瞬く世界
闇が、黒が、開発施設に向かってズルズルと惹きつけられていく。
弦気は俯きながら、一歩ずつゆっくりとそちらへ向かっていた。
宵闇とハイドの戦いが始まっている。一刻も早く応戦しなければ不味いが、弦気の足取りは重い。
親友、神谷風人の死がきつく体に伸し掛かっていた。
「風人……ごめん、ごめんな……」
その言葉も、今はもう虚無だ。
最も救いたいと思っていた彼は死んだ。
それを悔やんでいる場合ではないのに、弦気の気力は失われていくばかり。
御堂龍帥の息子として幼少から期待されていた弦気は、その実、誰からも称賛を浴びるような正義を抱いてはいなかった。
自衛軍では常に自己犠牲的に働き、その実力と信念を認められていたが、それはこうあるべきという客観的な正義を貫いていたからである。体裁もあった。能力に恵まれたのもある。
だが本当は、周囲にいる仲間達を守ることさえできたら、弦気はそれで良かったのだ。
勿論、赤の他人でも誰かが傷つくのを見るのは苦しいし、それを防ぐために体が勝手に動くこともある。
それでもやはり、弦気の中の理想はいつも一つに絞られていた。
共に笑い会える者達と、平和に、何者にも脅かされることなく過ごすこと。
それが弦気にとっては何よりも幸せで、その理想を叶えるために努力し続けたつもりでいた。
今となってはもう手に入らない理想の世界。
それを悟ってしまうと、弦気は何をもってこの戦いに臨めばいいのか分からなくなる。
守りたいと思う人々はまだ多い。しかし彼らを守ったところで、彼らの平和が守られるだけだ。
弦気の安寧が得られる訳ではない。
この自分本位な想いを、風人が死んだ今、無視することはできなかった。
そして、怒りを理由に戦うのは簡単だ。
お前が風人を破滅に追い込んだのだと、ハイドを糾弾すれば、この体は軽くなるだろう。
それでいいのなら、そうしたい。
しかしどうしようもなく胸に留まるこの悲しみをそれで打ち消せば、もう取り返しのつかないことになる気がしていた。
開発施設が見えてくる。
振り返っても、風人の亡骸はもう目にすることもできない。
最後を看取ることもせずに先を行ったのに、後悔が後から後から降り注ぐ。決して足を止めてはならないのに、どんどん歩幅が狭くなっていく。
「風人……俺は、もう……」
駄目なのだ。
「父さん……、凛……」
なぜ彼らは失われたのだろう。
自分が弱かったから?
悪がいるから?
世界が間違っているから?
「……」
どれもしっくりこない。
ふいに弦気は正面から歩いてくる人影に気がつく。愛花であった。
彼女は何か別の雰囲気を纏っている。この状態の愛花を弦気は見たことがあった。
「……観測者か。愛花は?」
「もういない」
「…………」
また一人、周りの人間が減った。
「私を責めてもいい」
「いいや……、愛花が決めたことなんだろ」
「……ああ」
それなら、いい。
最後に選ぶことができたことを知り、涙ながらに弦気は安心した。
意思を奪われ、自分で何かを決めることすらできなかった少女。
悲しいが、残り僅かの寿命の中で、彼女なりに良かれと思っての行いなら弦気に言えることはない。
「愛花がよろしく言ってくれと」
「……ああ、でも俺は」
結局、彼女も救うことができなかったのだ。
救いたい人だけが、救えないのだ。
「伝言もある」
「……」
「あなたはあなたの正義を。私はそれで救われた。そう言っていた」
それは父の言葉だった。
葉月も、身を挺して弦気にそう託した。
行けよ、親友。
風人の言葉を思い出し、弦気の瞳にはまた涙が溢れた。
自分のようにはなるなと、そんな風にも聞こえる言葉だった。
「う、うぅ……うううぅぁぁ……!」
「宵闇が戦っている。長くは持たない、助けてやってくれ」
涙を拭い、弦気は拳を握り締めた。
戦う理由は、ハイドの目的を阻止するためではない。
二度と風人や愛花のような不幸をこの世界に生み出さないために。
『風人ー! 弦気ー!』
幼い姿の凛が呼んでいる。
一番満たされていた頃の情景。
今から奮起して戦っても、その思い出は守られるだろうか。
……きっと守られるだろう。誰も彼も、弦気が忘れなければいい。
最後の最後まで戦い抜けばいい。
『ごめんなぁ、弦気』
──謝らないでくれ、風人。
許されたかったのは、俺の方なんだ。
そうだ。風人のために自分にできることはまだあるじゃないか。
なぜまだ戦える人間がこんな所で嘆いている?
