5.隣の芝生は
「ただいま〜。」
「あれ兄さん、帰ってきたんだ。珍しいどうしたの。」
その日の夜、カラッとした腑抜けた懐かしい声がした。
僕には6つ歳の離れた兄がいる。
普段は大学に通ってバイトをして、その時々季節のように変わる彼女と同棲をしている。
「いや〜振られちゃってさ〜!この寒い中追い出されたわ!だからしばらくここに居るよ。」
「そう・・・。母さんは知ってるの?」
「昨日電話したから知ってるよ。」
兄さんは手癖が悪い。
女の人を取っかえ引っ変えしては女の人の家に入り浸って別れたら戻ってくる。
そして新しい彼女を作ったらまた出ていく。
そんな兄である。
きっとまた浮気でもして彼女を怒らせ追い出されでもしたのだろう。
もう21時を過ぎてるのにノコノコ帰ってきた。
「そろそろまともに恋愛したらいいじゃん。男として格好悪いよ。空っぽの恋愛して楽しいものなの?」
「その口ぶりはまだ女を知らないな〜!?若いうちに遊ばないと!女を知ってから男を語るんだなー!お前ホントに兄ちゃんの弟か〜!?」
ケタケタと笑ってくる兄の言葉に飲んでいたミルクティーを吹き出した。
本当に僕の周りにはこんな人種が多すぎて嫌になる。
「ちょ、ホントに澄元といい兄さんといいデリカシー皆無すぎ・・・。」
「なんだよーつれないな。あ、そういえばすぐそこの家なんか凄かったぜ。怒鳴り声と物の割れる音でさ、こんな夜中だから俺亡霊の叫び声かと思ってちびっちゃうとこだったぜ。」
ぞわっと背中が震えた。
何かが僕の頭の中で過ぎった。
「怒鳴り、声のする家?」
「そそそ、なんだっけ、あの星なんとかさんって表札見た。多分あの家だと思うぜー。男の人の怒鳴り声だったけど夫婦喧嘩でもしてんのかな?」
よいせ、と荷物を降ろして胡座かいて座る兄に横目もくれず、一瞬目の前が真っ白になった。
嫌な予感とは皮肉にもぴったり的中するようだ。
「星河さんだ・・・絶対・・・。」
「ん?どした、知ってんのか?」
間違いない。
母さんの話といい兄さんの話といい・・・今日学校に来なかった星河さん。
全てのピースが組み合わさった。
もう居ても立ってもいられなかった。
お節介がどうとか、行ってどうするとか、考えるより先に身体が動く。
「ぼ、僕外出てくる!」
「あ!おい!上着は!」
驚く兄さんの声を無視して僕はマフラーだけを掴んで家を飛び出した。
団地の階段を落ちるように駆け下り、出て駅と反対の方向の道を走って『星河』の表札を探す。
一軒家を3軒ほど通り過ぎたところで街灯の下にしゃがみこむ少女を見つけた。
見覚えのある髪色。見覚えのある背格好。
・・・そして見慣れない痛々しい身体。
「・・・っ、星河さん・・・!」
僕の声にビクッと身体を震わせ少女は顔をあげた。
怯えた子猫のような瞳と目が合う。
「・・・志河、くん・・・。」
泣き腫らしたであろう腫れた目でこちらを見つめるのは確かに星河さんだった。
口の端が切れて血が出ていて、硬い何かが当たったように唇は青紫色に変色し、下唇の左端がパンパンに腫れていた。
髪は乱れて、部屋着のショートパンツから露出した足には緑がかった紫のような痣がいくつも出来ていて、その足は何も履いていなくて、外の気温に耐えれず真っ赤になり、ところどころ赤紫色のようになっている。
このような人の激しい外面的な損傷を目の当たりにしたのは初めてで、目を見開いてその姿を見つめ、僕の唇と手は小刻みに震えていた。
「・・・・・・知ってたんだね、その顔は。」
彼女は力なく笑っていた。
ーーー
僕は力なく笑った彼女を見つめた。
自分がどんな顔をしていた?
分からない。
彼女の目には僕の顔がどう写っている?
