始まりの重圧
「毎日行くよ」と、そう宣言した俺だったが、ロールのお見舞いには行けそうにない。
俺は「バサラ樹海に生息する魔獣達」というタイトルの図鑑を読みながら、ロールにとてつもない申し訳無さを感じていた。
俺が住んでいる街の遥か西に、バサラ砂漠という砂漠地帯がある。車を丸2日走らして、やっと着くらいの距離だ。
バサラ砂漠の中心には、緑豊かな樹海が広大な砂漠に囲まれて広がっている。
これは中心にあるオアシスによって、草木が育つ環境になっているからである。
現在、俺は上空1000mからその景色を見下ろしていた。
ヘリのプロペラの音がひたすらにうるさい。
灼熱の日差しが照りつける。
溶けてしまいそうなくらい暑い。
今日何度目か分からない思考を、また重ねる。
ロールのお見舞いには行けそうにない、と。
ロールには本当に申し訳なく感じている。
繰り返すが、ロールのお見舞いには行けそうにない。
なぜならば、今日から俺は、真下の景色に広がる樹海の中で、一ヶ月間サバイバルすることになったからだ。
そう、溜息さんと一緒に。
どうしてこうなったかを語るには、時は少々遡らなければならない。
一昨日の夜、溜息さんからメールが来た後の話だ。
ーーー
俺は溜息さんから来た謎のメールに戸惑いを隠せないでいた。
「来い」とだけ書いたメールで何を伝えたかったのかが分からない。
どこに?
なぜ?
必要な情報が全てカットされている。
いや、待てよ。
よく考えれば、これが溜息さんの間違いメールだという可能性はないだろうか。
というかこんな淡白なメールならば、「来い」だけで伝わる相手に送ろうとしたに違いない。
そう考えるのが自然だろう。
俺は立ち止まってメールの返信を打つ。「送信先間違えてますよ」とだけ打つと、一度文面を見直した。
なんか愛想のないメールだな。
昨日は助けてもらったし、そのお礼も付け加えておこう。
メールでお礼を伝えるのもあれだけど、それはまた会った時にでもちゃんとお礼したらいいか。
でも溜息さんと組織内で出くわしたことは一度もない。
『送信先間違えてますよ。
それと、メールで恐縮ですが、昨日は助けてくれてありがとうございました』
再び文面を眺める。
よし。
これでいいか。
俺は送信ボタンを押して、訓練室の中に入っていく。
するとすぐにまたケータイから着信音が鳴った。
差出人は「溜息」
返事がずいぶんと早いな。
俺は驚きつつもメールを開いて本文を確認する。
するとそこにはまた「来い」とだけ綴られてあった。
「……」
どうやら俺は溜息さんの所へ行かなければならないらしい。
二度目となれば間違いメールではなかったんだろう。
組織の№2のお呼び出しか。
ちょっと怖いけど、行くしかない。
来いとしか書いてないんだから、それ以外に必要な情報のは推測できる範囲にあるはずだ。
なんのためには分からないが、どこにと聞かれれば、おそらく溜息さんの部屋である。
溜息さんの部屋ってどこにあるんだろうか。
メンバーの部屋番号はメールアドレスと違って共有していないので、溜息さんの部屋がどこにあるか分からない。
ロール辺りに聞いてみるのが良さそうだな。
そんなことを考えながら訓練室を出ると、そこでボスと出くわした。
「死音じゃないか。
昨日の件はすまなかったな」
開口一番謝罪したボスに、俺は慌てる
昨日の件、任務のことだ。
「いえ、俺こそ任務失敗してしまってすいません。俺がロールの足を引っ張ってしまったせいです」
「それは、いや、終わった話はもうやめにしよう」
「そうですね……」
「死音はロールがいなくても一人で訓練か。精が出るな」
訓練はまだ始めていない。溜息さんのメールに俺の訓練は阻止されているのだ。
そうだ。ボスなら溜息さんがどこにいるか知っているかもしれない。
聞いてみよう。
「訓練は今から始めようかと思ってました。
……ちょっと聞いてもいいですか?」
「ああ、構わない。なんでも聞いてくれ」
「溜息さんってどこにいるんです?」
「溜息?