この戦いを終わらせて、この先もその決意の炎を微塵も曇らせることなく生きていけば、二人の死は無駄にならない。
生きて、生きて、生き抜いて、未来を生きる人々のためにできることをすれば、二人の死に意味を与えられる。
そうやって、戦う理由を少しずつ見つけていけばいい。自分にとっての正義を知っていけばいい。
「ありがとう、愛花」
踏み出した一歩は力強い。気力が湧いてくる。
涙はもう必要ない。
何をしても、贖罪になるかはわからない。
すでに死に際した体でも。惨めにでも。
足掻いてみせる。
「無様な俺を嗤っていてくれよ、風人」
闇夜のカーテンを潜り、光一つない道を弦気は駆け出した。
ーーー
開発施設へと通ずる大通り。死音の亡骸を、空蝉が見下ろす。
予想していなかった彼の顛末に、空蝉は息を吐いた。
「悪くねえ死に顔だ。似合ってるぜ」
恐怖に顔を歪め、光を失った瞳を通りの先へと向ける死音を、しばらく見つめる。彼の目尻に溜まった涙はまだ乾いていない。
空蝉は側にかがみ込み、その瞼をそっと撫で下ろした。
「そう悲観するなよ。お前の生き様、俺は嫌いじゃあなかった」
瞳を閉じてなお、世界に見捨てられたかのような死音に空蝉が語りかける。
「羨ましいぜ、そんな最低の死に方ができて」
楽しませてくれた死音に対する、空蝉なりの祝辞。
衝撃が走り、地面が揺れる。
遠くで宵闇とハイドがぶつかりあったのだろう。
「やってんなあ。俺もそろそろ行かねえと、祭りに乗り遅れちまう」
空蝉は開発施設の方向を見やって言った。
そんな時、ぬるりと、事前に音で連絡しておいた棺屋が、建物の影から現れる。
「おせぇな」
「文句言うな。来てやっただけでも感謝しろ」
「センは?」
「状況を聞いてとっくに逃げ出してる」
センらしい。しかしそれが最適解だ。
ハイドの前に出て不死鳥の能力を奪われでもしたら、それこそ面倒なことになる。
否、それ程の能力、彼はとうに手にしているのかもしれないが。
「悪いがあの中じゃ戦力になれねぇ。送るだけだぞ空蝉。その後は俺もずらかる」
暗闇は宵闇の領域であり、影を行き来する能力の棺屋では噛み合わせが悪い。ハイドが宵闇の時間を奪っていれば尚更だ。
「ああ、貸しじゃねえからなこれは」
空蝉が言う。
「分かってる。その代わり、ハイドを必ず殺してこいよ」
そして棺屋があえて念押ししてくる。
そこで会話を終え、空蝉は最後にもう一度だけ彼の死に顔に視線を移した。
「じゃあな、地獄で会おうぜ死音」
ーーー
宵闇とハイドの戦闘が始まってから10分が経過している。
己の劣勢に宵闇は歯噛みしていた。
襲ってくる暗黒を、暗転で避けながら退いていく。
その度に宵闇が配下に置いていた黒が奪われ、さらに劣勢に追い込まれていく。
宵闇には打つ手が無かった。なにせ、最も強かった頃の自分を相手にしているのだ。
さらにハイドは時間を圧縮して使っている。それゆえに、能力行使の密度が宵闇よりも遥かに高い。
「どうした宵闇、散々息巻いてそれか」
バキバキと、開発施設のあらゆる設備を巻き込みながらハイドの闇が侵攻する。
宵闇とハイドを隔てる建物の壁や柱が飲み込まれ、天井が崩れていく。
宵闇の、半径100mに展開する闇のカーテンが維持できなくなりつつあった。
「俺を見限ったのになぜあの時より弱い。俺を止めに来たんじゃないのか?」
「…………」
ハイドはまだ能力を出し切ってすらいなかった。かつて宵闇から奪った時間を使うだけで彼を圧倒しているのだ。
時間泥棒も警戒しなければならない宵闇が延々と後手に回るのは当然のことであった。
「……まあいい。終わらせてやる」
闇が一気に蝕む。
崩れた天井から月明かりが差し込む。宵闇の制御が失われていく。
宵闇とハイドを隔てる最後の壁が闇によって崩されそうになったその時、ハイドの眼前を瓦礫が通り過ぎた。
「……御堂弦気か」
瓦礫が飛んできた方向に立つ弦気を、ハイドが見据える。
次の瞬間には弦気は消えていた。
透過で床下を経由し、宵闇の隣に移動していた。
「すまない、遅れた」
「……ああ」
「俺しかハイドの視界には入れない。援護を頼みたい」
どうやらそうするしかないらしい。
現実問題、既に時間を奪われ同能力で差がつけられている宵闇にはそれくらいしかできないだろう。
目の前の壁がズンと飲み込まれ、宵闇は正面に黒を展開する。背後から迫る闇にも同様に闇をぶつけ、抑え込む。
「奴の注意を分散させれば……また闇を展開できるかもしれない。そうして隙を伺っていくしかない、か」
歯切れ悪く展望を口にする宵闇。
ハイドに対する認識が甘かったことを認め、立て直さなければならなかった。
御堂龍帥を退けた全盛期の力。
