第6話 過ち
佐伯君たちの恋をさておいて、いよいよ犯人とニアミスなのです!
第6章過ち
佐伯たちを残して、俺達はバスに乗り込んだ。冬だと言うのに、日差しが差し込んだバスの中は春の陽気だった。気が付くと、隣に座っていたミクが少しずつ傾いてきている。昨日、教授が退院して、あれこれ気遣っていたんだろうか。ここしばらくいろいろあったし、ちゃんと眠ってないんだろうな。俺はそっとミクの肩に手をやって、こっそり自分の肩にもたれかかれるように押してやった。
思った以上に華奢な肩だ。たくさんの問題が、この小さな肩にのしかかっているのか。俺は、気持ち良さそうに眠っているミクの顔をそっと覗きこんでみた。そのときバス停が近づいて、バスがブレーキを掛ける。揺れた拍子にミクが目を開けて、目の前で覗きこんでいる俺と目が合ってしまった。
「えっ? な、なに?」
ミクは慌てて眼鏡を外すと、ハンカチでレンズを拭き出した。
「い、いや。なんでも」
俺はなんとなくバツが悪くて、慌てて窓の外に顔を向けた。
改めて眺めると、このあたりには自動車の修理工場や部品を扱う店が多い。どんなに寒くても店を開け放って作業をしている。大変なんだろうな。ちょうど濃紺の車が修理されている所だった。バスが通り過ぎる瞬間に、きらっと光って見えたのはパール効果が入っているからだろうか。
バスが曲がるとそれさえも見えないくらいあかるい日差しが視界を遮ってしまった。オレンジ色の光だ。なんだかイヤな予感がするのはサブリミナル画像のせいだろうか。
「……、ねえ、 葵君ったら!」
突然声を掛けられて驚いた。
「もう、なにぼんやりしてるのよー。もうすぐ降りるわよ」
妙に元気なのはさっきの照れ隠しか。俺はあわててミクに続いて席を立った。
ミクの家につくと、いきなり教授が飛び出してきた。
「あいつ等だ! あいつ等がまたここにまで迫ってきたぞ! ミク、早く逃げるんだ!」
教授の表情は明らかに正気を失っていた。あちらこちらの窓を開けては様子を覗って、教授の行動はとても悪ふざけとは思えない。
「お父さん! 落ち着いてよ! お父さんったら!」
「ぼんやりしている場合じゃないんだ。見ろ、あのガラス窓の傷を! さっきも何かがぶつかる音がしていたんだ。それもひっきりなしにだぞ。どうしよう。どこに逃げればいい……」
教授は突然階段を上がり、自室のクローゼットから旅行カバンを取り出し、引きだしのなかから肌着やセーターなどをわしづかみにしてねじ込んで行く。俺とミクは急いで教授に続いたが、何の脈略もないその行動は、手の施し様もないほどで、俺たちに恐怖すら与えた。
止め様とするミクなど構わず、差し迫った何かに怯える教授は、謎の敵による攻撃を受け、すっかり動転している様子だった。ガラスの傷、それはきっと坂本さんが投げていた小石の傷だろう。急いで確かめたが、やっぱりそうだった。もちろんすでに坂本さんの姿は見当たらない。多分、俺達が帰ってきた時点で、ミクが不在だった事に気付き、俺までついてきたので諦めたのだろう。
しかし、今は教授を落ちつかせる方が先だ。
「教授、落ちついてください。たぶん、木の葉が落ちるときに窓に当たって汚してしまったんでしょう。大丈夫ですよ」
「そうよ、お父さん。大丈夫だからね。お昼、何が食べたい? せっかくだから葵君にもご馳走しようかと思うんだけど」
ミクがなんとか気持ちをほぐそうと話題をすりかえた。教授は乱れた息を少しずつ整えて、手に握り締めたワイシャツを見つめたまま、最後に大きなため息をついて床に座り込んだ。
「すまん。また取り乱してしまった様だな。私は一体どうなってしまったんだろう」
頭を抱え込む教授を、ミクが手馴れた様子で居間のソファまで連れて行った。
「お父さん、疲れが出たのよ。私、すぐに何か作るわ。それを食べたら、すこし休んでね。 葵君もゆっくりして行ってね」
素直に座り込んだ教授のひざにハーフケットを掛けると、ミクは台所に消えて行った。教授はすっかり肩を落とし、頭を抱えたまま顔を上げようとはしなかった。こんな事が日常茶飯事に起こっていたのか。普段のミクからはとても想像できない現実に、俺はすぐにでもミクを助け出してやりたい衝動に駆られた。
ミクが美味そうなスパゲッティをテーブルに並べている頃には、教授は随分と落ちつきを取り戻していた。三人で摂る食事は意外なほど穏やかだった。思い立ったように席を立ったミクが、何枚かの写真を持ってきた。
「これ、お父さんが何かの特許を取った時に記念に撮影したものだったんだけど。これなら皆が写ってるでしょ」
「お前たち、なにか調べモノでもしているのか」
教授が心配そうに声を掛けてきた。話すべきだろうか。ミクはちょっと困った様に俺の次の言葉を待ち構えていた。
「実は、人は歳を取るとどんな風に老いるのかってことを研究中でして…」
「そ、そうなのよ。四人一組になって、何か課題を決めて研究するの」
