2.櫻春宮の黒百合(4)
目が覚めると薄暗かった。手燭の火も消えている。月明かりが差し込んでいなければ部屋は真っ暗だっただろう。
あの後は冬花宮に着く前に眠りに落ちてしまった。秀礼がいつ帰ったのかもわからない。
部屋を出れば宮女たちがいるのだろうが、まだ起き上がる気にはなれなかった。このままもう一度眠れそうである。
しかし、出来なかった。眠気で朦朧としていた頭は部屋に満ちる香りで冴えていく。
(血のにおい――鬼霊)
鬼霊が、部屋にいる。血のにおいの濃さからしてすぐ近くだろう。
同時に血のにおいだけではない別の香がした。花の香りだ。
紅妍は身を起こして部屋を見渡す。それと同時に、この香りが何の花だったかを思い出そうとした。
(いた。鬼霊だ)
それは女人の鬼霊だった。だが瓊花の鬼霊ではない。顔もきちんと見えている。こちらをぼんやりと眺めている。紅妍から少し離れたところにいたがこちらに寄ってくる様子も、敵意も感じられなかった。
鬼霊は見事な襦裙を着ていた。しかし胸に大きな百合が咲いている。その百合は淀んだ黒色をしていた。
(また、黒百合か)
どうも黒花と縁がある日だ。几には花が飾ってあるのでもしもの時はその花を手に取ればいい。室内で鬼霊と遭遇した時のことを考えて、常に花を飾るようにしていた。
鬼霊は襲いかかる気がなく、むしろ何かを伝えようとしているようだった。口をぱくぱくと動かしているのだが何も聞こえてこない。声はとうに失われているのだろう。
「……わたしに、伝えたいことがある?」
落ち着いた声で、問う。
鬼霊は答えなかった。唇を動かそうとし、けれど諦めたように目を伏せる。この鬼霊は自我を保っているようだ。だからこそ紅妍の声を聞き、何かを伝えようとしているのだろう。
そして、鬼霊は膝を曲げた。その場に、何かを置いたのである。それを置き終えた後、するすると煙があがる。その煙は鬼霊の足先から生じ、あっという間に全身を包んでいく。
「待って。消えないで」
声をかけるも間に合わず、鬼霊は煙となって消えていった。
紅妍は立ち上がり、鬼霊がいたところに寄る。そこに置いてあったのは白百合だった。
そこで気づく。血のにおいは消えている。けれど、花の残り香はまだ残っている。この花の名がいまになってわかったのだ。
この香りは百合だ。そして、帝の寝所に通う鬼霊も百合の香りを纏っていると、琳琳が話していたことを思い出す。
ふたつが繋がり、答えが出る。
(いまのが光乾殿の鬼霊?)
光乾殿の鬼霊だとするなら、なぜ冬花宮に現れたのだろう。そして、ここに残された白百合。
紅妍はそれを手に取る。いま摘んできたばかりのようにみずみずしい。
(わたしに、花詠みをしろと伝えたかったのかもしれない)
声を持たぬ鬼霊と、詠みたがる花。それらの声を拾うために、手中の百合に意識を傾ける。昼間の疲労は消えていた。
花に意識を溶かす。同一になる。自らの身は細く縮め、花と混ざり合う。そして探るのだ。この花、鬼霊が伝えたいことを。
(あなたが視てきたものを、教えてほしい)
白百合は、詠みあげる。眼前にその景色が広がった。
庭、である。塀に囲まれていることからどこかの宮だろう。渡り廊下の柱は森よりも深く濃い緑色に塗られていた。
渡り廊下を歩いてくる者は柱と等しく森のような蒼緑の襦裙と衫を着ていた。結い上げた髪には立派な簪が数本、金色の歩揺が揺れていた。後ろ姿しかわからないので顔までは見えない。しかし身なりのよさから宮女ではない。妃だろう。
その後ろには黒布を被った者がいた。恰幅のよさから男だと思われる。二人は渡り廊下の階を下りて庭に出る。
『では、良いのですね』
男が問う。ここから見える位置に咲いた百合を手に取っている。
『これが返ってしまうこともございます。その場合は何かを失うことになるかと』
『命までは取られないのであろう』
『それは、何とか』
『ならば構わん。やれ』
男は百合を一輪、摘み取る。懐から取り出した木箱にそれを収めた。
黒布を被っているということは、この男は姿を隠す必要があるのだろう。忌み色である黒を好むのは限られている。
(呪術師だ)
これは呪詛をかける瞬間の記憶だろう。問題は呪術師にそれを依頼した妃が誰であるか、そして呪いの矛先がどこにあるかだ。
景色が揺らぐ。花の詠み終える頃が近づいている。ここに鬼霊が花を渡してまで伝えたかったことがあるに違いない。
(探さなきゃ。この場所を)
少しずつ暗くなっていく。まもなく花詠みは終わった。




