夜這い
日課の素振りを終えたメルが汗をぬぐっていると、彼女の部屋の前に誰かがやって来た。
コンコンとノックをする人物は誰なのか。その疑問に答えるために、時間を少し巻き戻す。
「男同士の内緒話にするからさ。やっぱりきょうは女鬼島さんとやっちゃったの?」
メルと田中が夕飯を作っていた時分の食堂で、川澄と関が内緒話を始めていた。
「そんなことしていないですって」
「じゃあ聞き方を変えようかな。キミは女鬼島さんとそう言うことをしたいかな?」
関が聞くそう言うこととはもちろん、男女で行うあれやこれやである。
「そ、それは……」
「勇気が出ないのなら健全だ。僕だって似たようなものだしね。でも妹の件を引きずっているとしたら、それはとても不幸なことさ」
答えられない川澄に対して、関は妹───正確には同じ施設で育った妹分、川澄ゆきのが原因かと持ち出した。
「それはないとは言い切れないですけれど、正直言うと怖いからですよ。がっついて嫌われることが怖いんです」
「なら安心したよ。もしゆきのに操を立てているつもりだったら、妹の罪作りぶりに謝るしかなかったしね」
「どういうことですか?」
「これはキミを信用しているから伝える話だ。だから誰にもバラしてはいけない」
「急にどうしたんですか。畏まったりして」
「アイツは……ゆきのは土井垣の事が好きだったんだ。だからキミがいくらアイツを好きだろうとも、アイツの心は土井垣が既に手にいれていたわけさ」
「え……それだともしや、川澄さんとサトル様って……」
「僕だって皆までは言えない。だがたぶん、キミが想像した通りさ」
関の告白は、もしメルに心を奪われる前の川澄が聞いたのならば、心が折れるのに充分なモノだったであろう。川澄ゆきのと土井垣サトルが既に付き合っていたという事実。失恋のショックは、彼が新しい恋にうつろいでいなければ大きなショックでしかない。
だが川澄の心の奥に残っていたゆきのへの重みが解れるのを川澄は感じていた。
「キミは本気なんだね。だったら急いだ方がいいと思うよ。彼女は何もせずに指を咥えていたら、儚く消える存在なのだから」
関もメルがこの家にいるのは期間限定だと聞き及んでいた。だからこそ川澄の背中を強引に押すような台詞を彼に送る。
こうして周囲の歳上から受けたエールを振り絞って、川澄はメルの部屋の前に立った。
「入ってもいいか?」
「ちょっと待ってください」
汗を拭うために半裸だったメルは、少し外で待たせてから彼を部屋に引き込んだ。
汗の飛沫か部屋の中にはメルの匂いが充満している。川澄は入るなり、その匂いにくらりとよろめいた。
「どうしましたか?」
「話があるんだ」
くらりとよろめいたのを悟らせないように気丈に振る舞って、川澄は部屋のドアを閉めた。
密室に好きな子とふたりきり。しかも今夜は意気込んでの来訪なので、川澄は先程から耳まで赤くなっていた。
「なんでしょう」
「いきなりだけど……メル……俺はキミのことが好きだ」
好きだと伝える彼の手は少し震えており、相当な勇気を振り絞っているのだろうとメルも用意に感じ取った。
昼間の件を抜きにしても、田中があれだけ煽るのだからメルとて当然ながら彼の気持ちを知っていた。その上で改めて声に出されると、少しだけきゅんと胸がうずく。
だが彼女の答えはそれこそ以前から決まっている。だから彼を傷つけぬように、慎重に返す言葉を選ぶ。
「お気持ちは嬉しいです」
「じゃ俺と……」
「ですが」
嬉しいと返したメルに続けて「付き合ってほしい」と言おうとした川澄の口にメルは人指し指を押し当てた。それは言葉を遮るためのもの。川澄はメルの行動に困惑の色を隠せない。
「それ以上はダメです。ボクはトモさんとはそのような関係にはなれないんです」
きっぱりと断るメルに川澄はショックで青ざめてしまった。
だがそれでもと気を持ち直し、一歩下がって指をほどいてから食い下がる。
「い、いずれメルは元の職場に帰るのは理解している。遠距離恋愛になってしまうのだって構わない。いっそのこと俺も東京に出て、メルのところに行ってもいい。だから……」
「ごめんなさい。ボクはトモさんが考えているような女の子じゃないんです。だから友達よりも先の関係にはなってはいけないんです」
「え?」
「これはお詫びです。トモさんの勇気を不意にしてしまったボクからの」
メルは先程の人指し指を、今度は彼の額にトンと当てた。
糸の切れた人形のように川澄の腰がストンと落ちた後、メルは気絶している彼を部屋まで運びベッドに寝かせた。
「メル!」
翌朝、目覚めた川澄には昨夜の記憶が欠けていた。
告白して恋仲になり、そのままベッドにインした生々しい感触が指に残っているのだが、どうやらそれはすべて夢らしい。
「意気込みすぎて変な夢を見ちまったのかな」
本当は昨夜していた彼女への告白が、次の休みにアタックするつもりだったと認識が書き換えられていることに川澄は気づくことはない。
彼はいつものように持ち場に向かっていった。