さっきの教授の様子を目の当たりにして、サブリミナル効果の話など、出来るわけがなかった。ましてや教授自身が不信感を募らせていると聞いているミクのお袋さんの話など、問題外だ。
教授は微かに口角を上げただけで、特に気にする風もなく言った。
「しっかりな。だが、危ない事だけはやめてくれよ」
「うん、分かってる」
教授は頷いて、そろそろ部屋に戻ると席を立った。
「ミク。後で水と薬を持って来てくれ。健二君、今日は驚かせたな。すまん。すこし、休んでくるよ。気にせずゆっくりして行ってくれ」
教授は背中を丸めたまま、自室へと階段を上がって行った。それを機に、俺も写真を持って帰る事にした。ミクのことも心配だけれど、今はこの写真を佐伯に送ることが急がれた。
家に帰ると、すぐにスキャナで写真を読みとって佐伯に転送した。もし、坂本さんがその会社と何か繋がりがあったとしたら、決定的な証拠になるだろう。今日のストーカー行為も含めて、どうやら坂本さんは俺達を追い払って、ミクと二人であの研究所に納まりたいらしい。
だけど、教授の事に関してはちっとも事が進まなかった。母さんはずっとだんまりを決め込んでいる。何か思い当たる事があるみたいなのに俺には教えないつもりらしい。昨日は長い間父さんと話し込んでいた。やっぱり、過去の出来事と今回のことが繋がっているんだろうか。
翌日、学校に行くとすぐに佐伯がやってきた。
「葵、残念だが坂本さんはあの会社には関係ないらしい。兄貴や岡田さんが守衛さんに頼んで写真を見てもらったんだが、坂本さんには見覚えがないそうだ」
「違う、のか…?」
俺は、どうしてもその返事を素直に受け入れられない気分だった。昨日のストーカー行為といい、坂本さんなら動機になりうる裏づけも出来ると思ったんだが。
始業のベルが鳴って授業が始まっても、釈然としない気分のまま俺は考え込んでいた。一体誰が、何の為に? 誰が…。
「誰が……! 葵!」
「は、はい!」
「誰が昼寝していいと言った!」
「昼寝なんてしていません!ちょっと考え事を…」
しまった!っと思った時にはチョークが額を掠めた後だった。
「ああ、悪いなぁ。手が滑ったようだ」
ちっ! しっかり狙いを定めていたくせに。手を下したんだから内申にまでつけるなよな。俺は心の中で毒づいてみた。村井先生はにやっと笑って、さっきの続きを説明しながらさりげなく俺の横をとおりすぎ、チョークを拾うと再び俺の横を通った。通り際、小脇に抱えていた大きな三角定規を振り向く素振りをして俺目掛けて差し込んできたが、これくらいは俺にだって予測できる。ちょっと首を傾げてやりすごした。まったくこのオヤジにはうんざりさせられる。絶対自分が手を下したと言わせないように企んでいるんだ。
授業が終わると、由紀が楽しげにやってきた。
「あんたうまくかわしたわねえ。胸がスーっとしたわ。あの時の村井の顔ったら、すごかったわよ。ふふふ」
「あれだけやって、内申に何か書かれたらたまんないぜ。いつか学年主任の先生に報告してやるんだ」
「言ってやってよー。ところでさ、今日はミクちゃん来てなかったけど。なにかあったの?」
由紀の言葉に俺はいやな予感を感じた。ミクが欠席するって事は、教授に何かあったってことか? 俺はすぐさま携帯を引っ張り出してみた。
「はい。 あっ! 葵君? ちょうどよかったわ。大変なのよ。今朝起きたらお父さんがぐったりしていて、どんなに呼びかけても意識が戻らないみたいなの。今、病院にきて診察して頂いているところなの。昨日の夜はあんなに落ちついていたのに…」
「教授のお兄さんの病院か? じゃあ、すぐ行くよ! 由紀、悪いけど気分が悪くて早退したって先生に言っておいてくれ」
ミクに居場所を確認すると、由紀に伝言を残してカバンを掴んだ。
「葵。気を付けろよ。まだ犯人の目星がついていないんだ。教授の病状だって、故意に遣られたものかもしれん。油断するなよ。それから、連絡は絶対入れて来いよ」
佐伯が俺の腕を捕まえ、て言い含めるように言ってきた。俺にだって佐伯の言わんとする所は分かる。しっかり頷くと病院へと急いだ。
校門を出ると、バス停までの道を走った。もう冬だと言うのに、昨日に引き続いてのいいお天気だった。こんな日に天気がよくても気持ちは滅入るばかりだ。後少しでバス停と言う所で、向こうからバスがくるのが見えた。俺は全速力でそこまでの道のりを駆けぬける。
なんとか間に合ってバスに乗り込むと、昨日同様ボーっとしてしまうほどの陽気が満ちていた。省エネだ節電だって世間では大騒ぎしているって言うのに、こんな過剰な暖房がまかり通っているようじゃ、日本も先が長くないな。
学校前から病院までのバスの経路は、ちょうど佐伯の家の前を通ってミクの家の前を通り過ぎて、その後の信号を左に曲がって十分近く山道を登るという行程だ。今までから佐伯の家の外観は知っていたが、内装を見せてもらった今となっては、あのさりげない外観にも、どことはなしに品と言うモノを感じてしまう気がする.
