2.鬼霊の花(1)
華仙の里がある山を下りて大都に向かうまでは二日ほどかかる。金飾の男は輿に乗ったが、紅妍は徒歩を命じられた。その隣につくのは柔和な顔つきの男である。
「私は蘇清益と申します」
道中、男が名乗った。
「わ、わたしは華仙紅妍です。よろしくお願いします……」
「何も取って食べるようなことはしませんので、そう怖がらないでください」
「……は、はい」
彼は敵意はないと示すように穏やかに微笑んでいる。おそらくは強ばった顔をしている紅妍の気を解すためだろう。
紅妍はというと、大都に向かうことはもちろん隠れ里を出るのが初めてであった。山道を歩くことは慣れているが、大勢で列を成して歩くことになるとは想像もしていなかった。
「大都は初めてですか?」
「はい。恐ろしい場所だと、聞いています」
「なるほど。華仙一族からすればそうでしょうね」
その返答から察するに清益は華仙一族が辿った歴史を知っているようだ。紅妍はそれだけではないと首を横に振って続けた。
「大都や宮城には数多の血が流れていますから、鬼霊が山ほど出るのだと聞きました」
「それは当たっているかもしれません。山奥の村や里に比べ、大都は人の数が多い。それだけ生まれる者も死する者も多いでしょう。鬼霊だって多いでしょうね」
鬼霊とは髙の民に恐れられる存在である。その名を口にすれば怯える者もいるというのに清益は表情変えることなく淡泊な反応だった。
「……期待外れにならないと良いのですがね」
ぽつり、と清益が呟いた。その言葉の真意を探れるほど、紅妍はこの男を知らない。ちらりと横顔を確かめた後、再び山道へと意識を戻した。
髙の中心、それが大都である。他者の侵略を妨げる高い塀に囲まれた中には紅妍の想像を超えるたくさんの人々が住んでいた。行き交う人々の多さや大通りに響く喧騒に、宝飾や菓子などを並べた店たち。紅妍が一人であれば、ここで立ち止まって辺りを見渡すのに忙しかったことだろう。
「いまは疫病が流行っていますから、このまま宮城に向かいます」
一行は大都の中心部にある高い二重塀に囲まれた門までやってきた。紅妍にとって初めての大都はあっという間の出来事となってしまった。寂しいような気持ちはあるが、物見遊山として来たわけではない。この先は帝がおわす宮城である。高い塀を見上げながら紅妍は深く息を吸いこんだ。
宮城に入って再び歩く。絢爛な作りの殿舎がいくつもあり、書を抱えた宦官が歩いている。殿舎の前や門の前には武官が立っていたが、こちらがやってきたことに気づくとそれぞれ頭を垂れた。ここは帝による執政の場であり、外廷と呼ばれる場所だということは清益が教えてくれた。
石の階を昇り、朱に塗られた門の前で一行は止まった。金飾の男も馬から下りる。ここまでついてきた一部の武官は離れていった。
「さて、華仙紅妍とやら」
金飾の男が言った。紅妍の名は伝えていなかったが、道中に清益との会話を聞いていたのだろう。
「この先にあるは内廷。覚悟はできているな?」
「はい」
「お前が偽物であった場合は即刻斬り捨てる」
威圧的な言葉と共に、男は提げた刀に触れる。いつでもこの刀で斬り捨てるということだろう。紅妍は再び深く頷いた。
そうして一歩。境界線のようにそびえ立つ朱塗りの門を越える。
その瞬間であった。
ぞわりと肌が粟立つ。踏み出した足先から粘ついたものが絡まっていくように感じた。空気は重苦しく、息を吸いこむも頭がくらくらと揺れる。
(血のにおい……これは……)
この感覚は知っている。紅妍は辺りを見渡した。どこかに、血のにおいを放つ元凶がいるはずだと察したのだ。
