建安8年(203年)袁紹の病死
さて年が明けて203年。
袁紹が病に倒れそのままこの世から去りました。
結局本来より一年だけ長生きできただけとなったわけですね。
実際このころの袁紹の勢力は内輪もめがひどく、官渡の戦いの敗北のあとは反乱も起こり袁紹はだいぶストレスを感じていたでしょう。
結局彼は明確な後継者を選ばずに死んだため、長男である袁譚を支持する郭図・辛評たちの勢力と、末子の袁尚を支持する審配・逢紀たちの勢力の間で内輪もめが始まります。
この様子を見た孔明は劉備に馬騰や韓遂との同盟を提案し、無事に同盟は成立しました。
実際には彼等はこちらに降伏したに近い状態ですが、完全に劉備にくだったいう訳でもないですね。
さて、袁紹が死んで内輪もめが始まったのを幸いと曹操は袁譚と同盟を結び、北方から兵をひいて司隷と徐州に兵を差し向けました。
これを撃退するため張飛にも出陣の命令が出たのです。
「じゃあいってくるぜ」
私は彼を見送りました。
「はい、くれぐれもお気をつけて」
彼はニット笑って言いました。
「なに、心配するな、俺達は負けないぜ」
まあ、大丈夫だとは思いますが、益徳が戦場に向かうときはやはり心配です。
戦場に絶対はないですからね。
しかし、馬騰や韓遂と力を合わせなんとか司隷の防衛には成功しましたし、張飛は無事でした。
孫権はそのすきに戦力を合肥に集中して送り込み合肥を落とすことに成功したのです。
そして私は負傷者の手当のために司隷の洛陽へ馬で向かいました。
洛陽は董卓が一度入ったあと、反董卓連合によって攻撃され、華雄が討たれて大敗した後、董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退したました。
それにより一度廃墟のようになっていますが、曹操が勢力下に置くとそれなりの、復興が進められていました。
「なんだかんだいってもさすが漢の首都だっただけ有って大きな都ですよね」
私はその一角に与えられた施設で怪我人の治療を行なっていたのです。
それがある程度終わったら劉備の指示で病人や一般の怪我人などの治療も行うようになりました。
「それにしても、ちょっとばかりこき使いすぎじゃないですかね」
張飛が私のぼやきを聞いて苦笑しています。
「まあ、そういうなって。
玄徳も腕のいい医者がいるのはありがたいって言ってるんだからな」
「まあ、そうかもしれませんけどね……」
因みに私が医術を教えたものは劉備が新しく土地を獲得したりするごとに、あちこちに散らばって配備されているので、結局私の忙しさは変わらなかったりします。
「曹操が献帝を手元においている限りは、大義名分は彼にあるのが面倒なことではありますね」
「とはいえ、そいつばかりはどうしょうもねえな。
献帝も今更逃げ出すわけにもいかねえだろうしな」
「そうですね……」
袁紹が死んでしまい、北の心配が少なくなった曹操に対処するいい方法があればいいのですがね。、