しばらく行くと、バスがゆっくりと停車した。おそらく信号か何かだろう。ぼんやりと外を眺めていると、見た顔が横の歩道を歩いていた。井上さんだった。めずらしいなぁ。井上さんがこんな所を車も使わずに歩いているなんて。こんな所にもデータをコンピュータ管理している会社があったのか。いかにも下町の町工場的なイメージしか持っていなかった俺は、ちょっと考えを新たにした。
バスが動き出した。あと二つバス停を過ぎればミクの家の横を通る事になる。あたたかな日差しは少しずつ俺を眠りへと誘い込もうとする。こんなに大変な時に眠くなっている場合か! 俺は頬をパンっと叩いて、自分に喝を入れた。
研究所が見えてきた。窓には電気の光りが見えている。姿は見えないが、坂本さんが留守を預かっているのだろう。そのすぐ横にはミクの家が並んでいる。庭側の二階がミクの部屋になるんだ。この前、部屋に入れてもらってやっと構造が分かった。そうすると、奥の窓が教授の自室と言う事になるか。教授の部屋の窓は、研究所と隣り合わせで、景色はよくないだろう。景色を楽しむなら、二階の東側にある大きなベランダに出た方が数段気持ち良いはずだ。
バスが進むと、自然に東側にある庭の側が見えて、ゆったりとした二階のベランダが姿を表した。今は、人の気配すらないけれど。
そこから十分ほどの間を、夢と現実の間でふらふらと漂っていた。気が付くと病院前のアナウンスが流れていた。俺はすぐさま立ち上がってバスを降りた。
病院は、前に一度来ていたので、すぐにミクの居場所がわかった。診察室のドアの前に設けられている長いすに一人ぽつんと座って、ミクはうつむいていた。多分この時間は診察していないのだろう。ロビーに夕方からの診察の順番待ちをしている人を数人見た以外は、殆ど人の姿など見かけなかった。
「大丈夫か?」
俺の声に驚いたように顔を上げると、ミクは急にボロボロと泣き出してしまった。
「こんな所で泣くなよ。」
「だって。だって…。お父さん、息していなかったんだよ。どんなに呼びかけても返事もしてくれなかったんだよ。どうして? どうしてお父さんがこんな目に会わないといけないの?」
ミクは俺の制服の胸倉を掴んで、おでこを押し当てるようにして悔し泣きしていた。多分ミクなりに、外からの不審者の侵入には充分気をつけていたはずだったのだ。それなのに、自分がそばに居ながらこんな事になってしまったことが悔しくてたまらないのだろう。
震える肩に手を掛けようかとした瞬間、診察室のドアが開いた。
「ミクちゃん、ちょっと来てくれるか。あ、君は先日の…。君も来てくれたまえ」
教授のお兄さんが俺とミクを診察室に招き入れた。中に入るとすでに教授の姿はなく、診察室の奥にあるドアから、個室に運ばれたらしい事がわかった。
「ミクちゃん。お父さんはここの病院で出した薬以外になにか服用していたのか?」
教授に似た落ちついた物腰で、その伯父さんは問いただした。ミクはしばらく考えてから、答えた。
「ビタミン剤か何かを飲んでいたような気がするけど。他の病院には掛かってないし、他の薬を飲んでるなんて聞いてないです」
ミクの答えを聞いて、伯父さんはじっと考え込んでしまった。
「冷静に聞いてほしいのだけど。君のお父さんは、いわゆる薬物中毒によるショック症状でああなったようなんだ。精神に作用する薬には、他の薬と一緒に服用すると薬品同志が化学反応を起して、人体に有害な物質を作ってしまう事があるんだよ。今回の事は正にこれを生身の人間で実証したような形になっている。しかし、極普通に巷に溢れているような薬品ではないからやはり誰かが故意に飲ませたのではないかと疑わざるを得ないんだ。今、秘書に頼んで、全国で生産されているその薬品の形態をプリントアウトさせている。それを家にもって帰って、すぐに同じようなモノが家の中にないかチェックしてほしい。できるかい?」
おそらく伯父さん自身が飛んで行って確認したいのだろうが、とても忙しい身の上である上に、こんな事、他の大人たちにとても頼める事ではなかった。ミクはわかりましたっとしっかり返事をして席を立った。帰り際、ふと伯父さんをふりかえり、ミクは真っ直ぐに見つめて問う。
「伯父さん。これってひとつ間違えればお父さんの命はなかったって事なの?」
しかし伯父さんはゆっくりと頭を振った。