まさかもうあいつから呼び出しがかかったってことはないよな?」
「え? いや、そうですけど。
もうってどういうことですか?」
口ぶりから察するに、どうやらボスは俺の知らない事情を把握しているみたいだ。
とりあえず俺はボスに溜息さんから「来い」とだけ書かれたメールが来たことを話した。
それを聞いたボスは笑いを噛み殺しながら答える。
「溜息なら食堂にいる。先程まで話していたからな。
あいつめ、珍しく気が早いじゃないか」
「俺ってなんで呼び出されてるんですかね?」
「それは行ってみれば分かるさ。では、健闘を祈る」
それだけ言うと、ボスは背を向けて去ってしまった。
健闘を祈るってどういうことだよ……。
何はともあれ、溜息さんのところに行ってみるか。
ちょっと緊張する。
ーーー
アノニマス本部には食堂という施設も備わっている。
無駄に広いこの施設。また改装したらしい。
ロールとは何度か来たことがあるけど、一人で来るのは初めてだ。
結構人がいるな。
アノニマス本部には、戦闘員以外にも工作員、コック、清掃員、研究員などがいるので、食堂はそれなりに賑やかだった。
そんな中、俺は辺りを見渡して溜息さんの姿を探す。
するとすぐに溜息さんは見つかった。
溜息さんは、食堂の奥の一人掛けソファにだらしなく座っていた。
すごいだるそうな顔で半分だけ瞳を開けて食堂に入ってきた俺を見ている。
……とにかく行ってみよう。
何か急かされている気がした俺は、早足で溜息さんの元まで向かった。
溜息さんの目の前に立つと、俺はまず最初に挨拶する。
「こ、こんばんは。死音です」
「知ってる」
ゴクリと唾を飲み込む。
なんだこの威圧感は。
俺は目の前の上位存在にただただ圧倒されていた。
溜息さんは昨日見た格好と変わりない姿でそこに座っている。
座っていると言っていいんだろうか。
限界まで浅く座り、もはや寝転がっているに近いその姿勢。
長い黒髪がソファの背もたれに拡散している。
よく見たらすごい美人だなこの人……。
こうしてしっかりと顔を合わせるのは初めてだから知らなかった。
いろいろ台無しにしてる気がするけど、それも色気になっている気もしなくない。
まずい。
知ってる。で会話は途切れたままだ。
まずは昨日助けてもらったお礼を言おう。
「溜息さん、昨日は助けてくれてありがとうございました」
「…………」
無反応。溜息さんの鼓動はゆっくりゆっくり刻まれている。
無言の時間がまたしばらく過ぎた。
「……それで、今日はどういった要件でしょうか?」
いつまでも無言なわけにもいかないので、俺から本題を切り出す。
すると溜息さんはゆっくりとソファから立ち上がった。
思わず身構えてしまう。
溜息さんは大きなあくびをして目をこすると、髪を掻き上げた。
そしてその髪を掻き上げた手がブレる。
「ぐふっ……!?」
気づけば、俺の腹には溜息さんの拳が叩き込まれていた。
そこで俺の意識は一度途絶える。
ーーー
ゴトンゴトンと体が揺れる。
目を覚ますと、俺は車の助手席に座っていた。
車はライトをつけて夜の街道を走っている。
窓から景色を見てみたが、真っ暗でほとんど何も見えない。
状況が飲み込めないまま混乱していると、俺は運転席に座っている溜息さんの存在に気づいた。
溜息さんは眠そうな瞳をかろうじて開いて運転している。
その姿を見て、俺の脳に気絶する前の記憶が鮮明に蘇ってきた。
「目が覚めたか」
「これ! どういうことですか!」
「はぁ、うるさい」
思わず大きな声を出してしまった俺だったが、溜息さんにそう言われてすぐに萎縮する。
「すいません。これどういうことですか?」
「今日から一ヶ月。つまりロールが療養中の間、私がお前の面倒を見ることになった」
「え!?」
うそだろ?
溜息さんが俺の面倒を見る?
誰が決めたんだそんなこと……!
いや、ボスか……! その話があったからボスは物知り顔だったんだ……!
「文句ならハイドに言え。私は面倒を見ろと言われただけだから、好きに面倒をみる」
「……マジですか」
「嫌なら逃げ帰ってもいい。もっとも、街はもう300kmほど離れてしまっているが」
絶句。
いきなりとんでもないことに巻き込まれている。
溜息さんが面倒をみるだって?
何をされてしまうんだ俺は。
ていうか、これはどこに向かってるんだ。
「これってどこに向かってるんですか?」
「バサラ樹海だ」
「バサラ樹海!?」
「うるさい」
「……すいません」
嘘だろ?
バサラ樹海って言ったらとんでもなく遠いし、やばい魔獣がうじゃうじゃいるって話だ。
そんなところに何をしにいくんだ。
というか指に嵌めてた抑制リングが消えてる……。
「バサラ樹海までは何度か支部の拠点を経由していく。
途中からはヘリだ。
あと、抑制リングは捨てた。あんな物に頼るな」
「捨てた!?」
何してるんだこの人!
「うるさい」
「すいません」
「到着までにこれを全て頭に入れとけ」
言われて俺の膝に放られたのは「バサラ樹海に生息する魔獣達」というタイトルの図鑑だった。
結構分厚い。
「……」
再び俺は絶句していた。
「……バサラ樹海までは何しにいくんですか?
素材調達の任務?」
俺がそう聞くと、溜息さんはだるそうに首を横に振ってから答えた。
「この一ヶ月を使って、私がお前を可能な限り強くしてやる。
言うなればお前の修行だな」
そしてその38時間後の話が冒頭につながる。




