後半
整理しよう。ドストエフスキーやシェイクスピアには、明確に古代的な運命というのが作品に刻まれている。しかしそれは「神託」というような完全に外的なものとして現れるのではない。人間の意志や主体性との繋がりが暗示される。シェイクスピアはより古代に近づき、ドストエフスキーはより現代に近づく。
現代に近づくほどに主体の内部、自己意識はより自由になり、意識は様々に夢想し、可能性を模索し、泥沼の海の中にはまりこんでいく。この意識に対して明確な形を与えるのは運命の他にはない。何故かと言えば、運命だけが、己にとっての他者であるからだ。他者は、他人は、自己にとって他者ではない。それは欲求の対象に、あるいは自分が望んで得られぬものであるかもしれないが、それだけでは単なる他人でしかない。他人との関わりは、それが本質的に「他者」である運命の表徴として現れる限りでしか意味はない。
先に僕は村上春樹やよしもとばななの名前を上げた。ここにおいて冷酷な運命は、主体の願望によって歪められている。二人はそれなりに優れた作家であるので、現実を描いている部分もあるが、あるレベル以上の所では彼らは運命を主体の要請によって歪める。そうしてその意識は作品の中には描かれない。彼らはそれを無意識的に行ってしまっている。それは描かれず示される。ところで、これを描くものとはなんだろう。
運命と意志の相関関係に戻るのであれば、現代では、人は自分は「自由」と感じている。意志はあり、夢や、願望は至る所に満ちており、それを達成したと宣伝する人々がいる。現在において「ドラマ」は存在しない。人々の意識に存在しない。失敗すれば「努力が足りない」「運がなかった」と切り捨てられ、成功すれば妬まれるか、「〇〇だから成功した」という風になる。
マクベスは「愚かな男」、ラスコーリニコフは「馬鹿な人殺し」と現代では切り捨てられるだろう。では、我々にとって運命は存在するのか? …それこそ、村上春樹から何から、現代の充足した、本人は芸術的だと思っていてもほうっておくとサブカルに流れていく様は正に、それが「存在しない」という解答を暗に出しているように思われる。願望は成就されるかされないかの二つなのだ。それ以外はないのだ、というように。
もっと根底的に考えてみたい。現代においては問いと答えはすでに出されていて、我々はその中に鳥籠の鳥のように閉じ込められているが為に、「答え」しか見いだせない。我々は問いの問い方そのものを制限されているが為に、その内部おける規定の答えだけ握られるように誘導されている。
シェイクスピアやドストエフスキーはそもそも一体、何が言いたかったのだろうか? マクベスもハムレットも、主体の内面が外化し、それに殉じて滅びていく。ラスコーリニコフも同様である。ラスコーリニコフが最後に悟ったのは何か、明確には明らかにされていないが、それが主体の内部によって演じられている以上、彼の悪夢は止まないはずだ。彼はどこまでいっても、どこまで走っても正当化されている。現代人の我々も同様に、全く正当化されたツルツルした道を歩いている。葛藤や過程が消失したが為に問いと答えは連結される。
本当は、そうではないのだろうか。そもそも、人間にとって悲劇的な運命というのはない方がいいにきまっている。あるいはそんな風に考えている。古代においては、そんな風に思ったところで、様々な要因によって我々は主体の自由や感情や意志やについて考える能力がなかった。自然は内部と外部で吹き荒れていて、我々は時折悲しみや嘆きの中で人間になろうともがいたにすぎない。
現在は状況は逆で、我々は温かい家の中にいる。様々なものに囲まれ、外部の運命を見なくて済む人は済むようになっている。そしてまたそうしたものが望まれ、それが多数者によって望まれるとそれが現実であるとされ、規定路線にさえなっている。
しかし、繰り返し言うが、そうではないのではないだろうか。欲望は無限だが、現実は有限という言葉があるように、テクノロジーと物の集積を積み重ねても、我々の意識は遂に欲望の「達成」に到達しない。あるのは「到達した」と見せかける事によって、望んでいる人から利を得る方法だけだ。
マクベスが破滅したのは、彼に固有の運命だったわけだが、現代人は彼を「間違っている」「愚か」と片付けるだろう。ネット上でそんな人をゴマンと見かける。だがそうではなくーーそもそも、それは人間に宿命的な、必然的な運命なのではないか。つまりは、我々を制限し、規制する運命は克服すべきものではなく、むしろ我々自身が生み出しているが故にそうなるもの…そういうものこそが運命と呼ばれるに足るのではないだろうか。
我々は「外」に目を向けた時、健全である。外部における問題を克服さえすれば、内部の問題は解決すると想定されている。誰かが悪いのであればそれを罰すればいい。問題を克服し、欠点を直して少しずつ進化していって未来はより良いものに……ここでもツルツルした道しかない。ゲームのシナリオを進んでいくようにツルツルした整備された舗道しかない。
運命というのは何かと言えば、それは自己意識にとっての本源的な「他者」であると考えたい。自己意識が世界を歪め、世界は欲求に従わねばならぬというドラマを僕らは日夜、書店でネットでテレビで見る事ができる。だが、その外部に運命はあると感じる。その「外部」とやらは果たしてどこにあるのか? …それは誤謬として存在する。つまり、そもそも主体の願望は達成されはしない。そのような幻想があるのみだ。
