1.銀歩揺の鬼霊(2)
甄妃がやってきたのは陽が高く昇った頃だった。妃用の輿から下りてきたのは、紅妍よりも年を重ね、母と呼んでもおかしくない年頃の女性だった。葱緑色の襦裙に翠緑色の衫を重ね、牙黄色の被帛をふわりと首にかけている。傍に控える宮女たちは上級、下級で差はあれど襦裙や深衣はどれも碧色を基調としていた。それぞれの妃には色が付くと紅妍は聞いている。おそらく夏泉宮は碧色を与えられているのだろうと考えた。
冬花宮へと案内し、二人の前に芳しい香花茶が出された後である。甄妃は人払いをし、改めて紅妍に向き直る。
「あなたのことは秀礼から聞いておりましたよ」
開いていた扇を閉じ、にこりと微笑む。
紅妍の入宮は、この甄妃も一役買っている。甄妃は秀礼の後見人でもあるらしく、秀礼も信を置いていた。その話は聞いていたがこうして面と向かうのは初めてのことである。
「華仙術を使える不思議な子と聞いていましたが……」
甄妃の目は紅妍を捉えたまま、するりと細まった。
「随分と痩せ細っていてこちらまで苦しくなりそうですね。ちゃんとお食事を取っています?」
「……は、はい」
「その痩身では鬼霊祓いどころではないでしょう。足りないものや食べたいものがあれば遠慮せず仰ってくださいね」
何を言われるだろうかと構えていたので拍子抜けした。そんな紅妍に、甄妃は微笑む。皆して紅妍に厳しく当たるものだと思っていたが甄妃はその想像を覆していた。
「永貴妃はいらしたの?」
「昨日、こちらに来ていただきました」
「そう。それはよかった。あの方は、現在の後宮を取り仕切る方だから」
冬花宮に永貴妃が来たのは昨日のことだった。永貴妃は桃色を賜っているらしく、永貴妃や宮女たちが揃えば、冬花宮の庭に桃の花が咲き誇ったのかと見まごうほどだった。甄妃と異なり、威圧感を持った人である。対峙するだけで疲れてしまい、おかげで昨晩はよく眠れた。
永貴妃といえば。冬花宮に入る前、清益から聞いたことを思い出す。
「第二皇子をお産みになったのが永貴妃……ですよね」
「ええ、そうね」
現在、後宮に残る皇子は二人。第二皇子の融勒と、第四皇子の秀礼だ。融勒についてはまだ会ったことがないのでわからない。後宮にいればいずれ顔を合わせるのだろう。
そう考えながら香花茶に口をつける。紅妍の痩身を案ずる藍玉が入れたらしく蜜糖の甘さが舌に残った。里では味わえぬ甘味に口元が綻びそうになる。甄妃の前であるからと強ばらせていると、彼女が笑った。
「華妃。あなたのことは秀礼から伺っているの。きっと辛い環境にあったのでしょうね。姉のように――と呼ぶには年が離れすぎているから、わたくしのことを第二の母だと思ってちょうだい」
「母……ですか」
「ええ」
甄妃は頷き、扇を開く。
「秀礼の後見人になる時も同じように話したのよ。わたくしは子供ができなかったから、その分を他の方に捧げようと思って」
にこりと微笑むと共に引っ張られた目元の皺は紅妍を温かな気持ちにさせる。
(母、なんていつ以来だろう)
紅妍の母は、物心ついた時にはいなくなっていた。忌み痣を持つ子を産んだとして長や婆から何らかの罰を受けたのかもしれない。父はいたが、子に興味を持つ人ではなく、白嬢のことでさえ蔑ろにするような人だった。
「だから、わたくしはあなたのことが気がかりなのよ。鬼霊祓いもいいけれどまずはきちんと食べること。美味しい果物や甘味が手に入ったら冬花宮にも持ってくるから好きなものを教えてちょうだいね」
甄妃は紅妍のことを『華仙術の娘』ではなく、『一人の娘』として扱っているようだった。痩身を気遣う言葉は心のうちを温かくさせる。これは香花茶を飲んだだけの温かさでないだろう。
「そういえば……楊妃は来ていないのよね?」
ぽつりと甄妃が呟いた。
「まだお会いしていません。わたしからご挨拶に伺った方がいいのでしょうか」
「わたくしも、最近楊妃にお会いしてないのよ。華妃がくる前にお茶会を催したのだけれど、その時も体調がよろしくないといって欠席していてね。帝も臥せっておられるし、なんだか寂しいわ」
どう返答したらいいのか迷い、紅妍はうつむいた。
(楊妃……秋芳宮に住む妃か)
いずれ会う時があるのだろうと思いながらも、何か予感がした。それは紅妍だけでなく甄妃も感じていたのだろう。無言で啜る香花茶は先ほどよりも冷えていた。
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