建安7年(202年)劉備が蜀の土地を制圧しましたね
さて、年が明けても、状況はあまり変わりませんでした。
北方の袁紹は本来そろそろ病死するはずですが、本来よりも状況が悪化していないためか、今のところは病に臥せったというような情報は入ってきていませんね。
「むしろ曹操のほうが食糧難で、戦線を維持できなくなりつつあるようですが……」
私の独り言を聞いていた張飛が、それを聞いて不思議そうにしていました。
「なんでそんなことを知ってるんだ?」
私は苦笑して答えました。
「医師には医師の横の情報網が一応ありますからね」
とは言え実際には大したものではありませんが。
その他には逃げてきたものや行商人などの話もまとめて効いてというところですね。
張飛は感心したように言いました。
「なるほどそんなものがあるんだな
で、お前はこのあとはどう動くのがいいと思うんだ」
孔明や徐庶がいるのでそういった判断はそういった参謀たちに任せたほうがいいとも思いますが、多分彼等とは気が合わないのでしょうね。
私の言う事ならいいのでしょうか?
「そうですね、曹操に対しては無理に力攻めせず、
相手の食料状況が悪化して動けなくなるのを待ったほうがいいと思います。
むしろ先に西側を制圧したほうが良いかと思いますね
孫権が力をつけてしまわぬうちに、
こちらは荊州・交州・益州を抑えてしまえば
東や北の勢力とも十分に戦えるのではないかと思います」
「なるほどな、じゃあそう玄徳に伝えてみるぜ」
果たしてその意見は劉備に受け入れられたようです。
劉備は龐統・司馬懿・法正・張松・孟達などを連れて成都に赴いた劉備は劉璋によって歓待を受けましたが、その席にて法正や張松と図って劉璋を捕らえ、彼を降伏させ蜀を制圧下に置きました。
無論、その行為に劉璋の一族や忠臣達は従いませんでしたが先に食料庫などを制圧していた劉備の軍は各個に抵抗勢力を鎮圧し殆どのものは降伏したのです。
これにより劉備は荊州北部に加え益州と司隷の土地を、手に入れました。
蔡瑁などを倒したあと、荊州の劉表は事実上劉備に軍権を握られている状態でも有ったため、劉備は中国大陸の南西部を手中にしたと言っても良い状態になりました。
まあ、益州や交州には異民族が多く住んでいる場所が多く、実際にはそこには手が伸びているとは言い難いというのも事実ではあるのですが。
一方、北方では関羽、張飛などが徐庶や孔明と共に関中の鍾繇・張既などを攻め、これに呼応するように馬騰と韓遂が西より攻めてきたため、孤立した鍾繇・張既はあえなく討ち取られました。
私は新野でお留守番です。
「張飛が無茶して怪我とかしていないといいのですが……」
呂姫がくすくす笑いながら言いました。
「とくにそのような連絡は入っていませんし、
心配はいりませんよ」
「そうだといいのですけどね」
彼は私が言ったように部下へ意味なく怒鳴ったり、八つ当たりで殴ったり、それを忘れてそばにいさせたりするのはやめたようです。
それが私の目の届く場所だけでなければいいのですが。