人間の意志や欲求は外化すれば、行為になって、現実となる。この時、現実は既に彼の手を離れたものになる。ハムレットは復讐を達成し、ラスコーリニコフは計画通り老婆を殺した。普通の物語であれば、これが到達点だろうが、本当はそうではない。それは、単なる出発点にすぎない。彼は望んでいた事を達成する。ところが彼はそれが望んでいたものとは全然違う事を知る。
…いや、彼はそれすら知っていたのかもしれない。だが、それ以外の可能性は考えられない。なぜなら彼は思考の中であらゆる可能性を探索した末に行為を行ったからだ。ここにあるのは、「間違った人間」の物語ではない。人は間違ったが故に破滅するのではなく、人には先天的に限界が課せられているからこそ、破滅する。これを人は、大衆ー市場ー幻想によって弱める、弱められる、克服できるとするのが現在の宗教であるが、これを破る物語が今必要だという気がする。
人々は夢を見ようとする。その夢に合致したクリエイターは、大衆から称賛と金銭を送られるが、それは大衆自身の自己称賛でしかない。クリエイターは創造力を持つのではなく、適合力を持つ事が求められている。小説を書いている人は明治時代に比べれば格段に増えただろうがその質が上がっているとは言い難いのはそもそも、芸術や文学は大衆に奉仕するものではないからだろう。この辺りは、ソ連時代にロシア文学が壊滅したのを思い起こさせる。
まとめに入るが、我々の世界において、主体の欲望や妄想を制御する装置はどこにもない。純文学からなろう小説、アニメ、漫画において、まるで妄想日記帳のような状態を呈しているのは、我々がそういう世界を欲し、それが現実化され、それを信じてもいいのだと信じ切ってしまった所にそれが繁茂する原因がある。クリエイターは、自分の作品におそらく根底から自信は持てないだろうが(自己がないので)、にも関わらず他者とのかかわり合いにおいて安堵できる。そこに客体性があると安心できる。
こういう世界においてドラマが、主体の欲望によって世界を歪める方向に行くのは自然な流れだろう。ただ、過去の文学というものを考えてみれば、そういうものを超える可能性は秘めているとは言えるだろう。(現代であれば、ウエルベックや伊藤計劃にその可能性を見たいが) その可能性となんだろう。主体は確かに望み、欲求する。神から切り離された自己意識は何かを望むが、運命はもはや神託のように外部からもたらされるのではない。内部ーー主体性がその自由の領域を拡大させ、それが必要以上に「望む」からこそ、その限界を露出する。そこに運命があると自分は考えたい。
ドストエフスキーは更にこれに新しい領域を付け加えた。重要な点は、ラスコーリニコフは「自分もしらみの一種にすぎない」と『知っていた』事だ。彼は、自分の運命を自分で予告する存在(無意識)であると共に、その運命を辿る存在(意識ー行為)でもあった。彼は、自らを二重化させていた。そうして前者の、彼の運命の啓示は、ソーニャやポルフィーリィのような他人の姿を取って現れる必要があった。殺人は、願望の成就は一人でもできる。ところが、彼の限界を露出させるには、他人の存在が必要だった。こうして彼は全てを知りながらソーニャの元に行き、全てを自白するのである。
現在では主体に沿って世界を歪める事が普通となり、それが礼賛さえされている。自分は文学は、その「外」に出る事が可能であると思う。「外」に出るとは、欲求の成就の不可能、人間のそもそもの限界性を探る行為であるが、カントのように、人間の不可能性を徹底的に探求できるのはその可能性の極限を思い詰めたものだけだ。
ドストエフスキーほど高いものを望んだ人はなかったが、それによって、彼は全く別個に低いもの、殺人などの暗い問題を特に主題とするようになった。ドストエフスキーは元は理想主義であったが、彼は彼の理想が挫折する所を描く事に新たな理想を見た。理想は、カントのように彼岸に持ち越されたのだと自分は思う。
村上春樹始めとして多くのアーティストは現実の内部において救われようとするが、現実そのものを徹底的に認識したものは彼岸に救いを求めようとする。それは宗教的な境地だが(漱石の晩年が思い起こされる)、その宗教性は現実の徹底した認識から生まれたものだ。この宗教性を笑う事は現実内部にいる僕らには不可能だろう。その場所から彼らーーシェイクスピアとかドストエフスキーはーー僕らの現実の限界、すなわち人間の限界という「運命」の形姿を見たのだった。
人間の限界を描き出すものは、現実を越えた「物自体」を構想する事を要請される。彼らは現実を欲望で歪めて安堵はしなかったが、彼らも人間だったので安堵はしたかった。そこで安堵は彼岸に持ち越され、彼岸から現実を眺めた。その時、現実は今までになかった光を浴びて、その相貌を新たにした。我々が見るのはその断面である。
世界の限界、理性の、人間の限界を描き出すのはネガティブではなく、ポジティブな事だ。しかしそれをポジティブと言うには、我々の倫理や道徳観念とは違う観念がなければならない。ドストエフスキーやカント、シェイクスピアといった人はそうした彼岸に飛び出した。彼らは運命を享受するだけの強さを持っていた。
それに比べると、運命を自分流に歪めるのは精神の弱さの証左だろう。我々は弱い事を互いに礼賛しあっている。我々はみな弱いからである。弱くていいのだ、それで構わないとこの世界は囁きかける。しかしそれによって世界は歪み、我々には明るさと希望の言葉に満ちた偽りの世界が、クリエイターと名付けられた人々によって提出されるに留まる。