閑話.月夜の計画、紅髪に触れて(4)
日が沈む。そろそろ宮城へ戻る頃だろう。
簪の一つでも買おうと思っていたのだが、紅妍が装飾品に興味を示す素振りはなかったことや、馴染みの店が閉まっていたことも影響し、結局買うことはできなかった。
二人は、ここへ来るときと同じく荷車で宮城に戻る予定だった。その場所に向けて歩く。
「今日はどうだった?」
秀礼が聞くと、隣を歩く紅妍が顔をあげた。
「とても楽しかったです。初めて見るものや食べるものばかりでした」
「よかった。お前はどの食べ物が好みだった?」
好みを知れば、今度はそれに似たものを持っていこうと考えていたのだ。紅妍は顎に手を添えてしばし考えこむ。それから呟いた。
「団子、ですかね」
随分と質素な好みだ、と内心で驚く。しかしすぐに理由が語られることとなった。紅妍は遠くに見える山を眺めながら話す。
「あれに似たものを里で食べたことがありました。幼い頃に、たった一度だけですが。あの味はその時のことを思い出しました。団子の形も味も、ぜんぶ似ていましたから」
横顔がひどく切ないことから良い思い出とは言い難いのだろう。察して、秀礼は黙りこむ。
すこしの間を置いた後、紅妍が言った。
「でも今日の方が美味しかったです」
足を止めて微笑む。夕日が紅妍の頬を朱に照らした。それは妙に可愛らしく見える。
「秀礼と一緒に食べたから、美味しかったです」
「……そうか」
「今日はありがとうございました」
紅妍が頭を下げる。紅髪は夕日がさしても変わらず紅い。光に艶めく髪に触れればまた心は凪ぐのだろう。背丈は自らより小さく、見下ろす形になるほど小さい紅妍の頭を撫でたかった。無意識のうちであればできたのかもしれないが、ひとたび考えてしまうとうまく行かない。むずむずと頬が熱くなる。平常を保ったまま手を伸ばそうのは難しそうだった。
(やはり簪を買えばよかった)
簪を買っていれば、ここで紅妍の髪に触れる口実になっただろう。近くにいても触れることができず、その理由となるものがあればよかったと思う。
(花を挿しても似合うのだろうな)
どこかに良き花はないかとあたりを見渡して――その時である。荷車がある方からやってきた人物は、いま最も会いたくない者だった。
「おや。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですねえ」
微笑んでいるが声は嫌味を込めて粘ついている。その顔を確認せずともわかる。清益だ。そして怒っている。
「……まったく。昨晩の秀礼様が随分と上の空だったのでそんな予感がしていました」
清益は紅妍と秀礼の姿を確かめた後、わざとらしくため息をついた。清益に知られてしまったとなって紅妍は慌てたのだろう。秀礼を守るように一歩前に立つ。
「あ、あのわたしが……」
紅妍が言い出して大都にきたのだと嘘をつくつもりだったのだろう。だがそれは、清益が被せるようにして防いだ。
「そう庇わなくてもわかっています。あなたを連れ出したのは秀礼様でしょう。今朝方出した文でしょうね――となれば藍玉が噛んでいる可能性もある」
「藍玉は巻き込まれただけです。お咎めはわたしに」
「ええ、もちろん」
にっこりと清益は微笑んだ。
(しばらく嫌味を聞かせられるのだろうな)
こうなった清益は朝から晩まで粘っこく嫌味を語る。腹のうちの黒さが次々と溢れでてくるのだろう。秀礼は頭を抱える。清益のこともだが、急に寂しさがこみあげている。身を裂かれるような、落ち着かない心持ちである。
(どうして寂しいと思ってしまうのか)
花が咲いていたら、と思う。
簪を買っていたのなら、と思う。
宮城に戻ってもその憂いは消えてくれなかった。
「……昨日も申し上げたと思いますが、」
空はとっぷりと暗くなり、濃紺の時間になる。昨日よりも少し欠けた月が輝いている。宮城を抜け出した罰だと叱られ、月見酒の提案は却下された。清益は顔を合わせるたびにねちねちとうるさい。
「わかってる。不用意に親しくするなと言いたいのだろう」
「これは華妃の立場も、秀礼様の立場も悪くすることですから」
しかし散々叱り続けて清益も疲れたのかも知れない。声音を和らげ「しかし、」と続ける。
「今日の判断は正しいのでしょう。宮城より大都の方が変な噂を立てる者はおりません」
後宮内であのように連れたって歩けばすぐに噂が広まる。ならば大都の方がよい。後宮の噂は風のように駆け抜けては広まるものだ。それを秀礼もよくわかっている。それを行いそうな者の顔を思い浮かべると同時に、清益が呟いた。
「特にあの方などは、華妃を嫌うでしょうね」
「……ああ」
名を出さずとも、二人は同じ者を思い浮かべているのだろう。皇后の姪である彼女はなかなか扱いが難しい。
(あれが紅妍に関わらなければいいが)
手を打っておきたいところだが、下手すれば紅妍と秀礼について騒ぎたてられることだろう。何事もなく過ぎるのを願うしかない。
「ところで秀礼様、」
「なんだ」
この話はどこまで続くのだろうとうんざりしながら聞く。だが出てきた言葉は秀礼の予想を超えるものだった。
「あのような場面では女人に贈り物をしたらいかがでしょうか。簪だとか花だとか、そういったものを贈るのは大事だと思いますよ。どうせ食べ物ばかりでしょう、色気を欠いた贈り物は嫌われますよ」
事もなげに清益が言う。荷車へ向かう時のやりとりをしっかりと見ていたのだろう。だからといって改めて言わなくてもいい。そんなことは秀礼自身わかっている。
どう返事したらいいものか悩み、額を押さえる。苛立ちは眉間の皺となってあらわれていた。
清益にとってはこれでじゅうぶんなのだろう。秀礼を少しほど懲らしめてやりたかったのだ。意地の悪い笑みを浮かべながら頭を下げ、部屋を出て行った。
(今度は簪を買おう。花の紋様がついたものが良い)
別に清益の言葉を鵜呑みにするわけではない。秀礼だって買えばよかったと考えていた。
秀礼は顔をしかめて扉から顔をそむけた。腹立たしい。やはり買えばよかった。いや大都でなくてもいい、とにかくあの紅髪に簪を贈りたい。




