背負う闇
仮面が割れて、露出した部分を右手で抑えたが、とっくに遅かった。
視界の中で、凛が立ち尽くしている。
「風人……なの?」
彼女がかろうじて絞り出した言葉に、俺は答えることができなかった。
ただ「殺すしかない」と、そう考えていた。
いつかこうなる日が来ることは分かっていたが、それでも俺は覚悟が足りていなかったのかもしれない。
こうなれば殺すと決めていた。
だけど、今ここに来て俺を襲うのは激しい動悸だ。
意を決して、無言で手のひらを凛に向ける。
しかし、放とうとした音撃は不発に終わる。
撃てない。音撃は、撃てなかった。
なんでだよ、クソ。
そう自身を罵倒したが、答えは分かっていた。
相手が凛だから。
まともな神経をしていれば、幼馴染を殺すなんてことはできない。
凛に恨みがあるわけではない。
なのに、立場上殺すなんて……イカれてる。本当に、俺は……。
「風人……、どういう、こと……?」
凛が俺に手を伸ばして一歩進んできた。
それを見て、反射的に俺は後ずさりかけた。
しかし、「殺せ」と。そんな声が頭に響いた気がして俺は踏みとどまっていた。
うるさい。言われなくてもそうするつもりだ。
俺はナイフを握り締め、ゆらりと一歩を踏み出す。
そして一気に凛との距離を詰めた。
「っ……!」
下からナイフを切り上げる。
凛はそのナイフに左手で応戦してきた。
凛の「体の一部を硬化する能力」
能力名は知らない。
その能力によって、ナイフが凛の手のひらを切り裂くことはない。
簡単に見切られて自身の攻撃が甘かったことを悟る。
躊躇、か? それで鈍った?
だけどこんなもの、躊躇は当然だ。いざ面と向かって状況と遭遇してみれば分かる。
考えるだけならいくらでもできる。決意も簡単だ。
けれど、"その瞬間"になった時、行動できるかどうかは全くの別物。
それでも、殺さないといけない。
俺が生きるために。
彼女は手のひらでしっかりと俺のナイフを受け止めて離さなかった。
目と目が……合っていた。
凛の手の中からナイフを引き抜こうとしたが、その瞳に、俺の思考は一瞬停止してしまう。
彼女もまた、俺の目を見つめたまま動かなかった。
時間が止まったように。それでも、そのましばらく時間は経過した。
「本当に……、風人……なの?」
凛の動揺した……混乱した、信じられないと言った視線が突き刺さる。
当然だ。
無能力のはずの俺がタキシードを着て、Anonymousの仮面をつけて、血にまみれている。
だけど風人かと聞かれれば違う。"今"は人違いだ。
「違う」
俺は風人じゃない。言い聞かせる。
「なんで……どうして……?」
俺は神谷風人じゃない。
心の中で復唱する。
俺は風人じゃない。
「Anonymous……コードネーム死音」
考えるな。俺は死音。
目の前の敵は殺す。
俺は何をしにここに来たんだ。任務だろう?
こんなお遊びに時間を割いてる暇はあるのか?
ない。あるわけがない。
私情だ。甘えだ。俺の弱さだ。
死音。俺はお前に成り切れていない。
非情に成れない。ここに来て、もう住み分けはいらないというのに。
もっと強くならないといけないのに。
誰よりも強くなって、俺は自分を守らなければならない。
だから、敵を殺すことによって得られる達成感に似た何か……それこそが、今の俺が求めているものなんだ。
宵闇さんとの修行で自分のことを理解し始めていた。
俺の命を危ぶめる敵を殺すその瞬間こそが、俺にとっての安息。
その時だけが、俺を安心させる。ざまあみろと呟いて、自分の強さを証明する。
強さを自覚して、その度に自分の命の絶対性を確認する。
その障害が誰であろうが関係ない。例え幼馴染でも、親友でも……。
それでも俺は……!
