井上さんの車がここに持ってこられたの。それによって支払いの日が変わるらしいよ。なんなら、経理の人に頼んであげようか。経理の人は僕の親戚だから、すこしはなんとかしてもらえるかもよ」
「そうか。えーっと、あれは…」
初老のその人は急いで工場内のカレンダーを確かめた。十二月二日に井上と記されているのがこちらからでも確認できた。
「十二月二日だな。なあ、坊主。なんとか今月中に入金してもらってくれよ。うちもきびしいんでな。頼んだよ」
俺は分かったとにこやかに返事をして、さっさとバス停に戻った。ミクは訳がわからないといった面持ちで、俺の後に続いた。
バスが来て乗り込んでから、ミクが尋ねてきた。
「ねえ。どう言う事なの?」
「おととい、佐伯の家からの帰りにここを通っただろ。ミクは居眠りしていたから知らないだろうけど、あの工場に紺色のパール加工が施された車が修理に出ていたんだ。そして、昨日病院に向かう途中には井上さんが歩いているのを見かけた。だから、ちょっとカマをかけてみたんだ。結果はさっきの通りさ」
「じゃあ、ひょっとして井上さんがぶつかったのって…」
言いよどんでいるミクに、さっき受け取ったボタンを見せた。
「見覚えがあるかい?」
ミクはじっとボタンを見つめていたが、ゆっくりと顔を上げると当惑したように頷いた。
「これはお父さんのコートのボタンよ」
「十二月二日。教授が当て逃げされた日と一致する」
俺の言葉に、ミクは怖くなったのか口元に手を持っていったまま動けなくなってしまった。やっぱりそうだったのか。これで当て逃げの犯人は確定したようだ。俺の仮説が当たっていたということだ。だけど、どうしてそんな事になったんだろう。偶発的なものなのか、それともやっぱり……。
ミクの家の最寄りのバス停について、俺達は揃ってバスを降り立った。木枯らしが吹きつけてくる。思わず身体を固くした。
「早くお家に入りましょう」
ミクが寒さに浮ついたような声で言った。
急いで玄関まで来たら今度は家に入ることをちょっと躊躇している。そうか、昨日の侵入者の事があるしなぁ。俺は念の為建物の裏手に回って、おかしな所がないか調べてみたが、特に変わった様子はなかった。取り越し苦労か。俺が玄関に戻ろうと視線を下ろそうとした瞬間、2階のカーテンが微妙に揺れた。誰か居る! 俺は立ち位置をすこし家の方にずらして、二階から見えにくい場所に移った。
カタンっとかすかな音が聞えた。出てくる。俺は、息を殺して気配を消すように心がけていた。
「どうしたの? 何かあったの?」
間の悪いことに、由紀達が到着したのだった。
「いや、なんでもない。ちょっとイタチみたいのが走っていったように見えたから、様子を見てたんだ。ほら、あそこの下水の入り口の所だよ」
「ええ? こんなところにそんなのがいるのかしらぁ。アオケンったら、またゲームのやりすぎなんじゃないの?」
呑気な由紀のお陰で、こちらが二階の様子に気づいている事は悟られずに済んだようだ。しかしあれ以降出てくる気配はなくなった。それは逆に言うと 、犯人を追い詰めたことになるのかもしれない。
「お~い。何やってるんだよ。ミクちゃんが早く上がってくれって言ってるよ」
さすがの佐伯もこの事態には考えが及んでいないようだった。
「ああ、佐伯。あの……」
佐伯に事情を話そうと思った矢先、家の中で食器が割れる音がした。しまった! 家にはミクが入ってしまっていたんだ。嫌な予感がする。
「皆、早く家の中へ!」
俺は叫びながら玄関に飛び込んだ。
「ミク! 大丈夫か!」
俺はくつを脱ぐのももどかしく、台所へと駆け込んだ。佐伯と由紀も訳がわからないまま俺に続いた。
「なにかあったんだな」
佐伯の顔がひきしまっていた。こういうときコイツの勘の良さは頼りになる。飛び込んで行った俺とは対照的に、自分はそっと身を隠して事態を把握しようとしていた。