「心配しないで。ショック症状は確かに危険だが、私たちがついている。ただ、しばらくは寝込む事に成るだろう。君のお父さんのことは私達に任せておきなさい。それより、君自身もくれぐれも気をつけて。夜はしっかり戸締りするんだよ。なんならもう一度そちらの葵君の家にお世話になってもいいんじゃないか。その辺りの事は、先日葵君のお母さんからも承諾を得ているから」
俺はまったく聞いていなかった展開に動転してしまった。しかしミクには心強い状況である印象を与えたらしい。しっかりと頷くと、力強く立ちあがった。
バスはすぐにやってきた。研究所の近くのバス停につくまで、ミクは殆ど口を開かなかった。なにか心当たりがあるのかもしれない。バス停を降りた俺に、ミクはやっと口を開いた。
「一緒に確認してもらえるかな。私、ちょっとだけ心当たりがあるのよ。だけど、もしそれが本当だとしたら、怖くて……」
「わかってるさ。俺もちょっと確かめてみたい事があるんだ」
ミクが不思議そうに俺を見た。それには構わず、俺はさっさとミクの自宅の庭を横切り、道路とは反対側から、研究所と教授の自室の窓の位置関係を確かめた。
研究所には俺達が作業する受付を兼ねた部屋と、その奥の細かい作業や外部に漏らせない情報を処理する部屋、それにその部屋から上がれる二階の物置がある。その二階の窓と教授の自室の窓の間が3mぐらいだろうか。屋根をつたって行けば行けない距離ではなかった。俺はその事実を確信すると、すぐさまミクの待つ玄関に戻った。
いつもは簡素だが整っている玄関に、教授のガウンが脱ぎ捨てられていた。スリッパも飛び散っている。今朝の喧騒が目に浮かぶようだった。ミクはあらぬ所に飛び散っているスリッパを戻し、教授のガウンを拾い上げて俺を振りかえった。
「一緒に上がってくれる? お父さんの部屋まで」
俺は頷いてミクに続いて階段を上がった。
階段を上がってすぐの部屋がミクの部屋だった。そこはこの前の坂本さんのストーカー事件ですでに知っている。その前を通り過ぎると両側に二部屋と直進した突き当たりに押入れの引き戸があった。
右手のドアを開けながら、ここが教授の部屋なのだと説明された。扉を開けると、重厚な印象を与える大きな置時計が正面に佇んでいる。その両側にある大き目の窓から外の光が差し込んでいた。右奥に凝った作りのベッドと書斎があった。左手には書棚にいっぱいの本が詰まっていた。その横にはクローゼットが設えられていた。机の上の写真立てを手に取ってみた。いまより随分若い教授が上等そうなスーツに身を包み、穏やかな笑顔で立っている。その横には優しそうなミクのお袋さんがやわらかなワンピース姿で寄り添っている。もちろん二人の視線の先には真新しいランドセルを背負ったミクが、ちょっと緊張した面持ちで真っ直ぐにカメラに向かっていた。と、ミクが覗き込んできた。
「それは私が小学校に入学した日に撮った写真なの。まだ、お父さんの仕事がそんなに忙しくなくて、ゆったりとしていた頃だわ。お父さんとお母さんはとても仲がよくて、何にも不安はなかった」
眼鏡の奥の瞳が沈んだ色を称えていた。
「そういえば、教授はビタミン剤を飲んでるっていってたよな。それはどこにあるんだ」
俺はそのまま沈んでしまいそうな気持ちを無理やり奮い起こして、事を進めた。ミクは目の前の引き出しを開けて小さなビンを取り出した。そして、ちょっと戸惑ったような表情になった。
「どうした?」
「ん、このビタミン剤は坂本さんが譲ってくださったモノだったのだけど、ほら、ひとつだけ光りに翳すとちょっと虹色っぽく光るでしょ。他のはただの白い錠剤なのに……」
「調べてみよう! ミク、さっき伯父さんにもらった資料を出してみて!」
ミクははじけるように階段をおり、さっきの資料を持って戻ってきた。俺達はビンの中の錠剤をそっとティッシュに取り出して一つ一つ調べてみた。想像通りミクがみつけた錠剤はもらってきた資料と同一のモノだった。錠剤の側面に小さく記号が刻印されていた。
「やっぱり、坂本さんの仕業だったの?」
今までしっかりした態度をとっていたミクだったが、これにはショックを隠しきれないようすだった。握り締めている資料が小刻みに震えていた。
俺は、ふと窓辺に歩み寄って、カーテンを引いてみた。目の前には研究所の物置の窓がある。あの部屋は、一体何に使われているのだろう。物置としか聞かされていないが、ミクですら入った事はないという。
