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10.雌伏

◆◆◆◆◆


 なんてこと――してやられた。


 どうやら先読みされたらしい。

 金庫には使いかけの殺虫剤があったはずなのに、忽然と消えていたのです。

 地下室の金庫に劇薬を保管していたのは夫も知っていたし、ましてや4桁のダイヤルの開け方も夫婦だけの秘密でしたから、彼が先手を打ったのだと思います。


 これで毒殺は難しくなりましたが……考えてみれば食事は、ほぼ私が作っているわけです。毒物を混入させようと思えば、いくらでもチャンスはあるのですから、常時イニシアチブを握ったも同然。奴らもウカウカしていられないのでしょう。

 

 なんのこれしき、挫けてなるものか。

 フェイントで粉塵爆発による爆殺を計画するのはいかがでしょうか?

 布団圧縮袋に大量の小麦粉を詰め、発火装置で爆発させるのです。ちょっとした細工が必要でしょうが。袋のまわりに大量の釘やナットを散りばめておけば、より殺傷力を増した対人地雷になります。人体どころか、家ごと爆破させかねません。


 家ごと――。

 そうです。奴らの目的は私を忍海家おしみけから追い払い、2人だけの世界を手に入れることなのです。

 しからば――こちらにも考えがあります。爆殺計画は急きょ変更です。

 私の自尊心に賭けて、目にもの見せてやる。


◆◆◆◆◆


 定点観測のようにリビングの一画を見つめます。

 例のごとく、チェスターフィールド・コーナーソファに若い徳栄と円佳が寄り添い、無邪気に戯れております。私がそばにいようがいまいが、おかまいなし。むしろ見せつけてやれ、と言わんばかりに2人だけの世界に没入しているのです。

 白旗をあげることにしました。


「負けたわ」と、私は声を絞り出して、籐のアームチェアから立ちあがると、読みかけの本をサイドテーブルに置きました。「負けました。もううんざり。出ていって欲しいんでしょ。いいです、出ていけばいいんでしょ」


 ソファでくつろいでいた徳栄が眼をまるくして、


「驚いた」と、円佳の腰に手をまわしたまま言いました。「なんだか催促したみたいで悪いね。別にそばにいてくれてもいいんだけど」


「そもそも出ていかれると、誰が料理や洗濯、掃除をしてくれるの。それはそれで困るんですけど」


 と、円佳。


「私がいなくなれば、いままでのありがたみを感じると思います。忍海家はあなたたちに譲るというのです。管理ぐらいやって当然でしょ」


「そ」円佳はあっけなく諦めた様子で、「なら、とめない。どうぞ。なんとかやってみます」


「家事雑用がどれだけ大変か、身をもって痛感なさい」


 私は吐き捨てて、リビングを去ろうとしました。


「おい、円佳。いや、年くった方の」と、徳栄はひどい一言。「出口はあちらですよ」


「あたしが案内したげる」円佳は夫の腕からスルリと抜けると、かけ出し、私より先にリビングと廊下を結ぶ扉に達しました。扉を恭しく開け、エスコートするかのように手をさし出しました。「こちらからどうぞ、奥さま。いままでお世話になりました」




 私は憤怒の感情をねじ伏せ、さりとて悄然と顔をさげることなく、胸を張って出ていきました。あたかもラムセス2世のように気高く。

 背後で彼らの残忍な笑い声が聞こえてきたものの、絶対に涙は見せませんでした。


 玄関を出ると、まばゆいばかりの太陽が輝いています。ヨーロッパをイメージしたエントランスには、乾いたそよ風が吹いていました。

 今日はすべてを葬るにはいい日和です。


◆◆◆◆◆


 かれこれ築128年は経とうかという歴史ある忍海家。

 直方体の厳めしいこの西洋木造建築の邸宅は、私の祖父が当時の選りすぐりの大工職人を集め、持てる技術の粋を凝らして建てたもの。完成は明治26年のことだと聞いております。


 屋根はスレートき。2階建てで、外壁は下見板張りになっており、さわやかな空色に塗装されています。10年のスパンで業者を呼んで塗りなおしていただいているので、ちっとも色褪せず、いつ見ても新鮮です。


 至るところに17世紀の英国ジャコビアン様式の装飾が光ります。

 南側の正面玄関は平面四角形の塔屋の作りとなっています。北側はトスカナ式の列柱が並ぶベランダとなっており、格調高いのが自慢でした。ところどころに配置されたステンドグラスもすてきです。


 いずれにせよ、私名義の忍海家は誇りそのものでした。徳栄はしょせん、私にぶらさがっていたにすぎません。

 ですが、いまや若者に変化した夫とシロアリ娘が結託し、この邸宅を乗っ取ろうとしております。

 不動産の所有権は私であるにもかかわらず、追い出される形となったのです。


 さんざん女房と畳はどうのと馬鹿にされ、私の若いころの分身にさえ存在を否定されたうえ、最後の砦ともいうべき忍海家をも奪われるのは、私にとって筆舌に尽くし難い侮辱行為。

 このままおめおめと、尻尾を巻いて逃げ出すわけには参りません。




 しばらく外に出払っていた私は、ふたたび戻ってきました。

 くり返しますが、2人に家を明け渡すつもりは毛頭ございません。

 私の名誉にかけて戦いたいと思います。

 あえて家に入らず、垣根越しに広い庭を眺めます。


 芝生の敷かれた敷地には、シュロや金木犀をはじめ、オリーブ、沈丁花ちんちょうげが植えられています。

 他にも梅、柚子、栗、柿(果樹を植えるのは家相的に凶とされていますが、祖父のたっての願いで苗木から育てたそうです。毎年、秋が来るたび、甘い富有柿を堪能したものです)などが彩りを添えています。

 いつ見ても艶やかな色合いだこと。

 それらは私にとっての桃源郷でした。


 門から正面玄関までのエントランス両脇を飾るのは、丈の低いラムズイヤー。

 トルコからイランにかけて分布する多年草で、馥郁ふくいくたる香りがうっとりさせるハーブです。なかでも特徴的なのは、柔い毛で覆われた葉で、心地よい手ざわりは『羊の耳』の名称にふさわしい。


 私はマシン(、、、)に乗ったまま、オペラ鑑賞用の、片手ハンドルのついたレトロなオペラグラスで邸宅をのぞき見ました。

 大きなサッシ窓のあるリビングで、相も変わらず若い徳栄と円佳が肩を寄せ合ってくつろいでいます。


 なんてこと――。

 私が出ていったあと、部屋のレイアウトを変えたらしい。ちゃっかり、19世紀ロンドンのクラブで流行ったL字ソファの向きを、座ると庭が見渡せるように模様替えしてあったのです。


 歯ぎしりしました。

 遮光カーテンは開けられ、2人の仲睦まじい姿が丸見え。

 唇の動きで、「愛してるよ、円佳」「あたしもよ、徳栄ちゃん」と言い合っているのすら読み取れました。

 わなわなと手をふるわせ、レトロなオペラグラスをさげ、監視をやめました。

 きっとそのあとで、「口やかましいおばさんが、出ていってくれて清々するな!」と、笑うにちがいありません。

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