3.死してなお守る者(1)
木香茨を祓った後、紅妍と秀礼は光乾殿に向かった。高塀に囲まれた通路を駆ける。その途中で紅妍は訊いた。
「なぜ秀礼様は坤母宮に?」
駆けつけた秀礼には助けられた。来ることはないと諦めていた中の光明だった。もしも秀礼が来なければいまごろ紅妍は死んでいたかもしれない。だからこそ、なぜ駆けつけたのかが気にかかっていた。
「光乾殿に向かおうとした――が、引き返した」
そこで思い出したのかくすりと笑う。妙に晴れやかな笑みだった。
「清益には怒られたが、もしお前を欠いて宝座に座ったとしても私は悔恨に縛られて生きていけぬだろう。最も必要なのはどちらかと考えたまでだ」
帝になる未来か、紅妍を救う未来か。その二択を問われ、秀礼は紅妍を選んだのである。ありがたいが、清益や韓辰らのことを思うと複雑である。紅妍が表情を曇らせていると秀礼が続けた。
「それに、融勒にも諭された」
「融勒様にもお会いしたんですか?」
「光乾殿に向かう途中でな。永貴妃と共にいた。二人は光乾殿に入らず、私が着くのを待つそうだ」
もしも秀礼より早く二人が着いていたのなら、帝の心証は大きく変わったことだろう。宝座に座す者を決めるにあたって影響を与える。それを知っているからこそ、二人は光乾殿に入らずに待つと告げたのだ。
「私を認めたというよりも、お前への恩、だろうな」
秀礼が苦笑した。
二人は息を切らしながら走る。光乾殿の門が見えてきた。
約束通り、融勒と永貴妃は光乾殿に入らず外で待っていた。秀礼と紅妍が着いたのに気づき、韓辰が動く。
「韓辰。帝の容態は?」
「一時はひどかったのですが、先ほどから急に落ち着いたようです」
韓辰は理由がわからないといった顔をしていたが、紅妍にはわかる。木香茨の呪詛を祓ったことで光乾殿に満ちる邪気が消えていた。身にずしりとのし掛かる重たい空気はどこにもない。
(けれど血のにおいはする。鬼霊がいる)
悪気が消えたからこそ、血のにおいがはっきりとわかる。それは光乾殿の中から香っていた。
それは秀礼も察していたのだろう。光乾殿を見やり、忌々しげに呟く。
「中に入る。鬼霊の気があるから、華妃も共に来るよう」
紅妍は頷き、秀礼の後に続いた。
韓辰に案内され光乾殿の中に入る。通されたのは帝の寝所だった。
現れた秀礼に気づいたらしい帝が身を起こす。老いた顔はひどく顔色が悪い。落ち着いたと聞いてはいるが、死期の近さが表に現れていた。
「……秀礼か」
「はい」
揖した後、秀礼が口を開く。
「辛皇后が行った呪詛の調査。そして光乾殿を苦しめていた木香茨の呪詛を祓いました」
「なるほど。だから華妃も連れてきたのか。あの呪詛を祓ったのはお前たちだな」
言い終えるなり咳き込んで顔を歪めた。秀礼が駆け寄ろうとしたが――それよりも早く動く者がいた。
紅妍でも秀礼でもない、百合の香りがする。そして隠しきれない血のにおいも。
「……まさか」
その顔を見た秀礼の瞳が丸くなる。声も体も震えている。
胸には大きな黒百合が咲く。呪詛をかけられた者の証としてある黒花。ひとつ動くたび、百合の香りが充満する。
(冬花宮に現れた鬼霊だ)
紅妍はそれを知っていた。名前まではわからなかったが、いまではわかる。
憂いを湛えたまなざしがこちらを捉える。鬼霊は言葉を紡ごうとしなかった。語る術を持ち合わせていないのだろう。代わりに秀礼がその名を呟く。
「母上……なぜ、ここに」