「やめてください!」
当惑した様子のミクの首筋に後ろからナイフをつきたてた井上さんが目に飛び込んできた。
「やっぱり貴方だったんですね、井上さん。間違いであって欲しいと思っていたのに」
それは俺の本心だった。俺に続いて入ってきた由紀が、小さく息を飲んでいた。
「何を嗅ぎまわってるんだ。お前達には関係ないことだろう」
井上さんは今まで見たこともないようなすさんだ目をしていた。もともとそんな事をするような人ではないのだろう。ナイフを持つ手は緊張で震えていた。それまで怯えたように震えていたミクがその言葉に顔色を変えたのが見えた。
「関係ないですって? 酷いわ…。たった一人のお父さんをあんな風に追い詰めておいて、関係ないってどういう事ですか!」
ミクは井上さんの腕を押し広げ、わざわざ井上さんに向き直るようにして胸倉をつかんで睨み付けた。
「アイツは…、アイツは私の両親を殺したんだぞ! お袋がなくなる前に、私に電話を掛けてきたよ。今日、立川教授がお見えになった。とんでもない事になってしまったんだねって、それだけ言って、もう、自分達の事で苦しむ事はないからって、そう言って、それだけ言い残して二人は自殺したんだ!」
井上さんは興奮して肩で息をしている。ナイフの切っ先が、ミクの鼻先で震えていた。
「そんな……。井上さんのご両親は事故で亡くなったって……」
ミクは呆然としていた。俺だって驚いたぜ。そんな事は聞いていなかったのだから。
「ふん。お気楽なもんだな。両親の遺体を発見したのは私だったんだ。遺書を隠して、ガスコンロにあった煮物をふきこぼれさせた。両親も発作的にやってしまったんだろう。夕食の準備までしていたのに、突然、絶望の淵に叩き落されたんだ。オヤジの遺書を見ればすぐに原因はわかったさ。教授に借金の返済を迫られたんだ。以前からその事で思い悩んでいた。オヤジもお袋も田舎育ちで生真面目な性格だったから。耐えられなかったんだよ! ちくしょう! 教授なんかから借金さえしていなければこんな事にはならなかったのに…」
最後はお腹のそこから吐き出すような声をしぼりだしていた。庭の方で、キラッと何かが反射した。どんよりとした雲のすきまから夕陽が差し込んで、敷地に入ってきた一台の車にはじかれたのだ。その一瞬の間に、ミクは井上さんの腕を完全に振り解いて、俺の方に駆け寄ってきた。
「貴方のご両親がどんな亡くなり方をなさったかは知りませんでしたが、だからと言ってミクをここまで追い込むことはないでしょう」
俺はミクを背後に隠すようにして詰め寄った。
「葵君、君は随分とミクちゃんにご執心のようだが、気をつけた方がいいよ。ミクちゃんのお母さんはそりゃあきれいな人だったが、男をもてあそぶのが趣味だったらしい。君だって、そのうちミクちゃんにいいように遊ばれて捨てられるのが落ちさ」
井上さんは、酷く顔を歪め、今までの鬱積した感情をじわじわと滲み出させていた。
「ちょっと待ってください。井上さん、でしたね。ひとつ確認したいんですが、いいですか」
今まで姿を隠していた佐伯がダイニングに入ってきた。
「誰だ! お前は?」
「僕の親友で、佐伯です」
焦りの色を濃くした井上さんに、俺は淡々と答えた。
「さっき自殺前に親御さんから電話があったとおっしゃいましたね。たしか、お母さんが大変な事になったねと、おっしゃったとか」
佐伯は静かに眼鏡を中指で押し上げると、射貫くように井上さんを見た。井上さんの表情は明らかに硬くなっていった。
「僕達が何も知らないで、今現在に起こっていることだけを調べているとでも思ってらっしゃるのですか」
佐伯の物言いは静かだが、しっかりと部屋中に響いていた。
