2.黄金の剣と華仙女(3)
痛みが届くよりも先に、鼓膜が揺れる。何かを弾くような、金属の甲高い音が響いた。紅妍はそのようなものを身につけていない。体に痛みはなく、何かが触れたあともない。
これはどういうことだろうかと、おそるおそる瞼を開く。
そこにいたのは鬼霊ではない。影だ。大きな影が、紅妍の姿を覆っている。たくましいその背をゆっくりと見上げる。風に揺れる長い髪。その手が握りしめるは、光を浴びて黄金色に輝く宝剣だった。
「……間に合ったか」
宝剣の主が呟く。そこにいるのは秀礼だった。幻ではなく本物の、英秀礼である。
彼は宝剣で爪を受け止めていた。ぎりぎりと歯を噛みしめて耐えているようだったが、ついに爪を振り払う。そのはずみで辛皇后がたじろいだ。
「秀礼様、なぜここに――」
「話は後だ! 辛皇后を抑える。その間に琳琳を逃がせ」
秀礼の怒声で紅妍も我にかえる。そうだ。辛皇后をどうにかしなければ。
紅妍は琳琳の手を掴んで引きずるようにし、坤母宮を出る。門から少し離れたところならば大丈夫だろう。そこで琳琳の手を離そうとすると、涙で潤んだ瞳が紅妍を見上げた。
「わ、わたし……華妃様にひどいことばかりしてきたのに、どうして庇うなんて……」
「誰であろうと守るだけ」
「でもわたしは……華妃様に守ってもらう資格なんて……」
琳琳としては忌み嫌ってきた華妃に守られたことに衝撃を受けているのだろう。彼女の矜持は崩れ去り、涙としてこぼれているような気がした。
「大丈夫だから。立ち上がって、ここから離れて」
紅妍は琳琳の肩を優しく叩く。それからもう一度、坤母宮を見やる。
再び駆け出す。琳琳の泣き声はしばらく聞こえていたが、紅妍が坤母宮に入るとそれも聞こえなくなった。
坤母宮の門をくぐると秀礼が宝剣を構えて、辛皇后を睨めつけていた。
宝剣の所持者である秀礼が来たことは心強い。これならば厄介な指を斬り落とすことができるだろう。それに指は黒百合で覆われている。百合の呪詛を仕掛けた反動として失った箇所だ。宝剣で切り落とせば、辛皇后を蝕む痛みは減るかもしれない。
「秀礼様、あの指を斬り落とせますか」
「わかった」
頷くと同時に秀礼が駆ける。その勢いに気圧された辛皇后が後退りをしたが、秀礼の方が早い。
すかさず懐へと入り込み、剣で斬り払う。うまく、片手の指を落とすことができた。ぼたぼたと地に落ちる。
次いで、くるりと回転するように身を翻す。鬼霊は指を失ったことで動じているのか動きが鈍い。今度はあっさりと対の手も落とすことができた。指は黒い液体をこぼし、無数に咲いた小さな黒百合に覆われたまま落ちていく。
「よし。斬り落としたぞ」
秀礼の合図と共に紅妍も辛皇后のそばに寄る。長い爪を失ったことで攻撃手段は防いだ。あとは浄土に送るだけである。
(想いが詰まった品はない。うまく浄土に送れるかはわからないけれど――)
手中にのせた白百合に力を託す。そこで、辛皇后の面布が落ちた。はらりと地に落ち、その顔が顕わになる。
「……我は、」
何かを言おうとしている。花渡しのために集中していた気は途切れ、紅妍は皇后を見上げた。
「呪詛など、かけなければよかった」
その声は先ほどと違い、正気を感じるものだった。
指に巣くった黒花が辛皇后を苦しめていたのだろう。しかしそれは宝剣によって斬り捨てられた。百合の呪詛の代償から解き放たれているのである。そのため一時でも我に返ったのかもしれない。
「璋貴妃が、宝剣を扱う子を産んだ璋貴妃が、妬ましかった」
これに秀礼が険しい顔をして問う。
「母に呪詛を仕掛けたのは、辛皇后か?」
「そうだ。けれど、知らなかった。呪詛の痛みがこれほどにひどいことを」
「当たり前だ。人を殺すような道具だ。代償はあるに決まっている」
皇后の悔恨はそれだけではない。璋貴妃を呪った代償として失ったのは指だけではないのだ。帝の信も、そのときに損なわれた。
「あれほどに、帝が璋貴妃を愛していると、知らなかった」
「じゃあ帝が辛皇后に呪詛をかけたのは、復讐のため?」
紅妍が問う。辛皇后は答えなかった。胸に咲いた黒の瓊花は、帝が施した呪詛によるもの。ひとつの呪詛が、次なる呪いを生み出してしまったのだ。




