前半
ゲーテのシェイクスピア論というのは僕にとって大切な文芸批評である。こういうのを「優れた文芸批評」と言うのだと思う。
ゲーテの論に詳しく言及する事はできないので、ゲーテの論から、自分なりに抽出した二つの概念によって、自分の文学論を進めてみようと思う。ゲーテは、シェイクスピアは古代的なものと近代的なものを見事に融合させた、と語っている。これはドストエフスキーにも適用されると思う。
二つの概念を提出する。一つは「古代=運命」であり、もう一つは「近代=意志」である。前者においては、人間は運命によってその道を歩む事の悲哀を感じる点に悲劇が発生する。後者においては、主体の意志、欲求、願望、選択、自由といったものが、叶えられたり、挫折したりする道筋にドラマが発生する。前者は古代的なドラマ、後者は近代的なドラマと考える。
それで、今は「近代的」と言ったが、これは現代性も含むとする。「現代的」とは強められた「近代的」であると考える。
さて、こうして準備が整った所で問題に立ち向かおう。まず、我々自身で言えば、現代人は後者、近代的な意志や選択、欲求というものがお気に入りである。お気に入りというか、それが我々にとっての神であると言っていい。(「意欲は近代の神である。」ゲーテ) 我々は、人生の道における「選択」というものを重視する。AとBという道があれば、どちらかを選ぶ事がより「良い」場所へたどり着く為の手段であると漠然と考える。
こうした事は、「夢を叶える」などといった観念を後押ししている。現代人は意欲し、意志し、それが成就するのを願っている。それが「ドラマ」であると信じて疑っていない。そこで、エンタメ作品、サブカルチャーにおいては、主体の願望が達成される様が繰り返し描かれる。それは我々の神が具現化するのを目の前にする事だからである。
ここにおいて、運命の悲惨さ、現実の重みは意志とその成就の過程で軽められる。村上春樹を想起し、その下に広がった村上春樹的なものを考えてみれば、そこには欲求が現実においては具現化しなければならないという倫理性を感じるだろう。村上春樹やよしもとばななはともすればスピリチュアルな要素に傾きがちだが、それは主体の欲求は現実にならねば「ならぬ」という言明である。
これを現実には「読者」が支える。読者は夢を見たいからである。自分の欲求が現実にならねばならぬという哲学を共有し、それをフィクションとして見せてくれる作者に拍手といくばかの金銭を送る。「なろう小説」などではこの構造があからさまに透けて見える。
さて、このように主体の内部における自由は、それを望む「他者」によって同意を受け、礼賛され、肯定されるが為に、主体はどこにも自己の限界を見出す事ができない。よしもとばななや、村上春樹が、はっきり言ってそれほど凄い作家ではないのにも関わらず彼らが「世界的に受けている作家」であるのは、考えてみれば驚くべき事態だ。彼らは十分に自惚れる権利を持つと言えるだろう。なぜなら、その自惚れは自分以外の他者、読者、市場、出版社などを通じて現実化しているからである。
ここで話を元に戻そう。思い切り戻して、ソフォクレスの「オイディプス王」について考えてみたい。
「オイディプス王」とはオイディプスが、過去に自らが行った「罪」に気付いてく物語だ。この場合、重要なのは「神託」であって、神のお告げによってオイディプスの運命は定まっている。オイディプスはこれから逃れようとするが、逃れられず自らの目を突いて自分を罰する事になる。
古代のドラマにおいては、神託が重要な意味を持っている。それが運命を定めているのだが、これに対して人間は抗しても最後には従わねばならない。運命には従わねばならぬ、神になりきれぬ人間に現実の悲劇が現れ、感情としては悲哀がやってくる。自らの目を突くオイディプスの嘆きがやってくる。僕にはこの悲哀だけが、運命の手を逃れた、人間に残された最後の自由であると思う。それが「文学」というものの悲しむべき(誇りとすべき)宿命であると思う。
「オイディプス王」では、主体の意志や意欲は作品に入り込む隙間はない。主体は選択の余地なくいつの間にかそういう状況陥っている。ただ、こうした筋書きでは現代人は感情移入しにくいだろう。それは神託の意味が現在の我々にはわかりにくくなっているのと同じ事だ。