「うち、来いよ。父さんも喜ぶしさ。このままここにいたら、ミクまで参っちまうぞ」
「うん、わかった。そうさせてもらうね。」
ミクはちょっと考え込んでいたが、気分を変える様にそういうと、極力明るく返事をした。そうだ、このまま落ち込んでいても仕方がないんだ。
「お茶でもご馳走になろうかな」
俺は軽い口調でミクを促した。
台所に行くと、ミクは自分を奮い立たせるようにしっかりとエプロンの紐をしばって流しの方に入っていった。俺は適当なイスに座ると、お茶の準備をしているミクの後姿をぼんやりと眺めていた。教授もこんなふうに奥さんを見ていたのだろうか。書斎にあった写真の3人の表情には暗いモノはひとつも見当たらなかった。
ミクが紅茶とスナック菓子を出して席に着いた。
「なあ、お袋さんって日記とか付けてなかったのか」
「わからない。お母さんが日記書いてるところなんて、見た記憶ないけど。私なら小学校に入ってからずっとつけてるけれどね」
「それだ! それ、見てもいいかな」
飛びついた俺に、ミクは顔を真っ赤にして拒否してきた。
「ダメダメ! そんなの見せられないわ」
ミクは慌てた様子で眼鏡を外すと、ポケットから引っ張り出したハンカチでせわしなくレンズを拭き始めた。やっぱりだめか。そりゃそうだな。自分の過去をそんなに簡単に人に見せるなんて出来ないか。
俺が少々大袈裟にため息をついたので、眼鏡を掛けながらミクが心配そうに顔を覗き込んできた。
「ごめんなさい。それって、今度の事となにか関係がある話なの?」
「うん。もしかしたら、お袋さんの件の引き金になった出来事が書かれてるかもしれないなぁって思ったからさ」
「そっか。それなら、小学校の頃の日記なら見てもいいわよ。でも、そんな大それた事は書いてないと思うけど」
ミクはまだ頬を紅潮させたままでそう言うと、自分の部屋まで日記を取りに駆け上がって行った。ドアを開け、引き出しを開ける音が階下にまで響いている。
「え?」
かすかに戸惑ったような声がして、ミクの動きが止まった。俺の脳裏にいやな予感が走る。もしや、犯人がどこかに隠れていたのか! 階段を掛けあがるのももどかしくミクの部屋のドアを開けた。
「どうした!」
ドアがバンっと派手な音で壁にぶつかると、ミクは俺目掛けて飛びついてきた。
「誰かいる! お父さんの部屋に誰かいるわ!」
俺達は極力音を立てないように注意しながらミクの部屋を出た。廊下はさっき俺が駆け上がって来たままの状態だった。そのままミクにじっとしているように目配せして、そっと教授のドアの前まで進むと、ゆっくりと耳を当ててみた。しかし物音ひとつしない。
さっきの俺の足音で、どこかに逃げてしまったのか。ドアを開けて見たがもぬけの殻だった。
「逃げられたか……」
俺は窓のすぐ下に落ちていた白い錠剤を拾いながら、まだこの家のどこかに隠れていた犯人に気付かないでいた自分を恨めしく思った。
「ミク、教授はいつもここの窓を開け放っているのかい?」
「え? いいえ、そんな事はないはずよ。お父さんの部屋に入るのは、洗濯物を取りに来る時ぐらいだけど、カギがかかっていないなんてことは一度もなかったと思うわ」
じゃあ、ほよど急ぐようなことがあったんだろうか。窓はしっかりした作りだったが鍵はかかっていない。おまけに教授は戸締りにルーズな方ではないようだし。ミクの聞いた足音が、窓枠をふみはずした音であったのは間違いなかった。窓の敷居に真新しい傷が残っている。残念ながら、研究所の窓は閉まったままだった。直接研究所に逃げ込んだなら、随分と分かりやすいのだが、犯人もそこまでおろかではないのだろう。
いずれにしても、すぐそこまで犯人が来ている。そんな緊張感が、俺の中に広がって行った。俺達は、念入りに二階の窓のカギを見て周り、下の階に降りてきた。念の為、家の周りも見まわったが、犯人がそういつまでもじっとしているはずはなかった。諦めたおれ達は、台所に戻って冷めはじめた紅茶を飲み干すと、さっそくミクの子供の頃の日記を調べ出した。
