1.光乾殿に通う鬼霊(2)
案外その日は早く来るものだと紅妍は学んだ。琳琳がきて数日後、紅妍の姿は光乾殿にあった。帝への目通りが叶ったのである。秀礼と共に光乾殿に向かえば、到着を待っていたらしい韓辰が恭しく頭を下げた。
「秀礼様、華妃様。帝がお待ちしております」
朱に塗られた殿を通る。渡り廊下、廊下、どれも鮮やかな朱色に塗られ、壁や柱には惜しみになく宝飾が埋め込まれている。秋芳宮や冬花宮とは比べものにならない美しい場所だった。
通された部屋でしばし待つ。すると韓辰に支えられるようにして、帝がやってきた。秀礼と紅妍は立ち上がり、その場に膝をついて揖する。
(帝――髙の象徴と呼ばれるお方)
謁見が叶ったといえ体調はよくない。肌艶は悪く、年齢にしては老いているような印象を受ける。冕冠や冕服は身につけず、ゆるやかに帯を巻いた袍を着ていた。帝はゆっくりと榻に腰を下ろす。体を起こしているのはつらいようで、身を斜めに預けていた。
「華仙紅妍だな。話は聞いている」
名を呼ばれ、紅妍は顔をあげた。
「はい。華仙の隠れ里から参りました」
「華仙術を使うらしいな。それはどのようなものだ」
「花の記憶を詠み、鬼霊などを花にのせて祓う術でございます」
ここで秀礼が口を開く。
「紅妍は宮城に現れた鬼霊を二度ほど祓っております。先の、秋芳宮での一件も紅妍の功績によるものです。彼女が鬼霊と化した楊妃を祓いました」
だが帝の表情はあまりよくない。紅妍に対し、厳しい顔つきをしている。
過去に華仙術師は迫害を受けている。当時の帝が仙術や巫術の類いを畏れ、疎んじたためだ。それによって多くの術士の血が流れている。眼前におられる帝がそういったものに疑念を抱くのは仕方のないことだと紅妍は考えていた。
「紅妍。お前はこの光乾殿をどう思う」
帝が訊いた。それはここに満ちている気のことを指しているのだろうか。悩みながらも紅妍は答える。
「鬼霊が出ています。負の気が濃いことから、呪いの類いも光乾殿を苦しめているかと」
「ほう。鬼霊か」
「ここの気は重たく、呪いの瘴気に満ちています。かすかにですが後殿から鬼霊が放つ血のにおいも混ざっていますので、二重の苦に掛けられていると見受けます」
光乾殿の中に入れば、外にいるよりも血のにおいが近づいた。だが呪詛の瘴気が濃いため細かな場所までは特定できない。光乾殿のどこかに鬼霊が潜んでいるのだろう。
願わくば細部まで調べたいところだが。紅妍の話を耳に入れても、帝の険しい顔つきは変わらない。
「それで、お前は光乾殿の鬼霊を祓いたいと」
「はい。御身を苦しめているのは鬼霊と呪詛の二つでしょう。それを祓えば快復すると考えております」
「……だろうな」
ぼそりと、帝が呟いた。紅妍や秀礼から視線を外し、どこか別の場所を眺めながらの言葉である。
(すんなりと聞き入れている。まさか帝自身も鬼霊や呪詛が原因であることを知っている?)
様子をつぶさに観察しながら考える。眼前の者に動揺はまったく見られなかった。易々と紅妍の話を受入れている。
帝の視線は秀礼へと向けられた。
「秀礼。お前は宝剣を託されているな」
これに秀礼が小さく返事をする。彼の腰には鞘に収まった宝剣が提げてある。
「宝剣は鬼霊を斬り捨てるもの――鬼霊への手段を持つ二人に命じよう」
帝はそこで言葉を打ち切り、数度ほど咳き込んだ。痰が絡んだような咳で、血が混ざっていてもおかしくない音をしている。ひとつ息を吸うだけで全身の力を使わなければならないようだ。韓辰がそばにかけより、背をさする。それが落ち着き、呼吸を整えた後、改めて帝が告げる。その声は枯れていた。
「光乾殿の鬼霊は祓ってはならぬ」
「は――そ、れは」
「肝に銘じよ」
そう告げると帝は手をあげた。苦しそうに胸元を押さえている。再び韓辰が帝の体を支える。どうやら謁見はここで終わるらしい。帝を見送るため紅妍は立ち上がる。秀礼は呆然としているようで反応が遅れていた。このような命が下るなど、想像もしていなかったのだろう。
(光乾殿に鬼霊がいることは間違いないというのに。なぜ帝は、鬼霊を祓うなと命じたのだろう)
ちらりと見やる帝の背は、苦しそうに丸まっている。




