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3.己がアイデンティティの揺らぎ

 なのにいまソファでは、夫は私をさしおき、若い方の私(、、、、、)とイチャイチャしているのです。

 複雑な怒りがこみあげてこないと言えば嘘になります。

 しかしながら嫉妬の相手は若き日の、いちばんきれいだった私に他ならず、反面まんざらでもないのです。夫がデレデレな反応を示すのなら、それはそれで嬉しいと、屈折した感情が私をとりこにするのでした。

 少なくともはじめこそ、私はそう自分を納得させました。


 ソファに埋もれる形で徳栄は円佳の肩を抱き、年甲斐もなく愛を囁くのです。

 円佳も私の眼を気にすることなく、子猫が甘噛みしながらじゃれつくように、鼻にかかったかわいい声で甘えます。


 無邪気にのどを鳴らして飼い主に甘え、ときどき気まぐれを起こして素っ気なくなったり、さりとて放っておくと、頬を膨らませてむくれたりします。思えば、在りし日の私もそうだったのです。

 その姿を、私は少し離れた籐のアームチェアに座ったまま、アールグレイをたしなみながら見つめます。

 定点観測のように、リビングでくつろぐ2人を見守り、それはそれで私にとって至福のひと時なのです。




「ねえねえ、徳栄。この写真って、私たちが付き合ってはじめて旅行に行ったときのよね! 箱根の峠で車、パンクしちゃったんだっけ。あのときの夜のサプライズ、忘れられないよぅ!」


 当の私でさえ忘れていた記憶。箱根でのエピソードは鮮烈に憶えていますとも。円佳は鼻にかかった舌っ足らずの声で、じっさい経験したようにしゃべるのです。


「そうだね。僕もパンクは人生初だったんだ。夜のさなかでやったタイヤ交換は、いまでも忘れられないよ。あれには参った」と、夫はソファの背もたれに埋もれたまま、娘を抱きしめ耳もとに囁くのです。「でも、そのあとの円佳は、すごく情熱的だったよね」


「徳栄ちゃん、すてきだったよ」


「円佳もな。思い出すだけでムラムラしてくる」




 私は赤面すると同時に、目眩めまいを憶えました。

 言いようのない暗澹たる感情が渦巻くのです。

 やはり円佳は若いころの私自身に他ならず、時空を超えてこの世界へやってきたのではないか。

 だとすれば、いまの私はいったいなんなのでしょうか?


 おのがアイデンティティが揺らぐのです。

 どうしてこの忍海家に、私が2人、分裂した形で存在するのでしょうか。そのメカニズムは、少なくとも私の頭では理解できそうもありません。


 ですが、いまは眼を向けずにいましょう。現実逃避するかのように。

 いずれにせよ私も60の大台に達し、嫌でも老いを突きつけられていたのです。ここ10年はなんの楽しみもありませんでした。

 こうして私の分身が現れ、日常に張りが生まれるとは思ってもみなかった。


 定点カメラごしにリビングで戯れる2人を、古い名画でもでるかのように、セピア色の自分の姿を重ね、そのたびにため息を洩らすのです。私は人知れず、身悶えるように戦慄わななくのです。

 徳栄が仮に浮気したとしても、年齢が異なるだけの私自身を愛してくれるのは裏切りではないと思うのです。私に対する変わらぬ愛の変化なのですから、ひがむのはお門違いでしょう。

 わかっているのですが、こうまで2人のゼリーみたいに蕩けあった姿を見せつけられて、




「――だったら、いまの私はなんなのよ!」




 と、訴えない方がおかしい。

 とはいえ、私は声に出さず、我慢しました。

 私のなかでいろんな感情がぶつかり、混ざり、そしてどうにか折り合いをつけていくしかないのです。

 夫にかぎらず、男の行動パターンはこんなものだと割り切るべきでしょう。

 というのも、世の男どもにとって、女の好みは総じて変わらないというのが私の持論です。


 徳栄は若いころから、好きな女優、芸能人の好みも、ある一定の傾向がありました。

 在りし日の私をはじめ、身体は華奢で胸は大きくないものの、脚がスラリとした体形の女ばかりを褒めたものです。


 顔立ちは細面で、色が白く、眼は二重で切れ長、唇の形が色っぽい、眉目秀麗の人を好みました。そうかと思えば、眼と眼のあいだがやや離れた女も、「なんとも言えず、惹きつけられる」と、おっしゃったことを耳にしたことがあります。身長も160以上ないと、彼にとっては話にならないのだとか。


 服装の好みもありました。

 下はスカートもワンピース、パリッとしたパンツ姿でさえよろしいのですが、上はノースリーブなどの、肩がむき出しになったものをとりわけ好みました。

 なんでも、「テカった肩にエロスを感じる」のだと。

 さらに徳栄は続けました。


「そんな女の肩にドラキュラみたいに吸い付きたい。だから君も着なよ。そんな野暮ったい恰好しないでさ」


 私のお気に入りのパフスリーブは、面白味に欠けるとこきおろし、自身の性癖を押し付けるのですから、殿方というのはなんともはや……。じっさい吸い付かれて、キスマークがしばらく残ったことがあります。タンクトップなど着ようものなら、脇の手入れは常に必須。面倒すぎます。




 一人っ子で過保護に育てられたらしく、年上好みだったと思います。あいにく私は7歳年下でしたが。

 もっとも、男自身が年を重ねることによって、若干の好みに変化したりするでしょう。いつまでも年増ばかりを追いかけますまい。

 当然のことながら中年以降になると年下に魅力を感じたり、小便臭いと鼻にもかけなかった学生にも色目を使うようになったりします。オスにとってはよくあることだと思います。


 しかしながら、基本的には核となる好みの傾向があるはずです。とくに徳栄は、もともと好色なのか、こだわりの強い人でした。

 この手の顔立ちは譲れないというか、見かけしだい、口説かずにはいられない。じっさいに行動に移すか否かは別として、すれ違いざまふり返ってしまうような好みのタイプ。


 好みのタイプは、保育園児が初恋を抱く先生と同様、子どものころから決まっている場合が多いと、私は思うわけです。

 したがって、どんな形で私の分身が派生したのであれ、徳栄は円佳と出会ったからには、やはり恋に落ちてしまうのも無理はないと思うのです。

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