隣では、ミクが伯父さんに電話を入れていた。例の薬が該当する物であれば、それはそれで今後の治療の参考になるはずだ。最初にミクが薬の違いに気付いてカバンに移しておいたのがよかったようだ。たった一個混ざっていたと言う事は、入れ替えていた中身を元に戻しに来たという事か。俺たちが突然帰ってきたので、焦った犯人が一個だけ取り忘れてしまったのかもしれない。それならなおさら、この薬が発見される事は犯人を追い詰めることになるのかもしれない。
しばらく調べ物に専念していると、携帯がなりだした。
「葵。教授の具合はどうなんだ!」
佐伯だった。そうだった。奴に連絡を入れる事をすっかり忘れていた。俺は教授の命に別状がない事を伝えると、あとは帰ってからメールすると告げた。時計を見ると、十二時をとっくに回っていた。そっか。あいつ、昼休みに電話してきたんだ。時間の事などすっかり忘れていたのに、時間を見たとたん空腹が襲ってきた。
俺の視線に気付いたのか、ミクが声を掛けてきた。
「お腹空いたね。冷凍ピザでよかったら食べる?」
「悪いな。じゃ、お言葉に甘えるよ」
俺はそのままミクの日記に集中した。日記は小学四年生の頃まで読破していた。几帳面でしっかりした文字を書く子供だったらしく、文章もしっかりしていた。大体はその頃の友達と遊んだとかけんかしたとか、そんなことだった。休みの日には家族で出かけた遊園地や公園での事などが綴られている。ん~。やっぱり子供に大人の世界を観察させるのは無理があるか。そこまで日記に記したりはしないよな。諦めかけた頃、台所でチーンとレンジの音がなった。
少し中断してピザをほおばった。うめ~ぇ。こんなに集中したのは久し振りだ。これが勉強に活かせたらねぇなんて、母さんの声が聞えてきそうだった。ふと横を見ると、ミクがうれしそうにこっちを見ていた。
「なんだ? お前も食べろよ」
「うん。食べるよ」
そう言ってピザを手に取ってはいるが、ちっとも食べ様としないで楽しげにこちらを見ている。
「変な奴だな。なんだよ」
「なんとなくね。だって、由紀ちゃんの言った通りだったんだもん。私だって、小さい頃から葵君の事は知っているつもりだったけど、その、あんなこと急にするんだもん。ちょっとびっくりして、悩んでたんだ。それで、思いきって由紀ちゃんに相談したの」
あんなこと? そうか恋愛シュミレイションと混乱してやらかしたあれか。なるほど、それで由紀と話をするようになったのか。
「そしたら、アオケンはそんなに悪い奴じゃないよ。って、何の迷いもなくあっさり言ってくれたんだもん。すっきりしたけど、ちょっと妬けちゃったんだ。そのあと、由紀ちゃんも相談してくれるようになって……。アオケンにまかせておいたら大丈夫だよって、背中を押してくれたの由紀ちゃんなんだ。由紀ちゃんの言った通りだった。ホントに、心細い時にはすぐに飛んできてくれるんだもん。…… ありがとう、葵君」
ミクは手に持っていたピザを皿に戻すと、すっと眼鏡を取って泣き笑いしながら目じりを拭った。
「ばかだな。アイツなんかに相談しなくても俺に言えばいいのに。ま、今度の事は教授からも頼まれてるしな。気にすんなよ。まあ、あの時はちょっと俺もおかしくなってたし……。忘れてくれよ。な。と、とにかく眼鏡をかけろよ」
ミクは不思議そうに小首を傾げて俺を見つめた。心臓がバクバクしている。う~、だから早くめがねをかけてくれー。今度変な事になったら、サブリミナル効果じゃ済まなくなるじゃないか。
「わかった」
ミクはちょっと下を向いて眼鏡を掛けると、肩を落としてしまった。気まずい雰囲気になった。俺は、次に言うべき言葉が見つけられずに片手にピザを持ったまま、日記を読み始めた。
『4月5日。お母さんのお友達、美砂子おばさんと美砂子おばさんの子供、健二君と4人で遊園地に行った。お母さんと美砂子おばさんは子供の頃からのお友達。今でも凄く仲良しで、いいなっと思った。健二君はもう何度か一緒に遊びにいっているけど、いつもすごく元気な子。だけど今日は、私が転んだ時すぐに走って来て助けてくれた。やさしい健二君大好き!』
「あ……!」
俺の様子に気付いて、ミクが覗き込んできた。
「ああっ! ダメー!」
ミクはすぐさま日記をひったくると慌てて二階に駆け上がって行ってしまった。後にはミクがいなくなって遮るモノがなくなった台所の食器棚に、真っ赤になった俺の顔が写っていた。
ミクが俺の事を大好きだったなんて……。思っても見なかった。俺はただ、ミクが眼鏡を外すと堪らなくドキドキしてしまうので、戸惑っていただけだったはずなんだが…。
