3.死してなお守る者(2)
それは璋貴妃。秀礼の母である。既に亡くなっているため生者ではない。鬼霊の証を示すように肌は土気色をし、瞳は濁っていた。
璋貴妃は帝に手を差し伸べる。敵意は感じられない。帝もまた、その手を取っていた。
「……鬼霊だから祓うべきだと、お前は思うのだろうな」
帝は静かに言った。紅妍、そして秀礼は答えず立ち尽くす。
「まもなく我が天命は尽きる。だからこそ話しておく」
嗄れた声はゆっくりと紡ぐ。これから語られるのは帝の罪だと示すように、部屋の空気が重たい。璋貴妃も潤んだまなざしで帝を見つめていた。
「辛皇后が呪った者が誰であるかは、既に知っているのだろう」
「母上、いえ、璋貴妃を呪ったのだと判明しています」
「あれは璋貴妃を妬み、呪いで殺したのだ――我がそれを知ったのは呪詛が成った後だ」
帝は百合の呪詛のことも知っていたようだ。それは璋貴妃が亡くなる前であれば止められただろうが、知った時には遅かった。そのことを帝は悔やんでいるのだろう。苦虫を噛みつぶしたように顔を歪める。
「好いた者を欠くことはつらい。その後の生が、拷問のようにさえ思える。怒りと悲しみと後悔が常に我を責め立てるのだ。寝食は忘れ、視界は色を欠いたように、後悔だけが鮮烈に在り続ける」
その言葉に秀礼はうつむいた。思うところがあるのかもしれない。
「だから、辛皇后を呪い殺そうと考えたのだ。そうでもしなければこの恨みは晴らされない――木香茨の呪詛を仕掛けたのは、私だ」
そこで再び咳がひどくなる。璋貴妃が帝に駆け寄り、その背をさすった。息を整えるまでしばしの時間がかかった。帝は悲哀を込めたまなざしで璋貴妃を見上げている。
「呪詛の代償は我の命だ」
「なぜ、命を捧げたのですか」
「そうまでしてもよいと思っていた。その方が早く、浄土に行けるだろうと」
だが呪詛が代償を求めて帝の命を奪おうとしても、時間がかかりすぎている。辛皇后が亡くなってから今日まで、帝は生きている。紅妍の胸に浮かんだ疑問はすぐに解けた。帝は璋貴妃の手を撫でながら告げる。
「鬼霊となった辛皇后から我を守ったのは――璋貴妃だ」
璋貴妃は語らなかったが大きく頷いた。
この鬼霊が帝を守っていたということに驚きはない。冬花宮に現れた時も敵意を感じず、むしろ白百合という情報を与えていったのだ。あの花を詠まなければ紅妍が坤母宮に辿り着くまで時間がかかったことだろう。
璋貴妃は鬼霊となっても帝を守り、そのために紅妍に近づいたのだ。
「鬼霊となっても会いにきてくれた。そして、我を守っている」
「……だから光乾殿の鬼霊を祓うなと命じたのですね」
紅妍が問う。帝は「そうだ」と認めた。
鬼霊に守られていることを明かせば、宮城は祟られていると噂される。帝は鬼霊となって現れた璋貴妃を守ろうとしていたのだ。
しかしいくら璋貴妃が守るといえど辛皇后からの禍を防ぐだけである。帝が施した呪詛は確実にその身を蝕んでいた。いまも帝の体は弱っている。その身の天命については誰よりも帝自身がよく知っているに違いない。
紅妍が気にしていたのは璋貴妃である。鬼霊となって彷徨うには苦痛を伴う。璋貴妃も苦痛に耐えながら光乾殿に通っていたことだろう。だが帝を害する呪詛は祓われ、辛皇后も浄土へ渡った。庇護の必要はなくなったのである。
「華妃に、頼みがある」
帝が紅妍を呼んだ。それから一度璋貴妃を見やる。璋貴妃は何も言わず、しかし穏やかな笑みを浮かべて帝のために頷く。帝もまた、表情を和らげた。
「璋貴妃を祓ってほしい」
「……よろしいのでしょうか」
花渡しで璋貴妃を祓うことは難しくないだろう。彼女の体に黒花が咲いているといえ、その呪詛の元は祓われている。それに自我を保ち、帝を守ってきた鬼霊だ。おそらく簡単に花渡しができる。
しかし躊躇ったのは帝のためだ。璋貴妃を愛し、鬼霊となっての再会にも喜んでいたというのに。花渡しをしてしまえばその魂は浄土に渡り、二度と会えなくなる。
「よい。我の天命はわずかも残っていない。ならば浄土に渡る姿を眺めてからがよい」
紅妍の躊躇いは杞憂だったようだ。帝はすでに覚悟を決めている。それを察して、紅妍は揖する。
「わかりました。璋貴妃の魂を浄土に送ります」
花も、媒介となる品も用意されている。帝は懐から璋貴妃が好んだという百合の練香が入った合子を取り出した。璋貴妃が亡くなった後、毎日手放さずに持ち歩いていたらしい。
紅妍が花渡しの支度を調えている間、帝が秀礼を呼んだ。
「秀礼。お前はこのような生き方をしてはならない。後悔などしてはならぬ。宝座に縛られてはならぬ。最も大切なものを、見落としてはならぬ」
それに秀礼がどう答えたのかは聞こえなかった。紅妍は瞳を閉じる。
(璋貴妃……帝が最も愛した妃)
死してなお、帝のことを案じていたのだろう。そばにいたいと強く願い、鬼霊になってまでこの世にすがりついた。帝が璋貴妃を愛したように、璋貴妃も帝を愛していた。
帝を狂わせた『愛』というものは、明確にはわかっていない。しかしそれが温かなものであろうことはわかる。そばにいるだけで心が強くなれるような、温かな感情。
紅妍は手中の花に意識を傾ける。璋貴妃の魂は媒介となった合子と共に、花の中に吸いこまれていく。魂を移す花もまた百合だった。璋貴妃がこれを好んだから用意されたのだろう。
(わたしはあなたを浄土に送りたい)
それから瞳を開く。璋貴妃の姿は完全に亡くなっていた。紅妍の手の中にあるのは花だけだ。
部屋の中だというのに風が吹く。それに乗せるように、紅妍が手を掲げた。
「花と共に、渡れ」
煙が消えていく。百合の香りが消えていく。
璋貴妃の魂を乗せた風は部屋をぐるりと回った後、隙間を通って外に向かう。壁を越えて庭を越えて、空に舞い上がるのだろう。
「……母上」
その煙が消え行く様を目で追っていた秀礼が呟く。彼の瞳に光るものがあったが、紅妍は見ないふりをして、煙が消えた先に視線を移した。
天命、尽きる。
帝の崩御が知らされたのは数日後のこと。大都は喪の黒に包まれ、宮城もまた悲哀に満ちる。
髙の中心は崩れ去ったのだ。しかしまた陽は昇る。新たな天子が、髙を背負う。