瞳の光を落とす。
思考を停止させる。
俺は迅速に合計4つのアンテナを破壊しなければならない。
あと2つ残っている。
視線をチラと3つめのアンテナに移す。
息を吐き出す。
凛の手からナイフを引き抜き、そのまま前蹴りで凛を突き放した。
そして地を蹴り、再度接近し、ナイフを凛の手に打ち付ける。
ギィンと、皮膚にぶつかったにしてはおかしな音が鳴る。
凛は冷静ではない。
少なくとも、こうして俺が仕掛けたというのに反撃の気配はない。
俺は弾かれたナイフを上からもう一度打ち付ける。
凛はそれに反応してギリギリの所で防ぐ。それによって空いた脇腹に俺は蹴りを放った。
「ぐぅっ!」
ぐらりと体勢を崩す凛。俺は蹴った足でそのまま凛の懐に踏み込むと、至近距離で音撃を放った。
衝撃波に、凛の目が見開かれる。
――轟音。
間近で音撃を受けた凛は勢い良く吹き飛び、壁に叩きつけられる。
壁に亀裂が走り、部分的に崩れた。後ろの建物が大きく振動する。
「……」
手応えはあったが、凛はまだ息をしていた。どうやら硬化の能力が間に合ったらしい。
しかし、致命傷を受けたのは確かなようで、彼女はゴホッと口から血を盛大に吐き出した。
止めを刺すべく、俺は早足で凛の元まで歩み寄る。
瓦礫に埋もれる凛は片目を開けて、近づいてくる俺を見ていた。
その瞳には涙が溜まっている。
半端なダメージが苦痛を生んでいるのだろう。
すぐに楽にしてやらないと。
ナイフのグリップを逆手に持って、俺はその胸に刃を突き立てた。
凛に硬化をする力はすでに残っていなかったらしく、ナイフは彼女の胸に吸い込まれるように深く突き刺さった。
返り血が俺のマスクに散る。
「……」
俺は静かに瞳を閉じる。
頬を温かい何かが伝う。それは何度も頬から流れ落ちた。唇を強く噛む。
クソ、甘えてる。
心の中で悪態を吐いた。
そうしてナイフを引き抜こうとした時。
「か……ざと……、ごめ、んね……」
そんな声と共に、突き刺さったままのナイフを握る俺の手に凛の手が添えられた。
俺は驚いて瞳を開ける。視界はぼやけていたが、凛は両目を半分開けて確かに俺を見ていた。その両目からは、血の混じった涙がポロポロと流れ落ちる。
ナイフは確かに急所に突き刺さっている。
しゃべる力など無いはずだ。
それでも、力を振り絞って凛は言葉を紡ぐ。
「ご、め……ん」
「……なん……で」
なんで謝るんだ。なんで?
俺はお前を殺すんだぞ。そこで死んでる中将だって俺が殺した。
謝られる筋合いはない。凛は少しも悪くない。悪いのは俺だ。俺は好きでやってるんだ。悪なんだ。
お前は悪に勇敢に立ち向かった正義の味方だろ。お前は俺を罵倒しながら死んでいってもいいのに。なのにどうして謝る。
せめて俺を憎んで死んでくれよ。俺に考えさせないでくれよ。
俺はもう……考えたくないんだよ……。
お前を殺すことに、わざわざ理由や言い訳を並べないと俺はやっていけないんだよ。
「つら……かった、よね……」
コプッと、凛の口から多量の血が流れ出る。
俺は思わずフルフルと首を振るった。
ナイフから手を離して後ずさりたかったが、凛が俺の手を強く握っていた。
「ごめ、ん……、……ごめ、んね……風人……。気づ……け、なくて……、わたし……」
肺から空気を絞り出すように凛は声を出す。
眉を寄せて、涙を流して、ぐしゃぐしゃの苦しそうな顔で凛は言葉を続けようとする。