かつてはハイドですら宵闇の敵では無かったという事実が、過信となってしまっていたのだ。
「……分かった」
開発施設の広い中央ラボを闇を従えたハイドが歩む。彼には音支配もあり、宵闇は歪曲音も警戒しなければならない。
しかし、なぜ他の能力で近づいてこないのかが不可解だった。暗転で近づき、歪曲音を使えばハイドは宵闇を封殺できるはずなのだ。
違和感を抱きながらも、宵闇は必死にハイドの闇を相殺し続ける。
何かあるなら、それも探っていくしかない。
闇を避け、弦気が駆けた。
弦気には透過による緊急脱出がある。時間泥棒の干渉も受け付けない。
負担をニ等分にし、適度に攻撃を試しながら、攻略の糸口を見つけるのだ。
彼は防御系の能力も数多使えるのだろう。
先程弦気が接触の拒否で弾いた瓦礫も、ハイドを避けるように飛んでいった。
そうなると能力による干渉を拒否した上で、ゼロ距離での攻撃を通さなければならないが、彼がこちらの動きを感知するのは容易い。
干渉拒否はその性質上、位置の特定をされやすいのが弱点なのだ。干渉を拒否したタイミングや場所での逆探知を行われれば、近づくのは極めて困難だ。
それでも。
「やるしかない……!」
慣性と重力を拒否し、弦気は一気にハイドの前へと躍り出た。
しかし案の定、すでに距離を取られている。
これは詩道の"虚里使い"
弦気に干渉させないため、宵闇が誘った僅かな闇が二人の間に立ち上がる。
距離は弦気に干渉する事象ではないため、阻止できない。
宵闇が闇の結界を狭めればその対策ができるが、戦闘に使えるエリアが狭まることになり、相対的にハイドの視界が広がる。
つまり、一撃で決められなければ宵闇がやられる。彼の能力について何も分かっていない状況でそれをやるのはリスクが高すぎる。
「お前達は、何か勘違いしているな?」
闇の向こう側に立つハイドが言った。
そして、その闇がハイドに吸い寄せられていき、簡単に払われてしまう。
ドクン。
弦気を強い干渉が襲った。
「……ッ! ぅ、っぐぅぅ……!」
あまりに強すぎる干渉に弦気は目を見開き、その場に膝をついた。
宵闇の黒が僅かに勢力を取り戻し、弦気を広く覆う。
「ハァッ……! ハァッ……!」
続けて強烈な吐き気が弦気を襲う。それは能力の過剰行使によるもの。
今のはおそらく、時間泥棒による干渉だ。
ハイドの視界に入る度、今の干渉を受ければすぐに力が尽きてしまう。
そうなれば体に点在する致命傷の負荷を拒否できなくなる。
そして、ハイドに時間を奪われるということは、彼が干渉拒否を手にするということでもあった。
「俺を止められると勘違いしている」
根本的に不可能だと、ハイドは語る。
弦気を覆う闇が次々と取り払われていく。
宵闇の援護も、ハイドにとっては細やかな抵抗でしかなかった。
「ハァ……ハァ……げほっ、ゲホッ……!」
咳き込みながら、弦気は必死に考える。
どうすれば、どうすれば太刀打ちできるようになる。何かないのかと。
しかし、状況を好転させる策は出てこない。
マトモに戦闘ができる相手では、無かったのだ。
自陣の黒がまた後退し、弦気を覆う闇が月明かりが差し込むほど薄くなっていく。
宵闇の必死の制御も、ハイドによっていとも簡単に崩されてしまう。
──たった二人で、負担の分散ができる相手ではない。
そんな結論が弦気の脳裏に過ぎっていた。
その時。
弦気の足元の影に、"手"が現れた。
「……!」
咄嗟に構えた弦気だったが、その手はクイクイと人差し指を動かし、何をするわけでもなくそのまま止まっている。
『手を取れ』
どこからか聞こえてきたのは男の声。
意図を察し、弦気はその手に触れた。
直後、周囲の闇が霧散し、目の前の手もさっと影の中に消えていく。
正面に佇むハイドの干渉が再び弦気を襲う。
それに耐えながら、弦気は崩れた天井からハイドの頭上に向けて飛び降りてきた和装の男を目にした。
空蝉だ。
「やあハイド。僕も来たよ」
棺屋の能力で舞い降りてきた空蝉に、"暗視"でいち早く気がついていたハイドは、なんなく虚理使いによる回避動作をとっていた。
拘束を解かれた弦気が地を蹴り出し、決死の空間拒否で、次元撃をバラまき、ハイドの退避先を絞らせる。
それでも空蝉の降り下ろした手が空振ったその瞬間。
宵闇が機転を利かせる。
能力を無理やり行使し、ハイドから取り戻した僅かな黒の主導権で。
空蝉をハイドの側に"暗転"させた。
ハイドが展開した百零の空間固定を空蝉が"拒否"し、
空振った手は僅かにハイドの肩を掠める。
そして。
「チッ……!」
ハイドの"時間泥棒"をストックに入れることにより。
「ダハハァッ! よォハイド! これでお前も少しは楽しめるんじゃねぇか!?」
空蝉の人格が、再度反転した。