しばらく待ってみたが、ミクが降りて来る気配はなかった。
「ミク? 俺が悪かったよ。そんなつもりで見てたわけじゃないんだ。下りてこいよ」
参ってしまった。こういう時、どうしたらいいんだろう。考えてみれば、あれは小学生の頃の日記なのであって、今、ミクがどう思っているかとは違う話なんだし、そんなに恥かしがらなくてもいいんじゃないだろうか。
「ミクー」
何度呼んでみても返事はなかった。しょうがない。様子を見に行ってみるか。俺はとぼとぼと階段を上がって行った。ミクの部屋のドアをノックするが当然のごとく返事はない。
「入るぞ」
そういってドアを押し開けたがミクの姿はなかった。注意深く部屋を見まわす。クローゼットのドアが微かに開いている。俺はそっと開きかけのドアを引いた。中からバツの悪そうなミクが顔を出した。
「気にするなよ。小学生の頃の日記だろ。今の日記じゃないんだしさ」
「……」
ミクはじっと下を向いたままだった。どうすればいいんだよ。俺は途方に暮れた。
「そうだ。じゃあ、今夜俺んちに泊まりに来た時、俺の日記を読めばいいじゃん。多分春休みには日記を書かされていたはずなんだ。それを読ませてあげるから、とにかく機嫌直してくれよ」
ミクはちょっと顔を上げてボソッとつぶやいた。
「ホントに?」
「ああ、約束だ」
俺は、きわめてまずい約束をしたことに気付かないまま、クローゼットの床に座り込んでいるミクの手を取って引っ張り出した。
日記はそのままミクがカバンに詰め込んだ。そして、俺にコーヒーを入れてくれたまま、二階に着替えや明日の教科書を取りに行った。
しばらくすると、ちょっと大きなバッグを抱えたミクが下りてきた。さっきの薬が気になるというミクのために、俺達は先に病院に立ち寄ることにした。
ミクは駅のコインロッカーに荷物を詰めると、駅から出ているバスを見つけた。日が傾いている。まだ三時ぐらいのはずなのに。すっきりと晴れた空に黄色く色づいた葉っぱがやけにきれいだった。今日、何度目かのバスに乗り込み、俺達は空いた席に座った。この薬が手元にあることは、犯人にも気付かれているかもしれない。だとしたら、犯人はいったい次にどんな行動にでるだろうか。ともすればミクのさっきの日記を思い出してしまう自分に歯止めをかけるため、俺は犯人に意識を集中しようと試みた。考えている内にバスが病院前に到着した。
病院の受付に行ってミクの伯父さんに連絡を取ってもらった。しばらくして通されたのは、教授の病室だった。教授は落ちついているのかぐっすりと眠っていた。
「お父さん」
ミクが耳元まで来て声をかけた。
「さっき眠った所だから、そのまま寝かせてあげたらどうだ。それより、電話してくれた薬をみせてもらおうか」
ちょうど伯父さんが病室に入ってきた。ミクはポケットから小ビンを差し出した。蛍光灯に翳して錠剤を確認すると、伯父さんはため息混じりに唸り声を上げた。
「やっぱりこれだったか。残念だがこれは生産量が多くて販売元から買った人間を割り出すのはむずかしいんだ。悪かったね。せっかく持ってきてもらったのに」
「いいえ、大丈夫。お父さんが落ち着いてるのを見られたから、私も少しは気分が楽になりました」
伯父さんは申し訳なさそうな顔になって頷くと、ミクの肩を軽く叩いていた。
「お父さんの事は私に任せておいてくれ。すぐに良くなるさ。それより、犯人が見つかっていない内は、充分注意するんだよ。それから葵君、お母さんには弟のことも連絡しておいたから、このまま家に帰るといい。学校を早退して来てくれたことやミクの事も説明済みだ。何の心配もいらないからね」
「あ、ありがとうございました」
俺は焦ってしまった。母さんに無断で早退してしまった事をどう説明するかなんて、考えてもいなかったのだ。伯父さんはその辺まで考えていてくれたようだ。ちょっといたずらっこのような顔をして頷いていた。助かったぜー。
「伯父さん。お父さんの事よろしくお願いします。何かあったら携帯で呼んでください」
伯父さんが頷いてくれたのを確かめると、ミクはちょっと名残惜しげに教授の顔を見た後、席を立った。
俺達が家に辿りついたのは、もう辺りが薄暗くなり始める頃だった。ミクの伯父さんから母さんには連絡が入っているはずだったが、家には誰もいなかった。
