泰基との別れ
「ええと、香澄さん、大きい場所から小さい場所を書くって言ってたよね。……日本からでいいのかな? その後は普通に住所? あれ、あの公園の住所なんて分かる?」
「住所は流石に分からないな。市まで書いたら、あとは公園の名前を書けばいいんじゃないのか?」
「そっか」
リィカと泰基が言葉を交わして、リィカがその空白部分に手を伸ばそうとしたところで、動きが止まる。
「泰基、ごめん。わたし、日本語読むだけはできるけど、書くとなると自信ない……」
「……まあ、それもそうか。俺が書いてもいいが……」
「香澄さんが、魔方陣発動する人が書いてって言ってたでしょ。何か紙に書いてよ。それ見て書くから」
「分かった」
近くで様子を見ていたフロイドに言って、紙と書くものをもらう。泰基は書こうとして、こちらも動きが止まった。
「ちょっと泰基、書けるよね?」
「……いや、一年離れるって結構デカいな。スッと文字が思い浮かばない」
「四十年日本人やってるんでしょ。しっかりして」
「四十年も生きてると、色々頭にガタがくるんだよ」
言い返しつつ、落ち着けば思い出すのもそう難しくはなかった。書こうとして……もう一度動きが止まる。
「日本……じゃなく、地球から書くのもありか? いや、太陽系からか?」
「え?」
「ほら、バナスパティが言ってただろ? 風の勇者とやらが言っていた話だ」
「……ああ、ここも惑星だっていう話?」
風の勇者とは、風一つしか適性を持たなかったが、それだけに風の扱いについては誰にも負けなかった、という勇者だ。空を飛ぶことさえ出来ていたらしい。
その勇者が、飛び立って真っ直ぐ進んだら、元の場所に戻った。だからこの世界も地球と同じく惑星で、その外には宇宙が広がっていて、地球と繋がっているんじゃないか、という話があったのだ。
「可能性として、なくはない話だと思う。そうであれば、"太陽系"から書くのも意味がある気がする」
「そうだね、いいんじゃないかな。文字数は大丈夫だから、気にせず書いて。効果のありそうなことは、全部やっていこうよ」
リィカの言葉に頷いて、泰基が紙に書き始めた。
……まあ、最初の「太」の字が、最初は「犬」になってしまったりしていたが、一年日本語から離れていた事を考えれば、そのくらいは笑い話だろう。
目的地は、公園だ。そこまで書き終えてから、再び泰基の動きが止まる。
「あとは、日付だよな。さて、どうするか……」
「どうするって、召喚された次の日にするんでしょ?」
「……そうなんだが、今思い出したんだが、病院から帰ってきたばかりで、冷房の温度をぐっと下げていたんだ。つまり、その低い温度設定のまま一晩経過となると、電気代が……」
帰るとなった途端に、泰基の心配事が急に"日常"になった。が、リィカは半眼で泰基を睨む。
「つまり、電気代のために暁斗を危険に晒すつもり?」
「……しょうがない、諦めよう」
大きくため息をつきつつ、泰基が日付を記入する。
泰基と暁斗が召喚された時間は、日本時間で七月二十三日の夕方の五時か六時頃だった。記入した日付は、翌日の七月二十四日。ついでに時間は五時にする。
保証はないが、おそらく朝五時に設定されるだろう。夕方五時は、十七時であることを祈りたい。
召喚された瞬間から翌日朝五時までの時間は、泰基と暁斗は日本に存在せず、まさに"神隠し"状態となる。
もし万が一、夕方五時の帰還となれば、存在しない時間が半日から丸一日に延びることになる。そうなった場合、冷房代も心配だが、うっかり誰かが自分たちと連絡を取ろうとして、連絡がつかない、なんてことになっていないことを祈るのみだ。
泰基から紙を受け取り、リィカがそれを魔方陣に記していく。
指先に魔力を集めて、空白の上で文字を書いていく。書いていけば、あとでそれが自然に魔方陣の一部になるから、文字数や字の大きさなんかは気にしなくていいと、香澄が言っていた。
『太陽系第三惑星 地球 日本……』と、文字を書いていると、凪沙だった頃の感覚を感じる。
全てを書き終えて、リィカは立ち上がり、魔方陣から出てそのすぐ横に立つ。目を瞑って公園をイメージした。