「お前達に、お前達のような子供に、どれほどの事が分かると言うのだ。私にはきちんとした医者としての将来が約束されて居たんだ。勤める病院も決まっていた。それなのに、父親の借金の為に、就職先をこんな研究所に変えられて、医者としてではなくて別の研究に携わることを強要されたんだ。年老いた両親に借金を返せる宛てもなく、逃げ出す事も出来なかった」
井上さんは観念したようにダイニングテーブルにナイフを置くと、両手をテーブルについて、がっくりとうなだれてしまった。
「それでも生真面目にさえやってれば、いつかきっと借金を返す事が出来るはずだった。俺はそう信じて黙々と働き続けてきたんだ。はじめの何年かは教授の偉業を補佐することができて、仕事に自信がもてた時代もあった。でも研究の成果が上手くあがらなかったり、ミスが続いて落ち込んだ日もあったんだ。そんな時、真理絵さんが気さくに声を掛けてくれて、私は随分元気を取り戻す事が出来たんだ。そして、いつのまにか彼女を、真理絵さんを、自分だけのモノにしたい衝動に駆られるようになった。変な下心なんてない。それは純粋な気持ちだったんだ。だけど、彼女はそんな風には思っていてくれなかったようだった。暇つぶしにちょっと遊んでみたかっただけなんだ!」
井上さんは崩れるように床に座り込んでいった。どうしようか。俺は佐伯やミク、由紀たちに視線を送った。佐伯がゆっくりとテーブルに近づき、井上さんが置いたナイフの刃を柄の部分にしまった。そしてなにか言いかけた時、母さんが部屋に入ってきた。
「お取り込み中、悪いんだけど。悪いニュースなの」
母さんはすこし青ざめた顔を皆の方に向け、沈痛な面持ちで口を開いた。
「あなたは確か…」
井上さんは、母さんを覚えていたようだった。母さんは井上さんに軽く会釈をすると、まっすぐミクの方に近づいて、しっかりと肩を抱くようにして言った。
「立川教授が、お父さんが、亡くなったわ。私がお昼ご飯を食べに出かけている間に薬を大量に飲んで……」
ミクは知らない言葉でも聞くように、ぼんやりと母さんの顔を見つめていた。
「食事を終えて部屋に戻ると、すぐに教授の様子がおかしいとわかったわ。お医者様に来ていただいて、すぐに処置を施していただいたんだけど、ダメだったの。学校に連絡した時はもう下校した後だったし、こちらに電話も掛けたんだけど、誰も出なかったから。慌ててここに来てみたのよ」
「お父さん……」
ミクは母さんに向けていたぼんやりした視線をゆっくりと俺の方にむけた。堰止めていたモノが急に途切れてしまったように、ミクはわーっと泣きながら駆け寄ってきた。
「どうするのさ。ミクちゃんのお母さんを手に掛け、続いて教授まで追い込んで」
佐伯がどこまでも冷徹に言い放った。井上さんは頭を抱え込んでうずくまってしまった。
「違うのよ。佐伯君。井上さんは確かに立川教授を脅すような行為を行っていたわ。だけど、立川教授は精神的に追いやられておかしくなって自殺したんじゃないわ。自分で選択してなさったのよ」
「どういうことだよ。分かるように言ってよ!」
俺は意外な話ばかりで、訳がわからなくなっていた。
「ねえ、そんな事より早くミクを病院に行かせてあげた方がいいんじゃないの?」
それまで黙っていた由紀が口を挟んだ。
「そうね。そうなんだけど、ちょっとここで皆に見て欲しいモノがあるのよ。教授の手帳よ。ちょうど、関係者になる井上さんも居る事だし、ここで読ませてもらってもいいかしら。それともミクちゃん、自分で読める?」
母さんの問いに、ミクは大きく頭を横に振った。
「教授の枕元に置いてあったの。一応、担当医である教授のお兄さんに見ていただいた上でここに持ってきたわ。じゃあ、読むわね」
井上さんの暴挙、立川教授の急逝、事件はバタバタと動きました。
う~ん、真理恵さん。なんて罪作りな人。