「あっ。留守電だ」
電気をつけながら上着を脱ぐと、赤い点滅を発見した。
「ピー。健二、六時には帰るからミクちゃんに頼んでご飯だけ炊いてもらって。おかずは出先で買っておくわ。じゃ、よろしくね。ピー」
「ピー。主任、風邪大丈夫ですか? 明日の会議、出席して欲しいって部長からの連絡入ってますよ~。お大事にー。ピー」
ん? 母さんも会社を休んでいるのか? さっきの留守電は元気そうな声だったが。母さん、仮病でも使っているのだろうか? どこ行ったんだろう。
「聞いての通りなんだ。荷物は奥の部屋に置いてくればいいから、ご飯の準備頼むよ」
「わかったわ」
ミクは奥の部屋に荷物と上着を置いて戻って来ると、キッチンのいすにひっかけてあった母さんのエプロンをかけ、炊事を始めた。俺は学校の事も気になったので、佐伯にメールを送ることにした。
今日の教授の事やすりかえられた薬のこと、それに侵入者の事など、書く事はいろいろあった。メールを送ると入れ違いに何通かのメールを受け取った。そこに佐伯からのメールも入っていた。
「葵。例の写真、守衛さんは覚えてなかったが、掃除のおばちゃんが見た事のある顔が写ってるって言ったそうだ。坂本さんじゃなくて、その横にいるちょっと浅黒い肌の精悍な顔つきの人。その人が例の部署の辺りを歩いているのを見たんだそうだ。ちょっと気になるだろ? 佐伯」
気になるも何も、あの写真で浅黒い精悍な顔つきの人っていったら井上さんに決まってる。一体どうなってるんだ。坂本さんと井上さんがあの研究所をどうにかしようとしているのか? 思いも寄らなかった展開に俺は混乱してしまった。
玄関で人の気配がした。母さんが帰ってきたのか。
「健二。下りてらっしゃい」
すぐに母さんの声がした。俺は慌てて電源を落とすと台所へ降りていった。
「ごめんね。ご飯まで作らせちゃって。今日は遠出してきたから帰りに揚げ物買ってきちゃった。サラダも買ってきたから座ってちょうだい。お茶ぐらい私が入れるわ」
母さんはミクに済まなそうにそう言うと、ミクを兄貴の席に座らせた。
「教授の具合はどう?」
流しに向かいながらミクに話しかける。ミクはエプロンを返しながら、今日の様子などを話していた。なんだかすっかり打ち解けているミクと母さんを見ていると、ちょっと照れくさくなる。何で俺が照れるんだ? ミクは母さんの親友の子供としてここに来ているだけなのに!
違和感のない食事が終わると、母さんはコーヒーをいれて俺達にすすめた。
「母さん、今日、どこに行ってたんだよ?」
「田舎に行ってたのよ。ちょっと調べモノしたくてね」
「会社に仮病使ってか? 俺達にも内緒だったし」
俺の言葉に母さんの顔色が変わった、しかし気付かない振りで俺は続けた。
「少なくとも俺とミクは今日も教授をあんな風にした犯人らしき人物とニアミスしてるんだ。それに被害に遭ったのは教授だけじゃないんだ。俺や佐伯だって、ゲームの中に変な画像が入っていた影響受けて、挙動不信に陥っていたんだ。もう大人の話に口を出すななんて言わないでくれよな。どんな話になっても覚悟はできてるから教えてくれよ」
さりげなくごまかそうとした母さんだったが、佐伯からのさっきのメールを見た以上、このままそれに流されるわけにはいかなかった。身を乗り出して迫る俺に、母さんはちょっと驚いていたが、困ったようにコーヒーカップを見つめた末、観念したようにわかったっと口を開いた。
「ミクちゃんにはちょっと辛い話になるけど、大丈夫かしら」
母さんは心配そうにミクを見ていた。ミクはまっすぐに母さんを見つめたまま答えた。
「覚悟は出来ています。さっきここに来てから子供の頃の日記を読み返してみました。それで思い出したんです。子供の頃には気付かなかったいろんな事を。お母さんは、お父さん以外の男の人とおつきあいしてたんですね。それが、今度の事と何か関係があるのですね」
俺は、予想外のミクの言葉に息を飲んだ。俺が二階でメールをやり取りしている間に、ミクは四月五日以降の日記を読んでいたんだ。そして、決して見つけたくはない事実をみつけてしまったんだ。俺はやるせない気分でいっぱいだった。ミクの言葉を聞いて母さんも覚悟を決めたようだ。母さんの話はこうだった……。
やっと、やーっと話す気になったお母さん。
次回が過去のお話になります。