近代に目を戻す。本当に話したいのこれからだ。
自分はゲーテにならって、シェイクスピアを古代と近代を融合させた人と見たい。それと同じ事だが、ドストエフスキーを極めて独創的な形でその二つを融合させた人、と見たい。ドストエフスキーは独創的な形式を作り出したが、それにも関わらずシェイクスピアに似ている点がある。
シェイクスピアから行こう。「マクベス」や「ハムレット」という作品では、近代人にとって神である意志とか意欲が、独特な形で「運命」に転化していく様子が描かれている。「マクベス」は、武将マクベスが暗殺と奸計によって王を殺し、自分が王になるが、罪を重ねた為に精神が病み、悪の本体とも言うべきマクベス夫人も気が狂って死に、マクベスも反逆にあい、戦に負けて死ぬ。ストーリーはそんな風になっている。
シェイクスピアが天才だと思う所、また、小林秀雄含め自分ら(偉そうかもしれないが一緒にさせてもらう)が見習わねばならないと思うのは、自意識の問題がどのように運命として、人生の実相に反映されているかという点だ。
マクベスは作品の冒頭で魔女を見る。魔女はマクベスに対して予言をする。「あなたは王になるお方だ」 この言葉を機に、忠実だった武将は自分の中の野心を知る。
本の後ろの解説を読んでハッとさせられたが、魔女とはマクベスの無意識であるという解説がなされていた。確かに、そう言われればそう見える。
しかし、マクベスにとっての魔女とはマクベス自身の無意識であると共に、他者でもある。ここに「魔女」が現実と非現実の中間的存在として効いてくる。マクベスにとって、外化された己の意志は、他者でしかない。マクベスは他者となった己の指し示す道を辿る事によって破滅する。ラスコーリニコフは、先んじて「俺は破滅する事を知っていた!」と言っていた。この筋書きは確かに似ている。
「罪と罰」は「マクベス」によく似た作品だ。ただ、ドストエフスキーは現代人なので、魔女だとか亡霊だとかは使えない。あくまでもリアリズムの作家だ。にも関わらず、ドストエフスキーは、シェイクスピアに近いやり方で主人公ラスコーリニコフの運命を描き出した。
ラスコーリニコフは、自分と家族の窮地を救うために金貸しの老婆殺害を思いつく。彼は最初、その計画を考える。ところが、あまりにも執拗に考えていく内に、彼の思考は外化していく。彼の意識は次第に、彼にとって動かす事のできない想念となって目の前に現れる。そこまで来るともう引き返す事はできない。外化した自分の意志はもはや自分のものではないからだ。
夕日を見てラスコーリニコフが改心しようとする場面が序盤にある。殺人をやめる「決意」をするラスコーリニコフをドストエフスキーは冷酷な筆致で描いている。この「決意」というものがいかにやわなものか! ラスコーリニコフの徹底した自己意識、理性がこれほど勝った男が、理性ではない自らの作り出した幻影に敗北していくのがいかに苦痛だったか! …しかし、ドストエフスキーにはそれが人間の運命と思われたのだった。
「ハムレット」における主人公ハムレットは亡霊を見る。死んだ父の亡霊を見て、復讐を企てる。ハムレットはラスコーリニコフによく似ている。彼は復讐をためらうが結局は遂行する。ハムレットにはよくわかっていたはずだ、自分は「やる」という事が。そこに選択肢はない。なぜなら、それは彼自身の意志だからである。亡霊は、マクベスの時と同じくハムレットの分身だったと言えるだろう。ここで、ハムレットは自らの運命を紡ぎ出していくのだが、それは彼には自分の自由はまるでないように感じられる。
余談だが、黒子のバスケ脅迫事件の犯人が書いた本があって、これが非常に面白かったのだが、渡辺という犯人は、最初、黒子のバスケのキャラクターに罵られる幻聴を聞く。実際に実生活における問題も加担していたのだが、彼の身にはマクベスやラスコーリニコフと同じ状態が降り掛かっていた。幻聴や幻覚は「他者」として見えたり聞こえたりする。だがそれは彼自身である。ところがそう意識できないが為に、彼はもがき苦しむ。この苦しみとは、幻聴や幻覚が見える異常者に限ったものではないと自分は考えている。そもそも、自己は自己の所有ではない。自己は完全に「己」ではない。にも関わらず、主体はそのように感じ、感じようとし、理性によって全てを把握しようとする為にこの限界が露出される。