建安7年(202年)劉備軍の漢中制圧
さて、年が明けて建安8年(203年)劉備が蜀の土地を制圧し、ほぼ平定したあと、戸籍調査などを行なって、農地や兵士を振り分けました。
関中を制圧した関羽は司隷に移動して曹操軍と対峙し、張飛は荊州に戻ってきていました。
馬騰や韓遂は曹操の下から離れて西涼で独立勢力となり、袁紹は未だに北方にて精力をそれなりに維持し、漢中は五斗米道の張魯が独立割拠していますが、おおよそ孔明が考えた天下三分の計の理想に近い状態でありましょう。
私は張飛に按摩マッサージをしています。
張飛は寝台の上でのたうち回っていますね。
「いたたたた、ちょっとそこは痛いって」
私はそれに構わずに淡々と施術を続けます。
「だいぶ疲れが溜まってるようですね。
施術が終わればだいぶ楽になるはずですから我慢してください。
そういえば巴蜀の土地って広さの割に人口が少ないんですよね」
横になったまま張飛は答えます。
「そりゃ、あっちは山ばかりの場所だからな。
人が住める場所も限られてくるししょうがないと思うぜ」
私は頷いて言いました。
「まあ、実際そうですよね。
それでも西側に敵となるものがいなくなっただろうと
だけでもだいぶ安心できますが」
張飛は私の言葉にうなずきました。
「まあ、そうだな。
しかし、荊州の兵は北の兵に比べるといまいち弱いのが困ったもんだぜ」
私は首を傾げました。
「孔明が十分武器を与えて、訓練もしているのに弱いのですか?」
張飛は頷きます。
「ああ、やっぱ北は貧乏で食うにも困ってるやつも多いからな。
その点こっちはのんびりした連中が多い」
私は頷きました。
「なるほど、こちらは北方に比べ平和だったし
食事情も良いですしね」
黄巾の乱などが北方で起こったのは勿論そういった理由からです。
「ま、それでも十分に兵が集まって、
そいつらが食えるだけの食料が十分にあるのはありがたいこった」
私はくすりと笑いました。
「曹操が聞いたら贅沢者めと言うでしょうね。
相変わらず食料の確保で苦しんでるようですし」
「そういう状態だから奴ら食料の奪い合いにやっ気になってるようだな」
「ええ、戦況は膠着状態に陥っているようですね」
この年、曹操が袁紹と孫権をなんとか防いでいる間に劉備は漢中の張魯を包囲してこれを降伏させました。
中国大陸は北西に馬騰や韓遂、北東に袁紹、東の中央に曹操、南東に孫権、そして南西と中央は劉備が制圧している状況となりました。
荊州は比較的平和の状況が続き、私は病人や怪我人を時々診察しながらのんびり暮らしていたのです。