「やめろよ……、聞きたくない……!」
凛には俺の声が届いていないようだった。
俺の瞳からも涙がポロポロとこぼれ落ちる。割れた仮面の隙間から、雫は地面へと滴る。
「ほん、と……ごめ、ん……わた……し、最低、だ……」
そんなこと言わないでくれよ……。
そんな、分かったようなこと。悟ったようなこと言うなよ……。
なにが最低なんだ。最低なのは俺の方じゃないか。
「なに、も……できなく、て……」
とうとう俺は膝をついてしまう。
「何もできないのは……当然だろ……!」
俺が頼らなかったんだ、お前を。お前らを。
聞きたくなかった。
でも耳を塞ぐこともできなかった。俺にはその力があるはずなのに。
「凛……!」
そう声に出した時、すでに凛は息絶えていた。
止まった凛の心臓に対して、俺の心臓はバクバクと脈打っている。
少しばかりの目眩を堪えて、俺はふらりと立ち上がった。凛の胸に刺さっているナイフを抜き、それを振るって血を切る。ピシャリと乾いた瓦礫に血が散る。
仮面が割れて露出している顔を、血まみれの手で抑えて、俺はしばらく立ち尽くしていた。
頭が割れるように痛い。
ズルズルと手を下ろすと、凛の血が露出した顔にべったりと付着した。
何度か深く息を吐き出す。
凛は死んだ。
俺が殺した。
俺は最低だ。クズだ。
だけど、これでいいんだ。
日和るな。迷っても貫け。
生じた迷いを打ち消すべく、俺は凜が握っていた手に自分でナイフを突き刺した。
ナイフがグローブを貫いて、鋭い痛みが走る。それで俺は目を見開く。
俺はこんなんじゃダメだ。
これじゃあ……あまりにも弱すぎる。
こんなことで俺は……。
……いや、よそう。
今はとにかく、アンテナを破壊しないと。
本来の目的を思い出して、俺は凛の死体から離れようとした。
その時、背後から殺気を感じて俺は勢い良く振り返った。
「……!」
音もなく接近していたそいつは、俺の手前でステップを踏んで真横から上段蹴りを加えてきた。
俺は両腕を盾にして、後ろに飛ぶ。
そしてそのまま距離を取った。
「くそ! 凛……! 嘘だろ……、おい! 凛!」
そいつは俺を退かせるとすぐさま凛の元に膝をついてその体を抱えた。
弦気。
そいつの名を声に出しかけたが、飲み込む。
自傷した手からポタポタと血が垂れ落ちた。
「凛! なんでだよ。凛……! 嫌だ、凛……! こんなところで……、嘘だろ……、やめてくれよぉ……」
弦気は泣きながら何度も凛の名前を叫んだ。
凛は答えない。なぜなら、もう死んでいるからだ。
「ああ……! ぁぁああ!」
俺は弦気の慟哭をなぜか立ち尽くして見ていた。
攻撃のチャンスだけど、それはしなかった。
あいつの能力は得体が知れない、というのもあるけど、純粋に攻撃する気にはなれなかったというのも大きい。
もう少し、弦気が駆けつけるのが早ければ凛は助かっていたかもしれないな。
そんな無責任なことを考えて、内心自嘲した。
区切りをつけるならここだ。
やがてふらりと立ち上がった弦気を俺は睨みつける。
弦気の方は、斜め下の虚空を見つめていた。
「やったのはお前か……?」
沈んだ声。その声は、俺にしか聞こえないくらい小さかった。
「ああ」
はっきりと答える。親友という関係もここで終わりだ。
もう何もかも、壊れてしまえ。
「お前は……死音だな」
弦気がそう言ったので、俺は違和感を感じた。
弦気は俺が俺だと気づいていない……?
