5.オリオン座と同じ配置のホクロ
少なくとも忍海家は没落した家系です。これから先、未来が明るいわけではありません。
徳栄はしがないサラリーマンでしかなく、おまけに嘱託の地位に退いたばかり。
邸宅や敷地も、人さまのそれと比べ少しばかり大きいとはいえ、私たちにそれほどの蓄えなど、あるわけではございません。
せいぜい、私の父が残した美術品を売りさばいて資産運用しているにすぎず、いずれ底を尽きます。
眼も眩むような財産を目当てに、この娘が近づいたとは考えにくい。
独立した2人の息子も、夫に似てろくでなしに育ち、滅多に顔すら見せません。
一応、長男は会社経営者ですし、次男は一流企業の会社役員。
かと言って、なにがしかのお金を入れてくれるわけではないのです。むしろ来たら来たで、新しい事業をおこすから工面してくれと、せびられるほどでして……。
いずれにせよ、円佳が忍海家にもぐり込んだところで、さしたるメリットはないのです。
昔からよく言う、『この世には、自分とそっくりの人間が最低でも3人はいる』ではなさそうです。
私と同じ記憶を共有しているのですから、それはありえない。
キスできるほど密着して円佳と向かい合ったことはありませんが、どこをどう見てもかつての青春を謳歌した私自身でした。外見は、です。
――それとももしやこの娘は、私に一杯食わすため、身を削ってまでカラクリを施したのだとしたら?
たとえば私の古いアルバムを持ち出し、若いころと寸分違わずそっくりに整形したとします。過去の情報まで手に入れて、私自身を演じているのだとしたらいかがでしょうか? 役者なみの演技力を持つ人なら、できなくもない。
手の込んだ細工をしてまで、私を陥れ、混乱させ、ゆくゆくは夫を奪い、妻の座を射止めるのが真の狙いだったら? 恐ろしくまわりくどいやり方ですが……。
ですが、そこまでして、70に手が届こうかいう男とねんごろになりたいとは、にわかに信じ難い。
なにはともあれ、この女がほんとうに私自身か、あるいは全身整形までして近づいてきた、別の誰かなのか正体を暴くべきです。
私の身体には、他の人にはない特徴的なしるしがありました。
背中の二つの肩甲骨のあいだに、オリオン座とそっくりの配置のホクロがあるのです。
これはいまは亡き両親と、徳栄しか知らない秘密。いかな財産目当ての偽装工作といえども、そんな手の込んだことはできないのではないか。
どうにかして円佳の素肌をこの眼で見てやり、嘘か誠か確かめるのです。
しかしながら、相手が一枚上手だったら?
もし徳栄が、その情報すら洩らしていたとしたら?
……おお、疑心暗鬼で押し潰されそう。安住の地である我が家にいながら、夫さえも信用できなくなるのではないか。どうせ不貞を働いた身なのです。
とにかく、いまは背中のホクロを見てやることが先決。
円佳が裸になるチャンスを待つことにしました。
◆◆◆◆◆
食事が終わり、徳栄と円佳は覚束ない足どりでリビングへ行ってしまいました。
私はいそいそと洗い物を済ませます。
壁時計を見ました。
8時半まで残すところ20分。いつも円佳はその時間にお風呂を沸かし、一番風呂に入りたがるのです。
お風呂が沸いたことを告げると、円佳は生返事をよこし、酔いが残っているにもかかわらず浴室へ行ってしまいました。
健康維持に心がけているいまの私からすれば論外ですが、思えば20代のころはそんなものだったのです。
忍び足で脱衣所に入りました。
聞き耳を立てます。
すりガラス越しからも見えます。
女はこちらに背中を向けてしゃがみ、シャワーで髪を洗っている姿が映っているのです。
わなわなと震える手を、ガラス戸の取っ手にかけました。
思いきって開けました。
なにを恥ずかしがる必要がありましょうか。どうせ相手は自分そのものなのです。
湯煙のなかで見えた、鮮烈な後ろ姿。
うっとりするほどシルエットがきれいです。腰のくびれは蜂のよう。お尻など、まるで最高品質のラ・フランスみたいな形をしているのです。
若々しい肌は憎らしいほど水を弾き、玉のような水滴をまとっているのです。いまの私とはえらい違い。愕然としました。
――そんなことは、どうだっていい。
ええい!
どうせ一線を越えてしまったのです。いまさら後には退けない。
馨しい薔薇の香料が一面にします。
煙の向こうの白い背中を見おろしました。
細い身体の肩甲骨のあいだをつぶさに観察しました。
絶対に化けの皮を剥いでやる。
オリオン座と同じ配置のホクロは――。
なんてことでしょう。あったのです!
私は顔を近づけ、凝視しました。
特殊な塗料で塗っているようには見えない。明らかにメラニン細胞の変化した純然たる黒点です。
濡れた髪の円佳がふり向き、軽い悲鳴をあげました。
「どうされたのですか、奥さま。びっくり」と、お椀型の胸を両手で隠したまま言いました。「てっきり賊が入ったのかと思いましたわ。でも奥さまでよかった」
「賊だとか……。せっかくだから、お背中でも流そうかなと思いましてね」
「気を遣わなくったっていいのにー。恥ずかしいですよ、やっぱり。いくら未来の私だからって」
「遠慮しない」私はそばのスポンジを手にし、ボディーシャンプーのポンプを押しました。液をたっぷり受け取り、彼女の背中に塗りつけました。「さっきはごめんなさいね。私も酔った勢いで、ついあんなことを口にしちゃって。……だって悔しいじゃない。夫は、あなたに夢中なんですもの」
「奥さまが妬いちゃうなんて。だって自分自身なんですよ」
優しくどころか、けっこう強めにスポンジでこすりつけたのですが、ホクロは取れません。
この小娘め。悔しいくらい、肌がきれいすぎる。
どうやら全身整形どころか、徳栄に頼んでサインペンかなにかで書き込んだわけでもなさそうです。
これで完璧な分身であることがわかりました。
――というか、この娘の思考パターンといい、なにげない仕草、本人にしか知り得ない細かい過去の片鱗、いずれをとっても若き日の私自身であることに、紙一枚の疑いが入る余地はなかったのですが……。