目の前がサァッと真っ白になりボヤける。
また、僕は情けなくなる。
僕が今できる事はなんだ。
傷ついた子の前で僕が焦ってどうする。
目を閉じ、息をゆっくり吸い、吐き出して目を開ける。
何かを話そうと口を開いた彼女より先に僕は言葉を放った。
「今、話さなくていい。・・・風邪ひくよ。」
僕は力強く握りしめていたマフラーを彼女の折れそうな首にそっと巻いた。
「理由はどうであれ、僕には怪我している女の子をこのまま放置して過ごせない。星河さんが嫌じゃないのならどうか僕の家で手当されて欲しい。」
びっくりしたように目を見開いた彼女が困ったように微笑む。
「・・・でも、こんな姿、ご家族の人がビックリしちゃうよ・・・。」
「母さんも兄さんも、なんとなく分かっていたんだ、ご近所の人達も知っていたみたいだ。きっとみんな理解してくれる。大丈夫だよ。」
躊躇うようにおずおずと頷いた彼女をおぶって僕は家の方向に歩を進める。
「ありがとう、ごめんね。」
「なんで謝るのさ。僕達、友達なんだし。」
「・・・でもっ・・・。」
「・・・大丈夫。」
彼女の身体はピクッと震え、言葉は詰まった。
上手な優しい言葉をかけてあげれなかった。
いや、そんな言葉をきっと彼女は求めていなかっただろう。
僕には今そっと、身体が痛む事の無いよう優しくおぶり、この氷のように冷たく冷えきった身体を家まで運ぶしか出来なかった。
氷のように冷たい、傷だらけの彼女は、まるで本当に人形のようだった。
ーーー
「ただいま。」
僕が彼女をおぶって家に戻るとまるで分かっていたかのように母さんと兄さんが玄関で待っていた。
「星河ちゃん、蒼月の母です。こちらへいらっしゃい。」
母さんは優しく星河さんに声をかけて僕はそっと彼女を下ろした。
母さんの目は酷く悲しそうに見える。
あられもない彼女の姿に兄さんも眉間をしかめた。
手を引かれて星河さんは母さんとリビングに消えていった。
「・・・お前が俺の話聞いて慌てて飛び出していったから母さんに話したんだよ。そしたらお前と星河さんが友達だって言ってたって聞いたからさ。きっと連れてくるんじゃないかと思った。いや、連れてくるって信じてたよ。家の中に入って強行突破でもしたのか?」
「兄さん相変わらず察しがいいんだね。・・・いや、あの姿のまま星河さんの家の前に座り込んでたのを見つけたんだ。」
「そうか・・・母さん、お湯沸かして暖かいタオルと一応救急箱も用意してたから母さんがどうにかしてくれるよ。男の出る幕じゃないさ。」
「兄さん・・・ありがとう。」
「ったく、何年お前の兄ちゃんやってると思ってんだよ。」
兄さんは僕の額を軽く小突いて、優しく笑って僕の頭をぐしゃっと撫でた。
僕一人じゃきっと何も出来なかったから感謝の気持ちで胸が溢れて、目の奥がじんわり熱くなった。
リビングに兄さんと向かうと手当された星河さんがソファに座っていた。
汚れた足は拭かれ、口元の絆創膏や丁寧に手当されていて、手足が尚更痛々しさを感じた。
力ない瞳でそこに座る彼女はまるで触ると崩れる人形のようだとも感じてしまった。
「志河くん、志河くんのお母さんもお兄さんも、本当にありがとうございます。お世話かけてしまいました。」
「気にしなくていいからね星河ちゃん。辛いかもしれないけれど、少し事情詳しく聞かせて貰っても大丈夫?それとも蒼月と2人きりの方が話しやすい?」
兄さんは優しく星河さんに話しかけた。
「いえ、大丈夫です。手当もして頂いたので、きちんと話そうと思います。」
僕達はリビングのテーブルにつき、星河さんから話を聞くことになった。
自分の想像していた以上に早くこの残酷な事実と対面する事になって、正直、心の整理が間に合っていなかった。
「ご近所で噂になっていると思うのですが、私はずっと親から虐待を受けています。」
彼女はハッキリと淡々と話し始めた。
「実は私の父は義父でして、私の母の再婚相手なんです。実の父の顔はもう覚えていなくてその人について何も知らないし覚えてないんです。二人が再婚したのは私が8歳の時でして、義父は、母の以前の男との娘である私が大層気に入らなくて私への態度は初めて会った時から明らかでした。そして義父は自分で会社を持っていまして、多忙で家を空ける事が多いんです。その間母は寂しさで私に八つ当たりして物を投げたり、ぶったりして母が暴力を振るう事が多くなりました。元々短気な義父は仕事での不満を最初は母に当てていたのですが、それに耐えかねた母が義父の居る時は逃げるように外を出歩くようになり、そこから新しく男を見つけたのかなんなのか、もう今では殆ど顔も合わせません。そして義父の不満は私に向けられ、帰ってくる度に殴られ蹴られ、床に叩きつけられたり真冬に裸でベランダに出されたり暴言を浴びせられたり・・・。母も顔を合わせると暴力を振るうので2人ともそういう感じです。昨日から義父が帰ってきていてこのような事になってしまって・・・皆さんに迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。」
そこで彼女の話は終わった。
キュッと痛々しい唇を噛み締めていた。
「じゃあ今は星河ちゃん、基本は家で一人なの?」
「そうですね、二人とも帰ってこない方が多いので基本一人です。」
「警察とか児童相談所とかに相談したりしないの?」
「二人とも酷く世間体を気にしているので周りには確証が得られないように相当見えるとこにはあまり殴ってきたりせず、もし顔とかに痣が出来れば治るまで外に出るなと言われて・・・。もし警察や児相に私が相談したとバレたらきっとただじゃ済まないと思います。それに警察に相談したところで泣き落としなり、お金で取り返したり誤魔化したりしてあの2人はきっと私を手放さないので・・・。」
母さんからの質問にも星河さんは顔色一つ変えずに答える。
だが目線はずっと下を向いていて、こんな話をしてきっと内心思い出して辛いのではないだろうか。
兄さんは黙って話を聞いていて、僕は彼女にかける言葉が見つからず、僕も黙り込んだ。
「・・・あの、失礼ですが志河くんのお家、お父さんは・・・?この時間なのにいらっしゃらないみたいなのでお仕事かなと・・・。」
「あぁ、うちの亭主、実は五年前に他界しちゃったの。病気でね。」
「・・・お線香あげに行かせて貰っても大丈夫ですか?」
彼女の問いに母さんは優しく了承した。
この季節はマフラーをつけて着込んでも寒い。
星河さんの部屋着と思われるものはとても薄く、これで外に居たのかと思うほどのものだった。
それなのにこの時期に、しかも女の子なのに真冬で全裸でベランダに・・・。
恐ろしくて、星河さんの環境に訳も分からず掌で顔を覆った。
僕達は線香をあげる布越しでも分かる細く骨ばった彼女の薄い背中を見つめていた。
「凄くいい子なのね。あんないい子なのに、どうして・・・。」
そう言う母さんの目からは涙が溢れていた。
星河さんはそのまましばらく父さんの仏壇の前から離れなかった。