7.徳栄の失踪
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それでなくとも夫の気持ちは円佳に移り、すっかり心奪われています。ましてやいまの私を完全におざなりにしています。
このまま、泣き寝入りするわけには参りません。
徳栄を取り戻す? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
少なくともギャフンと言わせねば、おさまりがつきません。
ある季節はずれの烈しい雨の降る晩でした。
ひっきりなしに雷は轟き、そのうち近所で大音響がしたと思うと、家の漏電ブレーカーが落ちました。
どこかで落雷があったのでしょう。
闇と静けさが忍海家を包み込みました。
邸宅の外ではなおも雨は降りしきり、稲光も閃いております。闇のなかでストロボを焚いたかのように白く浮かびあがり、明滅をくり返しました。
「あーあ、せっかく山場にさしかかってたところなのに――台無し」
テレビのまえでソファにふん反り返った円佳は、不貞腐れた調子で言い、唇を尖らせました。
いましがたまで世間で話題の恋愛ドラマにかぶりついていたのです。
その様子を私は書斎の陰から窺っておりました。
闇のなかで、ときおり稲光がサッシ窓の向こうで走ります。
ギザギザの亀裂が夜空で輝くたび、紫色に光ります。
そのたびにリビングルームはモノクロームに浮き彫りになるのです。
「ねえ奥さま、ブレーカーをあげてくださらない? テレビの続き、見たいんですけど。……それにしても、徳ちゃんは買い物へ行ったっきり、まだ帰ってこないんですかぁ? こんな中途半端な場面でおあずけ食らっちゃうんなら、いっそあたしも出かければよかったな」
暗がりのなかで、ぶつぶつ不平不満を並べています。
書斎の戸口で息を殺して佇んでいる私。ミーアキャットの歩哨のように背を伸ばしてのぞき込み、相手の動きを見守ります。
あえてブレーカーは立ちあげません。
円佳はタートルネックのニットセーターをだらしなく着て、下はデニム地のショートパンツ姿。
長い手足が映えます。羨ましいくらい脚の形のいいこと。ですが、オレンジ色にペディキュアを塗った両足をローテーブルの上に投げ出し、およそ行儀はよろしくありません。
「それにしても徳ちゃん、遅いと思いませんかぁ? ひょっとして車の事故に遭ったんじゃないですよね?――ねえ、奥さまは心配じゃないんですの? どうせ聞き耳立てて、聞いてらっしゃるんでしょ?」
私はその問いかけに返事することなく、書斎から飛び出し、呼吸をとめて忍び寄ります。
スリッパは履いていません。
素足でペルシャ絨毯の上をすり歩き、気配さえ殺して近づきました。
まるで極秘任務を帯びた暗殺者のように。
闇にまぎれて円佳の背後にまわり込みます。
彼女はソファに埋もれたまま、まるで私に気づいていません。
ソファでふん反り返った彼女は、いつしかうたた寝してしまったようです。眼を閉じてすやすやと寝息を立てています。
我ながらかわいい寝顔だこと。
私はついに彼女の背後に立っていました。
天上の神々の怒りか、雷鳴とともに空が輝いたとき、私の姿は影絵となって浮かんだはずです。
まさか掲げた手に大型のモンキーレンチが握られていたことを、円佳は知る由もなかったでしょう。
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あの日以来、徳栄の姿を見なくなりました。ピザを買いにいくと出ていったきり、帰ってこないのです。
定点観測のように見つめていたリビングの一角から、夫だけが忽然といなくなってしまいました。
あれほど円佳にベッタリだったのに、自ら外泊するなんて考えられません。
「徳栄、どこ、ほっつき歩いてんのかな」
と、円佳は退屈そうに洩らしました。
誓って私は殺害しておりません。
いくらこの娘を亡き者にしてやろうかしらと頭をかすめたとはいえ、そのベクトルは先に夫へといくはずもない。
徳栄に対する鈍感ぶりに失望したことはあるこそすれ、いざ実行に移す移さないは別の次元の話です。この円佳であっても、やはり私には鈍器を振りおろすことはできなかった……。
失踪5日目。依然、あの人は帰ってきません。
まさか私たちを捨てて、家を出てしまったとは考えにくい。
とすれば、事件に巻き込まれた可能性があるかもしれない。
ダイニングでの夕食のとき、差し向かいで円佳と食べている最中、私はそのことを口にしました。
「あなた、なんとも思わないの? 徳栄がいなくなっちゃったのは、なにか心当たりがあるんじゃ?」
今日の献立の目玉は、新鮮なスズキのムニエル。
エシャロットを炒め、白ワインと白ワインビネガーで煮詰め、コンソメを加えたソースでいただきます。
他にも真鯛のカルパッチョ、ホワイトアスパラガスのバターソテー、牡蠣ポワレに大麦のリゾットと、本来ならば夫がいなくなって、気が気じゃないにもかかわらず、手の込んだものを作ってしまいました。
もっとも、はじめのうちは円佳も手伝ってくれたのに、最近は怠けてばかりでちっとも協力してくれません。徳栄と乳くり合うことに熱を入れていたせいでした。
おかげで私と円佳の溝は、ますます深まるばかり。
きっと夫が姿を消したのは、この女が一枚噛んでいるにちがいないのです。