失われた邪悪
顔を上げると、宵闇さんと目が合った。
彼の容貌は、聞いていた通り、千薬さんより酷いくまを目の下に作っていて、目つきが凄く悪い。
そして白髪混じりの黒髪が片目を隠しており、薄い唇と白い肌が特徴的だ。
身長は俺より少し高いくらいで、痩せていた。
歳はボスより一回り、二回りは上のようにみえる。
正直、あまり強そうな見た目ではなかった。
だが、この人はやばい。そう直感させられるオーラがある。
「です子にロールか。あと、このガキはなんだ」
「新人の死音くんだよ。そんなことより宵闇、老けたね」
「何をしに来た」
「もちろん、連れ戻しに来たの」
いつにもなく真剣な表情のです子さん。
この任務はやる気がないんじゃなかったのか。
「雑魚三人で俺を説き伏せに来たのか。何度も言わせるな。俺は組織には戻らない」
宵闇さんがそう言った瞬間、ロールが俺を抱えて後ろに飛び退いた。
体を揺らされて、また吐きそうになる。怪我の痛みと相まって色々最悪だ。
「……良い反応をするようになったな、ロール」
「それはどうも」
この人の殺気が異常だから、お酒の力で緊張を緩和させようという理解不能だった魂胆が、今になってやっと理解できた。
俺はロールから離れ、ふらつく足でなんとか立つ。
飲み過ぎた。ほろ酔いくらいでよかったじゃないか。
「宵闇は相変わらず喧嘩っ早いなぁ。私達は別に戦いに来たわけじゃないんだよ?」
「そうか。なら帰れ。俺を力でねじ伏せることができたなら、組織に戻ってやってもいい」
「じゃあ遠慮なく」
ダン、と。です子さんが地面を蹴った音がして、気づけば彼女は宵闇さんの背後に回り込んでいた。
です子さんが放った正拳突きは、宵闇さんの脇腹にクリーンヒットしたかと思われた。
が、打撃の音がない。
「……俺の能力を忘れたか、です子」
です子さんの腕は、宵闇の腹部に現れた謎の黒い"もや"に飲み込まれていたのだ。
「全然衰えてないじゃん」
です子さんは、突きを放った姿勢で止まっていた。
否、捕えられていた。
宵闇さんは、掴んだです子さんの腕に手刀を振り下ろした。
「マズい……!」
動いたのはロールだ。
ロールはすぐさま捨て猫モードになって、宵闇さんに飛び蹴りを放つ。
矢のように飛びかかったロールを、宵闇さんは少し身をひねるだけで躱した。
その隙にです子さんは宵闇さんの拘束から逃れ、距離をとった。
そのまましばらく宵闇さんを睨んでいたです子さんだったが、唐突にすっと構えを解いた。
宵闇さんの後ろに着地して、低い体勢を保っていたロールも諦めたように構えを解いている。
「分かっただろう」
宵闇さんの声が響く。
「ロールで5回、私で9回、宵闇がその気なら死んでいたね。本気ならいつでも殺せるんだろうけど。
わかってたけどやっぱり強いなー」
「ハイドにビビってないで直接来いと伝えておけ」
「いいよ。でも、今の宵闇じゃハイドには勝てないと思う」
「……なんだと?」
「ちょっと戦って分かったけど、やっぱり宵闇衰えてる。
組織を出てからずっとぬるま湯に浸かってた? 気持ちよかったでしょ。
道理で脆弱になったわけだ。"悪魔"と恐れられた宵闇の心も」
……なんで挑発してるんだ。
宵闇さんの背後に見えるロールは、猫耳をピンと立ててです子さんを危うげに見ていた。
「相変わらず見透かしたようなことを言う」
「見透かしてるんだよ。宵闇、今のあなたの心なら能力を使わずともたやすく読めてしまう。
あーあ、戻ってほしいなー。昔のカッコよかった宵闇に」
「うざいな。殺した方がいいか?」
宵闇さんがです子さんに向けて一歩踏み出した時、ロールは再び構えた。
しかし、宵闇さんに一睨みされ、彼女は動けなくなる。
俺が行くしかない。そう思って音撃を放つべく宵闇さんに手をかざした時、です子さんは変わらず明るい声で言った。
その声はよく響く。
「ところで宵闇、ここでの生活は結構長いみたいだね。大切な人なんかもできた?」
「……」
「あそこの居酒屋のホールスタッフの娘、可愛いよねぇ。
店長の娘なんだって? 宵闇は良くしてもらってるみたいだね。たくさんの人をぶっ殺して、血でまみれて、溝のような宵闇みたいな人でも優しくしてくれる。
人の温かい心に触れちゃった?」
「殺されたいらしい」
パチンと、
です子さんが指を鳴らした。
すると居酒屋の扉が開き、店主が虚ろな目でフラフラと出てきた。
開いた扉の隙間から中を見ると、店内の人間はみんな倒れていて、意識がない様子だった。
これは……です子さんの能力。
"心層操読"
条件付きとは言え、人の心を読み、操ることもできる能力。
しかし、本当にそういう能力なのかは分からない。
彼女が自分の能力についてどこまで本当のことを言っているのか、教えているのかは分からないのだ。
対コミュニケーションにおいて最強の能力。
です子さんに対してなんの警戒もしていない人は、彼女にいいようにされてしまう。
子どものような見た目だから、一般人はなおさら彼女に対して無力だ。
「これで私ごと殺されるようならもう宵闇は諦めるけど……、ちょっと試しにこの人殺してみてもいいかな?」
「……やってみろ」
「あ、いいんだ。オッケー」
です子さんがそう言うと、居酒屋から出てきた店主はガクリと膝を落とし、その場に倒れた。
「あ……!」
俺は思わず声を上げたが、すぐに気づく。
死んでいない。ちゃんと呼吸もしてるし、心臓も動いている。
だけど宵闇さんの距離から見れば、死んだ様に見えるだろう。
俺はです子さんの容赦の無さに圧倒されていた。
これが、Anonymousの幹部たる所以なんだろうか。
溜息さんのパートナーであるです子さんの実力。
「はい次」
間髪入れずにです子さんがそう言うと、次に居酒屋からでてきたのは先程のホールスタッフの女性だ。
先に出てきた店主と同じように、虚ろな目をしている。
この人もです子さんに操られているのだ。
「……」
宵闇さんは口を閉ざした。
「殺るよ? いい?」
「……」
宵闇さんは無言のままだ。
「……なるほどね」
しばらくしてそう呟くと、です子さんは再び指をパチンとならした。
それを合図に、ホールスタッフの女性の瞳に光が戻る。
「あれ、私……?」
近くに倒れていた居酒屋の店主もむくりと立ち上がった。
「あら? 何してんだ俺」
二人は不思議そうな顔をしながら、俺達のことなんか気にも留めずに居酒屋の中に戻っていった。
どういうことか分からずに、俺はロールに視線を投げかけた。
しかしロールも状況が分かってないようで、フルフルと首を横に振る。
「……」
です子さんの眼光に先程の鋭さはない。
「……」
宵闇さんは、殺気を解いて諦めたような顔で立ち尽くしていた。その姿に力強さはなく、気力を失った廃人のような感じがする。
そんな宵闇さんに、です子さんはゆっくりと近づいていく。
俺もロールもわけがわからないままだ。
やがて宵闇さんの前で止まったです子さんは、先程と変わらないトーンで言った。
「宵闇、人を殺せなくなったんだね」
長い沈黙の後、宵闇さんはやるせなさそうな声で答えた。
「……ああ」