内廷と外廷を隔てる塀沿いに緑地がある。そこにいくつもの連翹が植えられ、小さな黄色い花がひしめきあって咲いていた。その連翹をじいと睨みつけていると、そこから面布をつけた者が現れた。薄鼠の盤領袍を着ていることから宮勤めをしていた男だろう。おそらくは宦官か。
「鬼霊……!」
紅妍は叫んだ。宦官の鬼霊は紅に艶めく刀を手にしていた。肌の血色は悪く、ふらふらと歩く。その姿に生を感じることはなかった。
鬼霊とは、死者の魂である。本来、死者の魂は浄土に渡るのだが、不本意な死を迎えた者や生への執着が強い魂は浄土に渡れず、現世に残ることがある。肉体はとうに失われているので実態はなく、生の輝きを欠いているため思考は衰え、恨みや悲しみに支配される。
恨みに駆られた鬼霊は生者に刃を向け、時に命を奪うこともあった。それでも渇望はつきず、浄土に渡らず彷徨い続ける。髙で最も恐れられるのが鬼霊だ。
不自然と身を揺らしながら、鬼霊がこちらに向かってくる。紅妍は一歩後退りをした。
「華仙術師とは……期待外れか」
たじろいだ紅妍に対し、金飾の男が呆れたように呟いた。隣に立つ清益も小さくため息をつく。
「紅妍。できぬのなら下がれ」
「……っ」
「そこで見ていろ」
そして男は提げていた刀に手を伸ばす。鞘から抜かれたそれは金に輝く刀だった。金の刀身には翠玉や紅玉といった装飾が埋め込まれている。武官が持っていた刀に比べれば鋭さは感じないものの、目を奪われる。触れてもいないのにその刀が重たいもののように思えてしまった。
「鬼霊め、消えるがよい」
男が駆ける。鬼霊もすかさず男に刀を振ろうとしたが、軽い身のこなしでそれを躱し、やすやすと鬼霊の背に回り込む。
金の刀が鬼霊の首に添えられたかと思うと、次の瞬間には役目を終えていた。首を斬られた鬼霊はごぼごぼと苦しそうな音を立ててその場に崩れる。斬られた首から水音が溢れるような音がし、褪せた紅の花びらが舞った。鬼霊は死者であり、血を欠いているため血が流れない。その代わりに花が舞うのだろう。血のような紅である。
(なんて惨い……鬼霊が泣いている……)
溢れ舞う紅の花びら。崩れた鬼霊の体は花びらに埋もれて溶けていく。これが生者ならば血の海に沈むようなものか。しかし鬼霊は実態を持たないため溶けた後は何も残らない。
それが紅妍にはひどく悲しいもののように見えた。生にしがみつくほどの執着を抱いているだろうそれは、鬼霊に落ちて再び苦しみを味わったのだ。二度殺されるような苦しみ。生に向けて精一杯伸ばした鬼霊の青い手が、救いを求めているように見えた。
しばらく立ちすくんでいる間に鬼霊は消えた。金飾の男は手にした刀を空で振う。刀は何も汚れていなかった。それを確かめ鞘に戻した後、男は紅妍の方へと歩いてくる。
「華仙紅妍。この程度の鬼霊も祓えぬとは――」
期待外れだ、と言いかけていたようだが、それよりも先に紅妍が動いた。
「あなたは、ひどすぎる」
遮って叫ぶ紅妍に、男の目が丸くなる。
「叩き斬って祓うなんて、あれでは『祓い』と呼べない。浄土に辿り着けず、再び鬼霊となるかもしれないのに」
「お前、私のやり方に文句をつけるのか。青ざめて動けなかったくせに」
「あれでは二度殺すようなもの。生きて、死んでもなお殺される。あのような苦しみを与えるなんて惨すぎる」
「何だと……」
男は不快感を顕わにして紅妍を見下ろしている。紅妍も負けじと男を睨み返し、それから歩き出した。
「あなたは鬼霊を無視している。本当の『祓う』とは鬼霊の心に寄り添うこと。心を詠むこと」
「ほう。ではお前ならば鬼霊の心に寄り添えると?」
「……あなたよりは」