そこで気づく。俺の露出した顔半分は血でまみれていた。
なるほど、これで気付いていないのか。
あえてバラすという手もあるが……。
それならそれで、いい。
「ああ」
半身をこちらに向けて、うつむきながら凄まじい殺気を放つ弦気。
当然その殺気は俺に向けられている。
幼馴染の凛を殺されたのだから、彼の怒りは計り知れなかった。
あるいは……、父の死を見たあの時の弦気より、その殺気はドス黒く、怒りの篭ったものだった。
「そうか……。じゃあ死ね」
「お前がな」
そう返したのは、半ば自棄になっていたからか。こうして悪であることの意思表明だったのか。自分でも分からない。
少なくとも溜息さんに言わせれば「無駄」なのであろうその時のやり取りは、俺の心情的に無駄だとは思えなかった。
瞬間、弦気の体がブレた。
弦気は一瞬で視界の外へ出ていた。
俺は体を右に開いて弦気を視界に収める。あいつの音が聞けないのは依然変わっていない。
しかし、音波による空間把握であいつの位置を割り出すことは可能だ。
全ての音波は弦気を避けるように進む。
それ自体疑問だが、それによって弦気の位置は把握できる。
それだけで、十分だ。
あいつが音速以上で動かない限り、対応はできる。
そう考えながら走ってくる弦気に音撃を放つ。
弦気を避けるようにして地面に亀裂が走った。
音撃もやはり効かない。
弦気にだけ衝撃波は当たらないのだ。
相殺しているというわけでもないし、防御しているというわけでもない。
おそらく、そういう能力なのだろう。
俺は勢い良く接近してきた弦気の拳を手のひらで受け止めようとする。
しかし、奴の拳は俺の手のひらをすり抜けて、そのまま俺の腹に叩き込まれた。
「ハァッ!」
「ぐッ……!」
後ろに大きく後退するが、弦気の攻撃は続く。
俺の体には何度も弦気の拳が叩き込まれた。
前戦の傷と相まってダメージが蓄積されていく。
だけど弦気は冷静じゃない。ただ、怒りのままに攻撃している。
痛めつけたうえで、俺を殺そうとしているのだ。でなければ得物を使うだろう。
「ああああああ!!」
叫んで、音撃を全方向に放つ。
それを受けても弦気の攻撃は止まらない。
再度、音撃。音撃。
弦気の猛攻を受けながら、音撃を繰り返す。
俺と弦気を囲むように、亀裂が走り、クレーター状にコンクリートでできた地面が崩れていく。
「ぐおぉぉぉぉぉ!!」
弦気が、吠えた。そしてバックステップして俺から距離をとった。
「ハァ……ハァ……」
「ハァ……! ハァ……!」
お互いに肩を上下させる。
しかしダメージを受けているのは俺で、弦気は実質無傷だ。
だけど今退いたのは、俺に隙を見せたのと同義だ。
押し切れるなら退く必要はない。退いたのは俺の音撃が効いていたからだ。
ダメージはなさそうだが、奴の能力は攻撃を無効化できるものと考えていいだろう。
壁をすり抜けたりできるのは、透過能力を併せ持つ能力重複者だから。
推測は間違っててもいい。
奴ができることを一つずつ把握していく。それだけで攻略の糸口は見えてくる。
とにかく、今分かったことは、奴も無限に攻撃を無効化出来るわけではないということ。
能力を永遠に使用し続けられる能力者なんていない。
効率は悪いかも知れないが、勝つ方法は分かった。限界まで能力を使わせ続ければいい。
俺も無限に音撃を撃てる訳じゃないが、根比べしようじゃないか。親友。
思えば、親友だってのに、お前とは一度も殴り合いの喧嘩をしたことがない。
こんな風にぶつかりあえることを、俺は心の何処かで望んでいたのかもしれない。
弦気は一度大きく息を吸い込んで、それを吐き出した。
そしてホルダーから短剣を取り出して、構えた。
多少は冷静さを取り戻したらしい。
これは厄介だ。距離をとって戦うか。
息を整えつつ、俺は弦気との間合いを測る。
ゴクリと唾を飲んだ時、背後から俺の肩に手が置かれた。
反射的に拳を振るうが、その拳は止められる。
そこにいたのは宵闇さんだった。
「ハァ……、ハァ……」
「時間切れだ。そこまでにしておけ、死音」
俺は宵闇さんを睨みつける。
邪魔をするな。
「任務を忘れたのか?」
その言葉で俺は我に返った。
そうだ、アンテナ……!
「……すいません」
「もういい。残ったアンテナは俺が破壊しておいた」
いつの間に……?
俺はそんなにまで、周囲を忘れていたのか。
「すいません……」
もう一度謝る。
「帰るぞ」
宵闇さんは言った。
俺は弦気を一瞥する。流石の弦気も宵闇さんの殺気に牽制されては、動けないらしい。
宵闇さんは俺に背を向けて前を歩く。
その後に続くと、俺の視界は黒いモヤの中に"暗転"した。
最後まで弦気の双眼は俺を射抜いていた。




