最後の日
今日で地球が滅亡する。
そう言われたらあなたは何をしますか?
私はきっといつもと変わらない一日を過ごすと思う。
ずっとそう思っていた。
一ヶ月ほど前から騒がれ始めた地球への小惑星の衝突。
あまり詳しいことは理解できなかったが、それがどうやら今日らしい。
特に一緒に最後を過ごしたいと思う相手もいない。
幸い今日は日曜日。
私は愛犬ブックの散歩に行き、そのあとドッグカフェでお茶でも飲もうと思っていた。
そう、あの人を思い出すまでは。
三年ほど前に関係を絶ったきり一度も会うことはなかった三つ年下の彼。
驚くほどモテる人だった。
特別顔がいいわけではなかった。
確かに背が高くすらっとしていて、普段の癖で斜に構えて気だるそうに立つ姿は人目を惹いた。
寡黙で独特の雰囲気を持っていて、何を考えているのか分らない人だった。
とても仕事ができる人で、年下のくせに出会ってあっという間に出世して。
三年後にはいつの間にか私の上司になっていた。
いつも一緒に居た人。
付き合っていたのかと聞かれれば首を縦に振ることはできない。
私は彼のことが大好きだった。
彼の数少ない休みに二人で一緒の時間を過ごすことが当たり前だった。
私たちを良く知る人たちはみんな口を揃えて、熟年夫婦のようだと言った。
言葉に出さなくても分かり合える、そんな関係がとても居心地が良かった。
それでも私は彼に面と向かって想いを告げたことはなかった。
なぜなら彼はそれを望んでいないように思えたからだ。
とても遊んでいる人だった。
私はそれを知っていた。
同じ会社の女の子に手を出していたこともある。
私に知られると決まって申し訳無さそうな顔を見せたが、そのあと必ずこう呟いた。
『病気なんだ』
そう、彼の女遊びは病気のようだった。
彼からは誘わない。
女の子たちが誘ってくるのだ。
一時期、会社の女の子たちが彼を落とせるか賭けをしていたことがあった。
身体の関係を持った子もいた。
そしてそのあと彼は容赦なく彼女たちを切り捨てた。
私は彼女たちの姿を自分に重ねて見ていたのだ。
なんとなくで始まった私たちの関係性はとても希薄で。
重い言葉を口にすれば、私も捨てられるのではないかと思っていた。
人の痛みの分るとても優しい人なのに、残酷でとても冷たい人だから。
それでも私のところに帰って来てくれればいいと思っていた。
私はそれで満足しているのだと、自分で思い込んでいた。
これが一生続くのだと。
でも、それはある日ぷつりと途切れてしまった。
私が壊れてしまったからだ。
彼が彼女たちのところから帰ってくるのを待つのが疲れてしまったのだろう。
私は自分が口走った言葉を覚えていなかった。
それでも、五年間続いた彼との関係が終わったのは理解出来た。
私はそれが辛くて、会社から逃げ出した。
それ以来彼とは会っていなかった。
私は今車を走らせている。
以前も、恐らく今も彼が住んでいる全国でも有名な地方都市。
私も昔住んでいた街。
港にある水族館に隣接する雑貨屋さん。
雑貨好きの彼と出かけると、どこに行っても大抵最後はここに落ち着いた。
色々な本やCDが沢山置いてある珍しい雑貨屋で、そこで彼は雑貨を、私は本を立ち読みして思い思いの時間を過ごしていた。
そのあとは、目の前にある海が見える広場のベンチでボーっとするのがいつものパターンだった。
目の前に広がる懐かしい景色。
たった三年で変わるはずもなく。
雑貨屋は当時と同じ佇まいで私を迎えてくれた。
地球最後の日だからか、お客さんはほとんどいなかった。
私は「天使の辞典」と書かれた一冊の本を手にとった。
十センチほどある分厚い本で、延々と天使の詳しい解説が載っている。
以前はここへ来る度にこの本を立ち読みしていた。
最後だからと、私はその本を買うことにした。
そうだ、あのいつも座ったベンチで読もう。
そう思い立って、私は店を出て目の前の広場へと足を向けた。
雑貨屋と同じく、三年前と何も変わることのない潮の香りと海の景色。
最後の日とは思えないほど鮮やかな空の色。
それでも、今こうしているあいだにも最後の時は刻一刻と迫っている。
