建安10年(205年)孫権の裏切りと江夏攻防・豫州の制圧と父夏侯淵の死
さて年が明けて205年のことです。
合肥を落とした孫権は曹操と和睦し、江夏の黄祖を攻撃しました。
曹操としても無理に攻め返しても傷が広がるだけと考えたのでしょうね。
黄祖は彼の父である孫堅を殺した男であり、孫策・孫権から親の仇とされていました。
更に彼は甘寧を冷遇しすぎて、呉の孫権の元へ走らせたりするなど、狭量なところもあったようです。
そして、病も有って軍の指揮を執る位ことが難しくなっていた劉表は劉備に孫権を撃退するように命じました。
劉備は趙雲・龐統・黄忠・法正・厳顔・李厳などを伴って江夏に入りますが、孫権軍も親の敵である黄祖に対して十分な兵を引き連れており、戦いは膠着状態に陥りました。
一方曹操は一度は体制を立て直した袁譚を盟約違反と非難し、袁譚の娘を送り返して縁戚関係を解消した上で同盟の破棄を宣言し、これを討伐することにしました。
袁譚は南皮で一度は曹操を破ったのですがが、その後の再戦に敗れ、袁譚と袁譚の一族は皆殺しとされました。
曹操が冀州で袁譚を滅ぼした頃、劉備は豫州も同時に攻撃していました。
こちらの戦いに張飛は狩りされていったのです。
参謀は徐庶と司馬懿、武将は張飛と孟達に馬騰や韓遂が援軍として参加しています。
「今回も無事に戻ってきてくださいね」
「大丈夫だ、俺達は負けねえよ」
彼は私の頭をわしゃっとした後、戦場に赴きました。
わたしにできることは彼が無事に戻ってくることを願うだけです。
しかし、豫州を曹操より任されているのは我が父である夏侯淵です。
それを考えると私は複雑な心境になります。
我が父である夏侯淵は張郃や徐晃とともに張飛や馬騰、韓遂と一進一退の攻防を繰り広げました。
しかし勇猛であるが冷静さと慎重さ欠けると言われた夏侯淵は張郃が張飛によって完膚無きまでに撃破され、供周り十数騎とともに逃げ出すとそれを助けるため自分の兵の半分を援軍に向かわせました。
しかし、兵が減ったところを馬騰にせめられ、最後は伏兵に討ち取られたそうです。
張郃も討ち取られ、徐晃は敗走して北へと逃げたそうです。
「父がなくなりましたか……」
私は暫くの間、父の喪に服すとして家に引きこもりました。
そして、暫くの後せめて墓に入れてあげたいと、豫州に向かいました。
そしてさらし首となっていた父に対面し泣けるだけ泣いた後、先祖代々の墓へと入れたのでした。
「戦国の世の習いとは言え……できれば
また生きてあえればと思っていたのですがね」
「すまねえな……」
私の横で張飛が私に謝ってきました。
「いえ、貴方のせいではないです
貴方が命じられなければ関羽なり
誰なりがやったことですから」
私は張飛の胸の中で再び泣きつくしました。
その間彼は私の頭をずっとなでていてくれました。