8.帰ってきた徳栄
「またまた奥さまの方こそ」と、円佳は白身魚を口に入れ、ひとしきり咀嚼したあと笑いました。下唇の横の艶ボクロがエロテックです。「言っときますけど、ずっと徳ちゃんとはラブラブでしたの。別にトラブルになり、カッとなって衝動的な行動に出たとかじゃありませんったら」
「若いとき、私もね」と、私はワインを流し込み、舌を滑らかにしました。「気まぐれ起こして、せっかく手に入れた宝物を無造作に投げ捨てたり、苛立ちまぎれに壊しちゃったこともあったわ。いまにして思えばずいぶん惨いこともしたと思うの。こうしてなんの因果か、真正面からあなたと向かい合っていると、つくづく若い人の無神経さに背中が寒くなることもあります。いくら誰しも通ってきた道とはいえ」
「疑っているようですが、ごあいにく」
「だったら、どうしてもっと心配しないの。よく平気でいられるわね」
「それは奥さまだって同じ。37年もつれ添った仲なんでしょ? なんでしたら、捜索願、出すべきじゃありませんか。一緒に警察署へ行ってもかまいませんよ。身の潔白は保証できます。なにをやましいことがありましょうか」
「私はどうにかするわけはありません。あなたの方こそ、やましいことしたわけじゃなく、かと言って、徳栄が外部の事件に巻き込まれたんじゃないとしたら――いったいどこへ行ったっていうの。全然ふつうじゃない」
「ここに、あたしがいる時点で、全然ふつうじゃないですよー」
いまさらながら胸は早鐘を打ち、目眩を憶えました。
てっきりこの女が殺害したか、それとも拘束したうえ、どこかに監禁しているのかと勘ぐっていたのです。こうも真っ向から自信たっぷりに否定されると、私も鼻白んでしまいます。
「奥さま。そこまで心配せずともよろしいではありませんか。徳ちゃんは、きっと元気でいますって。あたしにはわかるんです。あの人の行動パターンは読めます。きっと彼のことだから、ビックリするようなサプライズを用意して帰ってくると思いますよ!」
「なにをのんきなことを……」
◆◆◆◆◆
遅々として時間だけがすぎていきました。
夫のいなくなった空虚な忍海家。
定点カメラのように、リビングの一画を見つめました。
私の視界に、ソファへ身を放り出し、心ここにあらずの横顔をさらしている若き日の私が映ります。
憎らしいほど肌のきれいな円佳の、その座った姿さえも絵になるのです。
一点を見つめる在りし日の私。
寝そべっても、乳房はだらしなくぺしゃんこになることもない。若さは重力さえ撥ねのけるのです。
その頬にさした憂いは、愛する男と離れ離れになってしまい、心の痛手を負った娘のそれなのか。それとも別の思いがよぎっているのか。
心を切り離し、凍結させた私には、推し量ることができません。
翌日、昼さがりのことでした。
私は衝動に突き動かされ、家じゅうの部屋をかき分けて夫を捜しました。
クロゼットというクロゼットを開け、ライトで照らし、血痕のひとつでも落ちていないか、目を皿にして隈なく捜索したのです。
ゴミ箱をひっくり返し、くしゃくしゃにされた紙片さえも広げ、なにか手がかりになる遺留物はないか、鑑識顔負けの執念で時間を費やしたのですが……なんの収穫も得られませんでした。
警察に捜索願を提出するしかないと、心に決めたときでした。
夜も10時にさしかかろうという遅い時間。
玄関のチャイムが鳴り、だだっ広いだけの空間に虚ろに響きわたりました。
すわ、あの人が帰ってきたのではないか――。
たしかに玄関のドアを開けた瞬間、私は安堵しました。
半分は予感は当たっていたのですが、もう半分はいまの私を打ち砕くには充分すぎました。
ドアの向こうには、徳栄その人が佇んでいたのは事実です。
けれど、なんの冗談のつもりか、若々しい姿になっていたのです。
ちょうど出会ったころみたいに30歳手前の、すてきな男性に――。
「心配かけちゃったかな。いま帰ったよ。――いやはや、なにせ四半世紀以上も時を遡らなくちゃいけなかったわけだからね。ここまで若返るのに苦労したんだ」
上品な銀髪だった頭はふさふさと豊かなうえ、黒々としていたことに、まず衝撃を受けました。
そして皺ひとつない浅黒い肌。しなやかな手足、若者然とした服装、青春を謳歌し、生き生きした瞳に打ちのめされました。
忘れもしません。あの人と映画館で偶然知り合ったころと、寸分違わぬ同じ姿でした。一瞬にして当時の記憶が甦りました。
前歯が買いたてのワイシャツのように白い。
悪びれたふうもなく、若い徳栄はにこやかに笑ってみせました。
ああ、このメントールみたいな清涼感あふれる笑顔に、かつての私もやられたのです。
結婚生活が長くなるにつれ、夫の無神経な部分が見すごせなくなり、そんな魅力は鮮度を失っていくのですが……。
女は60になっても、一瞬にしてこんな気持ちに戻れるのだと、あらためて再確認したのでした。
そのとき、私の背後から円佳が現れました。
開口一番、
「まあ、徳栄ちゃん! 見ちがえるようになっちゃったじゃない!」
と言って、はしゃぎました。
私を押しのけて戸口で佇む徳栄の胸に飛び込み、しがみついたのです。
若き夫は、まんざらでもなさそうに快活に笑い、円佳をぶらさげたまま小躍りしました。
「これでおあいこだ。やっと昔の君と一緒になれたな!」
さわやかな笑顔をまき散らして、徳栄は円佳の熱烈な歓迎に応えます。
2人は瞬時にして世界にのめり込んでしまい、いまの私だけが取り残されたのでした。