そう思い、私は小走りでいつも座っていたベンチに向かった。
視界に捉えたベンチには先客がいた。
私は足を止め、呆然とその後姿を見つめていた。
視線を感じたのか、先客が不意に立ち上がって振り返る。
「お久しぶりです」
寝起きの彼特有の少しかすれた低い声。
先輩だからと最後まで直すことがなかった敬語。
三年前と変わらない爽やかで優しそうな落ち着いた笑顔。
でも、私はそれが見た目だけだと知っている。
彼が意外に腹黒いのはごく内輪だけが知っている事実。
それでもその笑顔の懐かしさに、何かが胸に込み上げる。
「久しぶり。居るとは思わなかった」
込み上げる何かを押し殺して私は辛うじて声を出した。
五メートルほど離れた場所に立つ彼に聞こえるように。
「何買ったんですか?」
関西出身の彼の話す独特のイントネーションが耳を掠める。
私はさっき買った本を袋から取り出して彼に向けた。
「とうとう買ったんですね」
「えっ」
「だっていつも見てたでしょ?」
彼がそれを知っていることに驚いた。
だっていつも私が先に飽きてしまって帰りを促すのがお決まりのパターンだったから。
私は、なぜだか気まずくなって話題を変えることにした。
「今日はお休みなの?」
「はい、急遽休みを貰いました」
一部上場企業の小売専門店で一店舗の総責任者として勤める彼は、そう簡単に休みを貰える筈がない。
訝しげな顔をしている私を見て、彼は苦笑いを漏らす。
「約束があったんですよ。そうでなきゃ休みなんて貰えませんもん」
ここで新しい恋人と待ち合わせでもしているのだろう。
それにしてもなんて皮肉なことだろう。
私のなかではここは特別な場所なのに。
彼はそんな思いはなくて。
私は彼のことを思い出してこの場所を訪れたのに。
その彼が恋人と待ち合わせをしているところに鉢合わせなんて。
「そっか、じゃあ私は―――」
「なんでここに来たんですか?」
この場所から遠ざかろうと言葉を紡ごうとしている私に、彼が投げ掛けてきた質問。
そんなこと答えられる筈がない。
あなたのことを思い出してここに来ましたなんて。
私の人生で、恐らく一番幸せだったあの時。
同じ時間、同じ空間を共有できるだけで嬉しかった懐かしい日々。
その幸福感を思い出しながら最後の時を迎えたいと思ったなんて。
離れてしまった本人を目の前にして言える筈がない。
黙り込む私に彼は気にせず話し続ける。
「今日が最後の日なのは知ってますよね?」
コクリと頷く私に彼は満足そうに笑みを浮かべた。
「じゃあ、あの時の最後の言葉は?」
あの時とはあの時のことだろうか。
私が半泣きになりながら別れを告げたあの時。
最後の言葉?
首を傾げる私に彼は一歩私に近付いた。
「もう辛すぎて傍にいられない」
そう告げてまた一歩前に出た。
「もう離れたい」
また一歩。
「そのかわり……」
足の長い彼との距離はもう三メートルほどまで縮まっている。
「誰とつきあってもいい。誰と結婚してもいい」
彼の涼やかな顔が鮮明に瞳に映る。
「もし生きているあいだに人類が滅亡する時が来たら、その時だけは……」
背の高い彼が目の前で私を見下ろす。
「傍に居て」
彼の大きな手が私に差し出される。
私の手を包み込む暖かい大きな手。
三年前と何も変わらない温もり。
「よく憶えてたね、そんな台詞」
「まあ」
一番幸せだと感じた温もり。
彼の手も、声も、存在すべてがいとおしい。
彼に手を引かれてベンチへ腰を下ろす。
彼は手を繋いだまま、まっすぐ海を見つめて小さく呟いた。
「これからは一緒ですから。来年も再来年も十年後も二十年後も。ずっとずっと一緒にいますから」
今日は地球最後の日。
「うん。ずっとね」
それでも、思う。
もう離れないと。
ずっと彼の温もりをこの先も感じていこうと。
私は右側に感じる彼の温もりに安堵して、静かに瞳を閉じた。
実は若干リアル入ってます……。
もし今日地球が滅亡するとしたら、あなたはどうしますか?
たぶん私はいつもと変わらないと思います。
男の人よりも女の人のほうが精神的に逞しいから、きっと私と同じ意見の人多いと思いますが。
くだらない小話を読んで下さってありがとうございました。