『凪沙。大学を卒業したら、俺と結婚してほしいんだ』
懐かしい、泰基からのプロポーズを思い出して、唇がほんのり笑みの形を作る。
魔方陣が反応した。
リィカの魔力とイメージに反応し、魔方陣が光る。そして、その光が消えた時、リィカが魔力を込めて書いた文字は、魔方陣と一体化していた。
「つながった……」
自分のイメージと文字が、魔方陣と繋がった。これで間違いなく、泰基と暁斗を帰すことができる。
それを確認して、すぐ隣でのぞき込んでいた泰基を、真っ直ぐに見た。
※ ※ ※
リィカはアイテムボックスに手を触れた。そこから取り出したのは、深緑色の、手の平サイズの巾着タイプの袋が、二つだ。
「泰基、これあげる」
「なんだ……?」
そのうちの一つを差し出される。受け取ると、軽い。
中に何か入っているのか、開けようとしたら、リィカに止められた。
「ここでは開けないで。日本に帰ってから開けてね」
「あ、ああ、分かった」
ほんの少し赤い顔をしたリィカに凄まれて、泰基は少し引きながらも頷く。
その袋をポケットに入れる。今着ているのは、旅装束ではない。街で買った、普通の街の人たちが着ている洋服だ。
旅装束よりは、まだ日本のものに近いから、それを選んだ。
アイテムボックスは置いていく。日本に持って帰ったところで、意味がないからだ。
「ねえ、ちょっと思ったんだけど。家にいるときに、召喚されたんだよね?」
「ああ、そうだ」
リィカの問いに、泰基は答える。ちょうど病院から帰ってきた直後のことだったのだ。
「家のカギ、閉まってるんじゃないの? 中に入れるの?」
なるほど、と思い、泰基はポケットからそれを取り出す。見たリィカは、目をまん丸にした。
「……カギ、持ってるんだ」
「帰ってきた直後だったから、ポケットに入れっぱなしで召喚された。でまあ、持ってくる必要はなかったんだろうが、何というかカギを置きっぱなしにすることに抵抗があってな……」
旅に出るときに、どう考えても不要なものなのだが、そこは染みついた概念とでもいうのか。自分の手元に置いていたわけだ。
ふと、リィカが何かに気付いたように、そのカギをのぞき込む。
キーホルダー、ではない。二センチくらいの四角い布に糸がついただけの飾りが、カギに結ばれている。
「これ……」
言いかけたリィカが、言葉を止める。
泰基が、少し緊張した顔で、リィカに手を伸ばした。
「その、悪いが、今だけいいか。……凪沙」
「――いいよ。なに?」
呼ばれた名に、リィカは一瞬目を見開いて、すぐ笑う。分かってしまった。泰基のリィカを見る目は、凪沙を見る目と同じだ。
泰基の伸ばす手に自分から近寄れば、そのまま背中に手を回され、抱きしめられた。
「不思議だな。凪沙じゃないのに、凪沙だと思えるんだから」
「そっか」
覚えている。あの四角い布。
凪沙が泰基に何か手作りのものがほしい、と言われて、布を切って何となく適当に端の処理をして、適当に糸をつけて、あげたもの。
たったそれだけなのに、凪沙の指は絆創膏だらけだった。
「……あんなの、まだ持ってたんだ」
「ああ。凪沙がくれたものを、捨てられるわけないだろ?」
「……うん」
なんて返していいか分からず、ただリィカは頷く。
泰基の腕の力が、少し強くなった。
「ありがとう、凪沙。会えて、良かった」
「うん、わたしも会えて良かった。……泰基、暁斗のこと、よろしくね」
「ああ、もちろんだ。……でも、もう暁斗は大丈夫だ。お前の、おかげで」
「それでも。それでも、暁斗はわたしたちの子供でしょ」
「……そうだな」
泰基がリィカを離す。そして見えた泰基の表情は、すでに"リィカ"へ向けるものだった。
「ありがとう、リィカ」
「……うん。泰基、元気でね。体に気をつけて」
泰基のその表情の変化を受け止めて、あくまでも"リィカ"として言葉を贈る。
そして、暁斗を見た。同時に、泰基も暁斗に視線を送る。
暁斗の表情に見えるのは、驚愕、そして動揺だろうか。その顔が「まさか」と語っている。
リィカが、暁斗に向けて、足を踏み出した。




